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鏡の向こう側

----『心の風景 第三集』に寄せて

向井俊博

猿の群れの中に鏡を置くと、興味をそそられた猿が近づいたかと思うと、恐る恐る鏡の中をのぞき、とびすさったり近づいたりをくり返すうちに、やがて鏡の中の自分の姿に歯をむく。中には怪訝(けげん)なふりで鏡の後ろ側に廻っていく猿もいる。こんな微笑ましいシーンを先日テレビで観た。だが、猿にとって所詮、鏡は異なもの、要らぬものであろう。

人はどうかというと、猿と違って、本来自分の姿を何かに映して身繕いする性(さが)をもっている。川面に姿を映す水鏡にはじまり、金属を磨いて鏡としたりして、古来より自己認識の大事な道具としてきた。時には、文学や映画にとりあげられるように、鏡の向こう側を神秘なものと思った。


鏡というと思い出すユダヤの寓話がある。万事に満ち足りているはずにもかかわらず心が晴れぬ大金持ちに向かって聖者が譬(たと)えをもって諭す話である。

「そこの窓ガラスから何が見えるか」という聖者の問いに、富者が「町の人が見えます」と言うと、聖者は「そこの壁にかかる鏡の前に立つと何が見えるか」とさらに問いを重ねる。「私です」と富者が答える。「他人は見えるかね」と聞かれて「見えません」と答える。

聖者が言う。「鏡も窓ガラスも同じガラスである。違うのは、鏡の裏には一面に塗りものがしてある。これがたくさんくっつくと他人は見えなくなり、見えるのはエゴばかり、己ばかりなのだ」と。

鏡の裏にくっつくもの、これはいったい何であろうか。私は、それを業と心のクセだと思っている。人である限りどうしようもないものの見方、考え方、そして経験を通してくっつけていく心のクセである。透明であればよいが、濁ったつきものは鏡にますますエゴを映しだす。


ところで、私たちは老若男女を問わず毎日、一度は鏡に向かう。身だしなみはよいか、とりわけ顔の具合にいたっては念入りに点検し、手入れをする。

こうして日に何度かは鏡に自分の顔や姿を映すが、自分の心は滅多に映さない。醜いところが多いから見たくもないし、それより顔かたちと違って人に見られる訳ではないので気にしないのである。こんな具合だと、鏡の裏には塗りものがべったりとついてしまって、寓話のようにエゴいっぱいの顔しか映らぬに違いない。

しかし、人に見られないからといって、心の醜さを放っておくわけにもいかないだろう。時には鏡に映さねばならない。これには勇気がいるが、心身共に美男美女を望むなら鏡に向かい、見苦しいところを整えていくしかない。そうしていくうちに、鏡の裏の汚れた塗りものも、部分とはいえ剥(は)がれていき、透明なガラスとなったところから他人の姿や自然が、うっすらと見えるようになるはずだ。

悟りを開いた人は、エゴがなく、ありのままの世界が見えるという。寓話の例でいうと、鏡のかなりの部分が素通しのガラスになっているということであろう。鏡の要らぬ人がいるとすれば、それは神様だけだとふと思う。

さて、たまには自分の心を鏡に映してみよう。鏡の中の自分の姿はどうであろうか。鏡には一部でも透き通ったところがあるだろうか。そこから人の顔や生き生きとした景色が見えるだろうか。


荻野君の編集する『心の風景』は、こういった鏡の向こう側の風景のスケッチだと思っている。鏡の向こう側を知ることは、互いに鏡の裏の汚れを磨いていくのに、何よりの励みとなろう。


本誌のさらなる発展と、人の輪の拡がることを願ってやまない。

----みんなが、鏡の向こう側をもっともっと見るために。

(平成4・3・30)


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