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出家と在家

荻野誠人

 サラリーマンが仕事を辞めて、寺で修行しているという記事を時々目にする。そのたびに羨ましいなと思う。世間の煩わしさから逃れて、一心に修行に打ち込む。何と素晴らしいことだろうと思う。私は座禅が好きだから、出家するなら禅寺だ。さわやかな空気の中で、静かな禅堂で、気合を入れて座禅に励む----。そうして毎日修行を積んでいけば、何だか私でも悟れそうな気がしてくる。ところが、現実ときたら座禅するのは暇な日の午前中だけで、しかも「もうやめよう」などと妥協しながらやっている有り様だ。これでは百年座っても悟れるわけがない。

 しかし私が実際に出家することは多分ないだろう。その理由は色々ある。ただ、今の仕事への執着や金銭などはそのうちには入らない。

 まず私は、お釈迦様は尊敬しているが、仏教徒ではない。今の仏教のあり方には、大いに疑問や不満をもっている。そんな人間がお寺の世話になるわけにはいかないだろう。

 それに禅寺の修行は仏教の中では最も厳しい。情けない話だが、軟弱で我の強い私は、粗食、短い睡眠時間、細かな作法や規則などに堪えられないだろう。

 最後に出家は私にとっては、安住の地を求めての逃避になるような気がするのだ。結局自分を甘やかすことにつながると思うのである。出家すれば、世間の人達よりも価値観の近い仲間と一緒になれる、寺という組織に保護してもらえる、という期待がある。その証拠に、無人の荒れ寺だったら、出家しようという気にはならないだろう。こんな気持ちでは、お寺や仲間に失礼なだけでなく、厳しい修業になおさら堪えられないと思う。本当に出家するなら、仏の教えを極めようという純粋な気持ちが主な動機になっているのでなければ、修業は続かないのではないか。

 私のような人間はもう少しこの社会の中で頑張った方が自分にとってはいいような気がするのだ。だから、サラリーマンの出家の記事を見るたびに、羨ましいと思いつつも、自分に鞭を当てるのである。

(1996・10・10)


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