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自分のことばとの出会い

渡辺視紗子

人が成長していく時、そこにはさまざまな出会いがあり、気づきがあるように思う。私は自分のことばに出会ったことで自分の内面に気づくことができた。

どういう理由からかよくわからないが、私は子どもの頃からずっと「いい子だと思われたい」という願望が強かった。ほんとうは何も自慢できることなどないのにプライドが高く、幼いのに演じることを知っていたように思う。

地方に住んでいた私は、耳ざわりのいい東京アクセントに魅力を感じ、「あんなことばを話せたら、みんなよりもっといい子に思われるだろうなあ」と考えるようになった。それがいつのまにか都会に憧れ田舎を卑下するようになり、横浜にある親戚の家へ遊びに行っても田舎者扱いされたくなくて彼らにことばをあわせ、決して田舎弁を出すまいとつっぱっていた。ことばを装うことで田舎者から都会人になれたような気分になり、私はそれで満足していた。

本読みも大好きで、アナウンサーみたいに上手に読みたいと懸命に練習をしたのを覚えている。そして学校で誉められるのが嬉しくて、その度に、きれいな発音できれいなことばを話すことで上等の人間になれるのだと信じ込んでいった。

子ども時代にこうして故郷のことばを拒否した私は、懐かしい土の香りのする方言を今も自分のことばとして話すことができない。

それからずっと、大人になっても、人によく思われたいという気持ちは変わらず、ことばを装うことで中身のない自分をカバーしてきた。自分中心に物事を見、人の気持ちも理解できず、世間知らずのくせに正論ばかりを口にしていた。だが、カラッポの心は、何をしても満たされず自分でも自分を好きになれなかった。夫はそんな私の一面を知っていて、それでもまるごと優しく包んでくれた。「いつか自分で気づくだろう」と。注意すれば、自分の正当性を主張する私を知っていたのだ。

人の気持ちを感じるよりも、「自分の正しい考え」を伝えることが先にある自分に、とうとう長男が中学生になるまで気づくことはなかった。私は子どもにも「人によく思われるいい子になってほしい」と願い、特に大きな間違いをしたというのではないのに、長男の日常生活についてつい細かく注意を与えていた。「机の上を整理しなさい」「部屋をきれいにしなさい」と。それがそのうちに説教になってしまうのだった。

ある日、いつものように説教する私に長男が反発したのである。

「僕はお母さんのロボットになれへん!」

ショックだった。自分では、いい子になってもらいたいという一心で立派な事を教えているという自信があったし、まして母親のために子どもを動かしているという意識などまるでなかったからである。しかし、あなたのためと言いながら、ほんとうは誰のためかを子どもは見抜いていたし、表面的にいい事ばかり言う母親の人間性にシラケてしまっていた。それなのに私は、どうして自分のことばがこの子には届かないのだろうか、どうしてもっといい子になりたいと願わないのだろうかと悩んでいた。母親から押しつけられていい子になどなれるものではないのに!第一、私のことばには人生の中で培ってやっと言えるような重みがない。私の軽いことばは、子どもの心に当たって空しくはね返るだけだった。

この時にしてやっと自分のことばが実際にはどんなものであったかということに気づいた。そして心のあり方が自分のことばに反映されることを学ぶことができた。幼い頃からずっと私の心を支配していた「いい子だと思われたい」願望の奥には人よりも優位に立つことで認めてもらいたい自己中心の世界があった。心の空洞は他者への思いやりのなさで、そんな劣っている自分をみられたくなくて、ことばを装ってきたように思う。

でも自分の子どもにはありのままの私しか見えなかった。純粋に子どもへの愛情からでたことばしか伝わらないのだ。子育てより自分育てをしなければ! 他者を思いやる心が足りない自分をありのままに受け入れた時、その部分を満たしたいという希望が湧き出てきた。もっともっといろんな物を見よう。聞こう。読もう。体験しよう。そんなプロセスを経て初めて言えることばで話せる人間になりたい。

ことばを巡ってずいぶん長く心の旅をしてきたように思う。その間色々な事を学び発見した。ことばは人の心と心をつなぐもの、どちらかが優位に立った時にたちまち切れてしまう。ことばは人の心の表現、心のあり方がことばに表れる。相手を思いやる心から出た飾りのないことばこそ美しい--。

私の心の旅はまだまだ続く。

いつか豊かなことばの源をもつ自分に出会えることを楽しみに。


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