戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

言葉と行ない

荻野誠人

「先生だって不倫してるんだから、説教なんかする資格はない。」

これは、いわゆる不純異性交遊を教師に注意された女子高生が、あとで口にしたせりふだそうだ。

気の毒に、その教師は生徒にまるで尊敬されていないのだ。そんな教師の説教が軽く聞き流されてしまったことは言うまでもない。

さて、この教師の説教に全然説得力がないのは、自分が今似たようなことをしているからだ。それと同様に、自分が親不幸をしているのに他人に親孝行を勧めたり、自分が遊んでばかりいるのに勤勉を説いたりしても、誰も見向きもしない。そんなことは当たり前だと誰もが思うだろう。

しかし、私は、説教される側がそっぽを向いてしまうのは人情として当然だとは思うが、それが必ずしもよい態度だとは思わない。なぜなら、相手の言葉自体は別に間違ってはいないからだ。それなのに、相手の言葉と行ないが一致していないという理由を持ち出して、相手を無視するのは、結局自分の行ないを改めたくないからなのだ。相手の言行不一致を、自分を甘やかすための格好の口実にしているのだ。

自分のことを棚に上げる人から忠告されたり、注意されたりするのは、確かに腹の立つものである。だが、その時はひとつ冷静になって、相手の言葉のみを考え、それが正しくて、しかもさほどの無理難題でなければ、受け入れてみたらどうだろうか。その方が、ずっと自分のためになる。腹を立てて無視すれば、向上のチャンスを一つ逃してしまうことになるのだ。イエス・キリストも言っている。「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。」(マタイ23章3節)

もちろん、忠告を受け入れることと、言行不一致の忠告の主とをどう評価するかということはまったく別問題である。その人物はまかり間違っても尊敬されることはあるまい。キリストも続けてこう言っている。「しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。」(同上)

忠告する側は、言葉と行ないが一致しているのに越したことはない。一致していなければ、するように努力すべきだと思う。さもないと、不倫の教師のように、せっかくの忠告も逆効果となってしまう。特に、涼しい顔で他人に説教しつつ、自分も同じ悪事を現在続行中というのは最悪である。

だが、完全な一致は普通の人間である以上は不可能だろう。おまけに、たとえば自分の子供時代のことなど、今さら一致させようのないこともかなり多い。「勉強しなさい」と子供に説教している親が、自分が子供の時勉強しなかったからといって、もう一度子供に戻って勉強することなどできはしない(そうしたい親はたくさんいるだろうが)。だから、完全な言行一致の人でなければ、他人に忠告する資格がないというのは極論である。もしそれに従えば、忠告、助言、叱責のたぐいはほとんど姿を消してしまい、多くの人が向上のきっかけを失ってしまうだろう。凡人同士の場合は、相手の言行不一致の部分もある程度は受け入れつつ忠告に耳を傾けたらどうかと思う。もっとも、忠告してくれる人の性格によっては、その人の不一致を逆に指摘するのもいいだろう。その場合は、二人仲よく同じ欠点の克服に取り組むことになる。

さて、私自身も毎度偉そうに説教めいたことを書いているが、自分にこんなことを書く資格があるのかと考え込んでしまうことも珍しくない。それどころか、作品を公にしてしまった後で、古い記憶がよみがえって愕然とすることさえある。そんなわけで、自分が今できていないことを他人に勧める場合は、そのことを正直に書いたり、自分自身も批判の対象にしたりすることにしている。もしそれをするだけの勇気がない場合は、作品自体を書かないことにしている。

もっとも、作品を書く時以外は、自分のことを棚に上げて、知らん顔で説教することも少なくない。特に子供に対してはそうである。たとえば、私は小学生のころは悪名高きいじめっ子だった。今でも私を恨んでいる人がいるかもしれない。ところが今では「教育者」として、大昔の自分にそっくりな子をしょっちゅう叱りつけているのである。

(1992・4・12)


戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp