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解釈の迷路

荻野誠人

 阪神大震災の後、一部の知人たちはこの地震を、自然を破壊し続ける人類への神の警告だと解釈した。中には神の愛情の表現だと言った人もいて少し驚いたが、心がけのいい人は助かったという意見をあるミニコミで読んだ時、私は内心開いた口がふさがらなかった。では、死んだ人は最も心がけの悪い人になるわけか。遺族や被災者がこれを読んだらどう思うだろう。実は読んだ人もかなりいたはずだ。悪意で書いたのではないと信じてはいるが、それでも余りに無神経だ。私は地震は地震で、それ以上でもそれ以下でもない、純粋な自然現象だと思っている。もちろん震災から自分なりに様々な教訓を学びとるのは自由だし、そうあらねばならないのだろうが、神があの地震を引き起こしたという解釈は受け入れられない。そんな強大な力を持っているとすれば、創造神以外には考えられないが、私はそういうものの存在を認めないからだ。

 知人の震災解釈に触れて思い出したのが、以前入っていた宗教の一部の信者たちの発想である(あくまで一部である。念のため)。何しろこの宗教では万能の創造神がすべてを支配していることになっているので、どんなことでも神の意思の反映になるのだ。この人たちは、誰かが病気になったり、事故にあったり、とにかく不幸なことが起こると飛びついて、様々な解釈を下す。想念が悪い、布教を怠けている、前世の罪だ、先祖の罪だ、とまあろくなことはない。人の不幸を面白がっているのではないかとさえ思われる節もあった。そして結局、もっと活動しろ、供養しろ、献金しろ、とくる。もちろんその解釈は下手な鉄砲も・・・だったと思っている。その証拠に一つの事件でも解釈は十人十色であった。もっとも私自身も当時は時々下手な鉄砲を撃ったことを正直に言っておかなければならない。

 震災を神の警告と解釈した人や宗教団体の人と、私のような人間の違いは何だろうか。前者は世の中は人智を越えたものが何らかの意図をもって動かしているという世界観の持ち主で、後者はそんなものは存在しないと思っているというところだろうか。

 個人がどんな世界観をもっていようと、他人がとやかく言う筋合いはないだろう。しかし、その人が自分の世界観をもとに他人の不幸についてあれこれ言いはじめれば話は別である。やはり責任のある発言をしてもらわなくては困る。だが、宗教の人たちの解釈には根拠が何もないのである。例えば入試の失敗の原因を不勉強に求めるのは、本人が本当に不勉強だったら、十分に根拠も説得力もある。本人が真面目にやっていたかどうかも身近な人なら知ることはできる。

 しかし、失敗を神の警告だの、前世の報いだのと言っても、言っている人自身に何らかの確固とした根拠があるわけではない。自分の頭の中で適当に推測しているだけである。極端な言い方をすれば口から出まかせだ。あるいは本や団体の偉い人の物真似である。そもそも不幸の原因などというものは不幸の数だけあるはずで、それを十把一絡げのずさんなものの見方でとらえられるわけがない。そんな無責任な言葉を聞いて、ただでさえ落胆している本人はどう思うだろう。

 私はどんな世界観をもっても個人の自由だと言った。その人は自分のことはその世界観で判断してもいいだろう。しかし、他人のことに口を出すときは、相手が納得する根拠をもとにしてもらいたい。それができなければ、黙っているのが一番いいと思うが、いかがであろうか。

(1997・1・4)


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