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心と行ない

荻野誠人

「あの人はいい人だ」と言うとき、何をもとにしてそう言うのだろうか。ほとんどの場合、その人の行ないであろう。いい行ないをするから、いい人と言われるのである。

一方、口では立派なことを言っておきながら、行ないがそれに一致しない場合は、非難の対象となりこそすれ、決していい人とは呼ばれない。また、心がどんなに美しくても、それが全く行動に表れないなら、残念ながらその人もいい人とは言われない。つまり、行ないこそがその人の評価を決めるのである。

ということは、たとえ心に少々問題があっても、行ないさえよければ、その人はいい人だということにならないだろうか。

* * *

仕事の上でのライバルが突然入院したとしよう。あなたはどんな反応を示すだろうか。ここではごく単純に三つのタイプをあげてみる。Aタイプはそのライバルのことを心から心配する。Bは内心ライバルの脱落を喜ぶが、そんな自分に自己嫌悪を感じて、ライバルのことを心から心配しなければならないのではないか、何かしてあげなければならないのではないかなどと思う。Cはひたすらライバルの不幸を歓迎する。ライバルのためには何もしない。

Aの人は真にすばらしい人であり、私ごときの及ぶところではない。こういう人はめったにいないのかもしれないが、幸い私には、このタイプの友人が何人かいる。一方、Cはどうも感心しない人であり、私には何もしてあげることはできないだろう。

最後にBの人だが、この作品はこの人たちに読んでもらいたいと思って書いているのである。私もこのグループに入る。

ふつうBの人たちは、他人の不幸を喜ぶ自分の心の醜さに悩む。自分を責めたり、暗い気持ちに沈んだりする。それは良心があり、善悪の基準を知っているからであり、全く悩まなければCの人ということになってしまう。自分の醜さを知るのは大切なことではあろう。

だが、それが実際に他人に迷惑をかけていない限りは、さほど深刻に悩む必要はないのだ。たとえ心の中に醜い気持ちがあっても、正しい行ないをすればそれでいいのである。醜い感情が起こらないようにすることは不可能でも、正しい行ないをすることはそう難しくはない。ライバルの病気を喜ぶ気持ちが起こっても、それにこだわらず、ライバルに優しい言葉をかけたり、面倒を見たりすることはできるのである。そうすれば、その人はAの人と同じいい人なのである。

そして、正しい行ないができたということは、その人の心の中で正しい思いが誤った思いに勝ったということでもあり、その人の心は本人が気にするほど醜くはないのだ。心が澄み切って何の悪い思いも起こらないというような人はめったにいるものではない。

また、面白いことに、さんざん手を焼いた醜い感情が、行動によって静まったり、気にならなくなったりすることも意外と多い。私は、正しい行ないを積み重ねていけば、心も少しずつでも清らかになっていくと思っている。少なくとも私の体験ではそうである。いくら悩んでも、それだけでは心は向上しない。とにかく行動することである。

そういう行為は偽善とは違う。偽善はあくまで偽善者の利益を最終的な目的としたものである。世間体を考えたり、安心させて出し抜こうといったねらいを秘めて病気のライバルの面倒を見るなら、それが偽善なのである。偽善は結局どこかで見返りをえようとするものであり、それはCの人の行ないといえよう。それに対して、Bの行為は自分の気持ちと完全に一致しているわけではないが、あくまでライバルのための行為であり、見返りを求めてはいない。このような行ないは偽善ではない。

言うまでもないことだが、たとえ正しい行ないができていても、自分の心の醜さは常に知っていなければならない。それが知らず知らずのうちに言葉や行ないとなって人を傷つけたりしないように。自分はすばらしい人間だなどと慢心に陥らないように。

だが、人の価値を決めるのはあくまで行ないである。他人に迷惑をかけない心の中の醜さなどでくよくよしたり、自己嫌悪に陥ったりする必要はない。自分の醜さは知っていなければならないが、それにとらわれることはない。まともに相手にする必要はないのだ。悩んでいる人には、もっと行ないの方に取り組んで、明るい気持ちになってもらいたいと思う。この作品は、余り心の清らかではない仲間からの激励のつもりである。

(1991・6・25、1992・8・8 改稿)


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