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悲しみのうちにあるとき

荻野誠人

肉親の死や、失恋や、仕事の失敗や、非難中傷で、悲しみのうちにあるとき。そんなときこそ、他人の悲しみを理解しよう。

自分の殻に閉じこもり、自分の悲しみに沈むのではなく、恨んだり、妬んだり、怒ったりするのでもなく、思い切って人の心に目を向けて、他人の味わう悲しみに思いをめぐらしてみよう。

自分と同様、人も悲しみから逃れたいのだ。助けてもらいたいのだ。その気持ちが身にしみて分かるだろう。それなのに、人が悲しみの底で涙を流していたとき、自分は何をしたというのだ。それがどれほど冷たい態度だったかを今こそ思い知らされるだろう。

難しいことだけれども、自分の悲しみが生々しいうちに、人に温かい言葉をかけ、少しでも力になろう。悲しみのうちにあるときは、いつもの自分よりずっと優しくなれるものなのだ。

人生に悲しみは尽きないのだろう。でも、私たちは、悲しみを味わうごとに、温かく、優しい心の持ち主になっていこう。

(1992・3・8)


「○○病患者の会」といった、患者やその家族が励ましあったり情報交換したりする団体がたくさんあるが、その中にはその病気で家族を失った人が創設したものがかなりあるようだ。自分が悲しみの底にありながら、他人の悲しみをいやそう、悲しむ人を一人でも少なくしようというその行ないは本当に立派である。だが、もしその人がいつまでも自分の悲しみだけにこだわっていたら、その団体は生まれなかっただろう----。

肉親の死、失恋、仕事の失敗などに直面して、私たちは深い悲しみに沈む。そんな時、ふつう私たちは自分のことしか頭にない。たとえ他人を思い浮かべることがあっても、それはあくまで自分の立場から見た他人、自分の目に映る他人に過ぎない。

だが、自分ばかり見つめているその時こそ、あえて他人の立場に立ち、他人の悲しみを思いやるよう努力するべきだと思う。なぜなら、私の経験をもとにするならば、悲しみに沈んでいる時は、他人の悲しみを身をもって感じ取ることができるからだ。だから、その人がかつて自分と同じように、その悲しみから逃れようとし、助けを求めた気持ちも痛いほど分かる。それなのに自分はその人のために何をしたか----。自分の態度がいかに冷たかったかということを今こそ思い知らされるのである。

そういったことに気づけば、すでにそこには他人に対する思いやりが芽生えている。今度はそれを出来るだけ早く行動に移すのである。悲しみがすっかりいえてしまってからでは、もう他人の悲しみを実感する感性も、他人のために行動しようという意志もにぶっているのではないだろうか。もし、まだ以前の悲しみに沈んだままの友人がいるなら、せめて温かい言葉をかけよう。余裕があれば何らかの形で助けるといいだろう。おそらくその言葉や行ないには普段よりもはるかに心がこもるはずだ。

それはまだ悲しみの中にある自分の行ないだから、熱に浮かされた、地に足のつかないものなのかもしれない。その場限りのものになってしまうのかもしれない。しかし、悲しんでいる友人は喜ぶだろう。自分の悲しみもまぎれるだろう。そして、その行ないはあるいは確固とした心の向上につながっていくかもしれない。

実は悲しみに沈んでいる時の自分には、今までよりもずっと優しい人間になる可能性が秘められているのだ。その可能性を生かすのはそれほど難しいことではない。自分の悲しみにばかりとらわれるのではなく、他人の悲しみに目を向けさえすればいいのだ。

私たちは生きていく間に何度も悲しみを味わう運命にある。だが、心がけしだいでは、そのたびに優しい心の持ち主になっていけるのである。

(1992・6・28)


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