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冥土の土産

向井俊博

四谷怪談ならぬ「四月怪談」という映画を観た。

女子高生のハツ子が、通りすがりに工場跡地で天井からの鉄骨の落下に遭遇、実際はかすりもしなかったのだが、ショックのあまり死んでしまう。そこから、現代風の明るい怪談が始まる。


死んだハツ子が冥界をさまよううちに、早く肉体に戻って生き返りなさいと説得する幽霊が現れる。結局は説得されて生き返るのだが、その過程で生きることの素晴らしさをアピールしていて、他愛ないオチがあるものの、なにか気になるドラマであった。

あの世へ行ったハツ子の描写が面白い。あの世とはいってもまだ現世をさまよっている状態であって、自分から現世の世界は見えるが、現世の人間からは彼女が見えない。行きたいところを頭に描くと、そこへぱっと行ける。肉親や友達のすぐ近くまで行き、大声で呼びかけるが、ちっとも通じない。とこんな具合である。

こうして現世をさまよっているとき、ハツ子は捨て犬に出会う。可哀そうになり頭をなでようとするが、霊体だからなでられない。エサをあげたくてもあげられない。何とか救おうと、四次元や超能力に興味をもっているクラスメイトの男子を訪ねる。彼には霊視能力があるらしく、ハツ子の姿が見え、まだ訃報を受けていない彼は、子犬を救ってくれというハツ子の頼みを聞き入れる。

頼まれた彼は、イオン測定器まがいの幽霊探知機を試作中で、霊体のハツ子が近づくとピーピー鳴るので、作りそこないで調子が悪いと照れるところが愉快だ。

こういうシーンを観ていて感じた。我々が死んだら当然肉体は失うが、生前肉体に宿っていた霊体は残るのではないか。霊体がこの世をさまようとしたら、これとまったく同じ按配になるのではないかと。

行こうと思ったところへは肉体がないからぱっと行けるが、その代わり、肉体で感じたり、身体でもって物に影響を与えることは一切できない。意志や思いがあっても、ハツ子のように捨て犬を見ても何もしてやれぬのだ。

そうすると、肉体をもって満足するグルメやセックスといった欲望だけをあの世に持ちこんだら大変なことになる。肉体がないから欲望を満足させられず、まさに地獄の沙汰であろう。こんな風に思うと、あの世にはいったい何を持って行くべきか考えざるを得ない。

さて、再び「四月怪談」のドラマに戻ろう。

説得役の幽霊の弁がふるっている。「まだこちらへ来るのは早い。あなたは一番大切なものを見つけていないではないか。生き返ってそれを見つけてきて欲しい」とハツ子を諭すのだ。

この一言は、彼女でなくてもグサリとくるものであろう。この世に生まれてからこのかた、大切なものをもう見つけたであろうか。まだならばうかつに死ねぬことになる。

そんなこんなのシーンを観ていて、この世で見つけるべき大切なものとは何であろうか、そしてこの世で得てあの世に持って行けるものは何であろうか、と考えこんでしまった。

肉体を失っても魂が残るとすれば、あの世へ持って行けるものは、「記憶」と「思い」であろう。「思い」というのは、欲望と意欲、それに思考力と価値観ではなかろうか。

九死に一生を得てよみがえった人の話によると、死に際に、自分の一生の洗いざらいの記憶が走馬灯のように一瞬のうちによみがえったとあるから、記憶はそっくりあの世へ持って行けそうだ。肉体がある時は、奥深くしまわれた記憶はひもときにくいが、死んで肉体的制約が解ければ、忘れていた記憶もよみがえるのだろう。

そうなると、悪意を持って為した行為の記憶や、よみがえると辛い記憶まで息を吹き返すわけで、これまた大変なことだ。崇高な思いより、深浅はあろうがギラギラした欲望のなせる業(わざ)のほうが多いに決まっているので、よみがえった辛さにしまったと後悔してもあとの祭り。この辺の印象を、閻魔様の前で裁きを受けるなどと昔の人は言ったのであろう。閻魔様がいるかどうかは別として、一生の全記憶がよみがえるなら、自分の浅ましさ、不甲斐なさに針のむしろに座す気持ちになるに違いない。それに、自分のやったことだから自ら責任を取らざるを得ず、こればかりは「地獄の沙汰も金次第」というわけにはいかない。

記憶のほかにあの世に持って行けるものは、「思い」である。まず欲望であるが、肉体にへばりついたものは、きちんと整理すべきであろう。なにせ、もう肉体はないのであるから。意欲はどうであろうか。より善く生きるという意欲だけは、肉体の有無にかかわらず大切なものであろうから、これだけは一番に持って行きたい。その他の諸々の意欲は二の次だ。

思考力であるが、これは記憶とはちょっとばかり違う。記憶として取りこんだ知識ではなく、考える力そのものである。ものごとを判断する力、考えていく力である。これは、この世でもあの世でもどんなに環境が変わろうともぐんと役立つはずだ。

こういった意欲、思考力は一生かかって磨き上げるものであろう。彼岸此岸を問わず、無気力と馬鹿は困るのである。「馬鹿は死ななきゃなおらない」なんて言うが、死んで急に目ざめるわけはない。「蒔かぬ種は生えぬ」である。ひたすら磨くしかない。

もう一つ、持って行けるものの中で大事なのは価値観である。善いことを善いと感じ、美しいものを美しいと感ずるいわば物差しである。これも、一生かけて磨いていくもので、ものごとを深く見つめるほどにこの物差しは光ってくる。

たとえば善悪に対する物差しでも、「一日一善」的なものから、宗教や哲学が求める至高の善に到る深いものまである。美しさに対しても、野の何気ない雑草や、夜空の星一つにも宇宙的な崇高な美を感じるといった、まさに光る物差しまであり、要は磨き方次第なのだ。

と、いろいろ考えてはみたが、とにもかくにも冥土へは空っぽの風呂敷を下げて行くわけにはいかないということだ。風呂敷の中身は、この世でつちかった「記憶」と「思い」、これしかないというのが私の結論である。お金や名誉のたぐいは土産の風呂敷にもならぬ。


----さて、くだんの怪談のラストシーンをご紹介しよう。

生き返った主人公のハツ子は、もう一度味わいたかった水溜まりをバシャバシャ歩く感覚をか みしめようと、登校の途中、運動靴を泥まみれにして水溜まりを走り去って行く。「アビニオンの橋で踊るよ踊るよ・・・・」と口ずさみながら。

この歌を時折思い出すたびに、生きていることの素晴らしさを思う一方、冥土の土産の少なさに慌てるのである。

(平成4・6・30)


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