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街頭募金の思い出

荻野誠人

「さあ、もうやめよう。」

リーダーの大学生が言いに来た。私はほっとした。声は枯れていなかったが、足が靴の中で熱くしびれたようになっていた。もう日は沈んでいた。私たちは駅前広場の一か所に集まって、のろのろと帰りのしたくを始めた。

どうみても、今回の募金は失敗だった。ひょっとすると前回の半分にもならないかもしれない。

私たちは電車に乗って、集会所に戻った。途中、誰も余り口をきかなかった。何か所かに電話をしてみると、どこも似たようなものだった。反省会も少しとげとげしい雰囲気に包まれた。皆利己的だ、冷たい非協力的な通行人への不満が相次ぐ。「何に使うか分かったもんじゃない」とささやくのを聞いた人もいた。「助けてもらいたいのはこっちだ」とののしられた人もいた。私は「だから世の中はよくならないんだ」と心の中で冷笑していた。世の中や大人への日頃の不信がまたも裏付けられたような気がして、妙な満足にひたっていた。

しばらくたってから出た機関誌にも、今回の募金が低調であったことに加えて、一般の人々に対する批判や皮肉を含んだ記事がのっていた。

私がまだ高校生だったころのことである。

* * *

今思うと、私たちのとった態度は間違いだった。内輪の反省会で愚痴を言うくらいはまだしも、公の機関誌にまであのような記事をのせたのは明らかに行き過ぎだった。

募金はあくまで、主催者側が腰を低くして、一般の人たちにお願いするものであり、協力する、しないは人々の自由意志に任せるものである。だから、募金に協力してくれれば、こちらはお礼を言うが、してくれないからといって批判することはできない。批判する資格があるとすれば、それは募金の活動とは無関係な第三者だけである。

ものごとがうまくいかなければ、むしゃくしゃするのは人情である。また、募金が失敗すれば困る人が出るのも確かである。だが、募金の主催者は、どんなに結果が悪くても、どんなに情けない気持ちになっても、じっと堪えて、以後一層の工夫をこらすしかない。一般の人を責めたり、皮肉ったりしたのは、「この募金はいいことである。当然すべての人が協力しなければならない」というような考え方がどこかにひそんでいたからだろう。特に若い私たちはそんな公式が通用すると無邪気に思い込んでいたのかもしれない。だが、慈善事業などに取り組む人と、そうではない人との間に溝をつくってしまうのが、こういう考え方なのではないだろうか。責められた方は、そんな覚えなどないから「偉そうな顔をして」と反発する。すると、責めた方は「やっぱりああいう利己主義者は救いがたい」とますます片意地を張って孤立してしまう。

募金などを主催する人は温かい心と行動力の持ち主なのだろう。そういう人たちがいなければ、世の中は成り立っていかないのかもしれない。だが、だからといって、その人たちが他人に指図できる立場に立っているかのように錯覚してしまうとしたら、せっかくの活動も毎回無用の摩擦や反発を引き起こさずには済まなくなるだろう。活動への協力が人々の自由意志に任されている以上、主催者は、一部の人々の協力したくないという気持ちも尊重しなければならないのだから。

(1993・3・5)


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