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転落の心理

荻野誠人

 世の中には弱者を助けたり、不正を追及したりする目的の団体が数多くある。そこには無償で献身的に活動しているすばらしい人たちも数多い。さらにその人たちをまとめ、先頭に立つ指導者ともなると、いかにも崇高な光輝くような人にさえ見えることもある。

 しかし、その団体の活動が華々しい成功を収め、一般の参加者が涙を流し、手を取り合って喜んでいる間に、彼らの指導者が少しずつおかしくなっていくことがあるのだ。初めその指導者は、自分は絶対に正しい、他人は皆自分より劣っているという態度を取り始める。この段階で指導者の変化に気づくのは少数の感覚の鋭いものだけである。やがて独断でものごとを処理し出し、他人の忠告には耳を貸さず、自分に忠実な者だけを周囲に集め、批判的な者を遠ざけ、追放したりするようになる。そのうちに金銭や男女の問題がふき出し、せっかく築いた人間関係も崩れ、活動も停滞してしまう。挙げ句の果てには裁判ざたとなったり、団体が分裂したりしてしまうことさえある。

 私はいくつかの公益を目的とする団体に関係していたので何度かそういう事態を見聞きしてきた。一度などは当事者となって、私の面倒を色々とみてくれた恩師と言ってもいい人と衝突する羽目になった。その恩師が人を使って私を追放しようとしているのを知った時のあの情けない、悲しい気持ちは二十年経った今でも忘れられない。

 だが、他人のために喜んで自分を犠牲にしていた高潔な指導者たちが、どうしてあっという間に堕落して、気がついたら、三流政治家顔負けの醜い争いを演じるようになっているのだろうか。

 実はボランティア団体の献身的な指導者の心の中にも、自己の欲望を満たすために権謀術数に明け暮れる俗物が最初から存在しているのだ。その俗物は、指導者が人類愛に燃えている間はとりあえず大人しくしているが、機会さえあればいつでも飛び出す用意が出来ているのだ。ごく少数の生まれつきの人格者や、厳しい修行の末自分の醜さを完全に封じ込めた人格者などを別にすれば、多くの指導者が少し油断すればたちまち転落する危うさを秘めている。たとえ今どんなに清らかで、愛に満ちていても。そういうことを当人が知らなければさらに危ない。

 転落の心理は次のようなものだろうか。まず何かの活動で成功を収める。指導者は自信をつける。周囲に褒められ、さらに自信をもつ。成功が何度か続くうちに自分は優秀だ、立派だという思いが強まってくる。そう思うのは気分がいいので、ますますその思い込みは強くなる。成功は単なる偶然だとか、仲間あっての自分だとかいう考え方は余り気分がよくないので、捨てられてしまう。

 そのうち自分は常に正しいという心地よい幻想にとりつかれる。こうなると終わりである。他人の批判、忠告は受け付けない。うるさい人間を排除しようとしはじめる。問題が起これば、他人のせいにする。そして常に自分は正しいのだから、何をやっても正しいということになる。そこで自己抑制のたががはずれて、名誉、権力、金銭、異性を恥も外聞もなく追い求めるようになる。指導者になれるくらいだから、その人の支配欲や名誉欲などは人並み以上に強いのが普通である。こうして指導者の心に元々潜んでいた俗物が完全に解放され、すっかり人柄が変わってしまうのである。

 このように指導者がただの俗物に成り下がってしまえば、いいことは何一つない。その指導者の人格を信じてついてきた人たちの受ける衝撃ははかりしれないし、社会的な意義のある活動も停滞してしまうし、せっかく築いてきた世間の信用も失われてしまう。では、そういうことが起こらないようにする予防策はないのだろうか。組織を変えることも一つの方法である。権力を分散する、監視体制を強める、任期制を導入する・・・いずれも効果があるだろう。だが、私は個人の心の向上の方を追究したいので、ここではその点にしぼって次の四点をあげたい。

 一つ目はありふれているが、反省の習慣を身につけることであろう。特に何かで成功を収めた時は必ず自分を点検して、慢心していないか、他人の功績も素直に認めているか、成功したとはいえ改善の余地はないか、といったことを確かめるべきだと思う。

 二つ目はよい友人をもつことである。仲が悪くなるのも覚悟で厳しい忠告をしてくれ、道を踏み外しそうになった自分を引き戻してくれるような友人である。だが、こういう友だちは一朝一夕にはもてない。よほど腹を割ったつきあいを長年続ける必要があるだろう。しかもそういう友人のせめて何分の一かの良さがこちらの方にもなければならないのではないだろうか。

 三つ目は座右の銘となるよい書物をもつことである。自分の心は常に動いているから、おかしくなることもある。しかし、書物はいつも変わらない。書物も友人と同じようにのぼせた自分の頭を冷やしてくれるのである。しかし、これも普段からの読書が前提である。また、自分の信念などを慢心する前に文字にしておくのも同じ効果がある。

 四つ目は、私自身は実行したことがないのだが、大自然の中に身を置く機会をできるだけ多くもつことである。この方法は古今東西、多くの人々が実行して効果を上げているようだし、私の知人にもそういう人がいる。つまり、大自然の中で自分のちっぽけさを思い知れ、自然に生かされている自分に気がつけ、ということである。そうすれば慢心に陥ることも他人を見下すこともなくなるわけだ。

 以上の方法は、慢心に陥ってからではもう実行不可能である。自分が団体の指導者になる前に身につける必要があろう。

 しかし、この提案で指導者の堕落は完全に防げるかというと、やはりそれは無理だろう。このような提案を抵抗なく受け入れるような人は、私ごときが提案しなくても自分で似たようなことを実行できる、余り危険性のない人ではないか。逆にいずれ転落してしまう人は、私の提案を聞いても、何とも思わないか、あるいは納得したような様子を見せたとしても、実は聞き流しているだけなのではないだろうか。

 残念ながら、やはり組織の改善も欠かせないようだ・・・。

(1996・10・26 1997・1・9 改稿)


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