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「こころ」ってなんだろう?

佐藤眞生

1、「こころ」の正体

日本に固有の文字はひらがなです(*)。漢字は中国伝来のものだし、カタカナは漢字に付された読み方として発達し、後に西洋文字に付されるようになったものです。日本の言葉の固有の意味はひらがなからひもとくのが最も正しい方法だと思います。そこで、古代文字の書を調べてみました。

古代文字における「こ」は舟、あるいは漕ぐの「こ」です。「ろ」は櫓の「ろ」です。「こころ」は櫓で舟を漕ぐという意味になります。

ところで、古代文字における舟は、太陽を運ぶためのものです。太陽は旭であり「ひ」と読みます。舟は朝昼晩と太陽を運ぶものであり、漕ぐの「こ」と読みます。太陽と舟は「ひ」「こ」(日漕、日子、比古、彦)です。この「ひこ」に神の原点があります《このあたりは茨木市にお住まいの日本画家であり書家でもある山本東さんに教わりました》。

以上の示唆から、私はこころは太陽を運ぶもの、つまり、世界観や人生観、理念や基本方針を決める機能そのものではないかと考えます。

〔注・ひらがなが日本固有の文字である、という説には異論もあります。〕

2、「こころ」の性質

世界観や人生観、理念や基本方針は、人間にとって一番大切なこと、すべての元になることです。それを決める働きをこころだとしますと、そのこころはどんな性質を持つのだろうかということが問題です。

1)こころのあらわれ方

こころは知情意にあらわれます。何かを知り理解する知性、喜怒哀楽の感情、思考し実現を求める意志、これらはこころのあらわれ方です。

2)知情意を決めるもの

脳が決めているのでしょうか、全身が決めているのでしょうか、それとも脳や体という物質を越えるものがきめているのでしょうか。私はどうも物質を超越した何かが決めているように思います。なぜなら、知情意には意識と無意識の両面があるからです。無意識の知情意もあります。抑えなければならないと思いながら気がついたら拳を振り上げていたり、夢を見たり、私自身の経験ですが、見たこともない文字がスラスラ書けたりします。これらはまさに無意識のこころの働きです。
うまく言えませんが、知情意を決めている実体は宇宙と自然の持つ秩序に対する直観ではないかと思います。宇宙は多次元世界、自然は物質世界で、物質世界は多次元の潛象(*)世界に規定されていると考えていますが、その宇宙と自然とのつながりをどのように受容しているかということです。また、そのつながり故の人間の役割、つまり生かされている条件を維持する役割をどのように受容しているかということでもあります。

3)こころの性質

こころが物質ではなく働きだとすれば、こころは無限で、自由で、全体だということになります。体は有限で滅びますが、こころは消滅しません。体にはさまざまな制約が伴いますが、こころは本来何物にも拘束されず時空を越えます。そして宇宙と自然の秩序に対する直観がこころの源ですから全体そのものです。すべての物質は部分であり、宇宙と自然の秩序に導かれます。

〔注・「潛象」とは、動いているが、水面下にあって見えない、という意味です。〕

3、「こころ」と体の関係

健全な肉体に健全な精神が宿るといわれます。体が健全でないと精神は不健全だということになります。病人はみな精神異常でしょうか。

死期を知った人はみな仏のこころを持つともいわれます。死を受け容れた人は、どんな悪人でも善人になるというのです。

どちらが真実なのでしょうか。私は健全な精神が健全な肉体をつくることができる、体に病気があっても健全な精神を維持することはできると思います。

こころと体の関係は、精神と物質、無限と有限、全体と部分の関係です。私はこころが体を規定する、精神が物質を決める、無限が有限を律する、全体が部分を導くと考えます。なぜでしょうか。

「心内にあれば詞外にあらわる」、「心は行動にあらわれる」からです。つまり、こころにないことは外へあらわれたり、行動にはなりません。言葉や行動はこころから発します。意識している場合は勿論、無意識の場合もこころは停止しているのではなく働いています。その構造は次のようになっていると思います。

    宇宙・自然の秩序
       ↓
    無意識のこころ(直観)→行動
       ↓
社 会→意識されたこころ←文 化
       ↓
      行 動

4、「こころ」の進歩

物質の進歩については誰もが認めるところです。こころについてはどうでしょうか。

人類は、世界中、国も民族も自治体も企業も個人も、利他心ではなく利己心を優先させています。自己謙譲や自己抑制ではなく、自己主張と自己拡大の行動に明け暮れています。戦争や紛争が絶えることなく頻発しています。人類自身の生存が危うくなるのも顧みず、自然破壊を止めようとしません。このような状況をこころの進歩といえるでしょうか。こころの進歩は全くといっていいほど認めることができません。

5、「正しいこころ」

もし、正しいこころというものがあるとしたら、それは進歩し続けるこころということになると思います。そこでこころの進歩とは何か、正しいこころとは何かについて考えてみたいと思います。

正しいこころとは、とぎすまされた直観そのものだと思います。直観というのは経験や理論によることなく、宇宙と自然の秩序の本質を感得できることをいいます。

人間の直観は自然状態、例えば、原生の自然で人間が生き物としての機能を使いきっている場合に最もとぎすまされたものになると思われます。それは縄文時代の人々の大半が普通の能力としてテレパシイを持っていたという研究(*)を見れば明らかです。人工の都市生活者は生き物としての機能を退化させ、テレパシイどころか、直観を萎えさせています。現代の都市生活者は、脳は20%、心肺機能は50%、筋肉は30%程度しか使っていないと報告されています。

とぎすまされた直観を取り戻すことができれば、人間は正しいこころを持つことが可能になると思います。それは次の問いに「その通り」と答えられるこころだと思います。

1)宇宙という無限世界の秩序が、自然という有限世界を導いていると思えますか?

自然界を導いている無限秩序は、「循環」(個体が消滅しても種は存続する)と、「全体」(すべての物質は一体であり連鎖し相補し均衡している)です。

2)生命はつながり(一体・連鎖)であり、人間にも生かされている役割(相補・均衡)があると思えますか?

人間には己のことの前に宇宙と自然と社会と文化に対する役割があります。

3)自分の生き方について、物質にとらわれない、物質を超越した生き方こそ正しいと思えますか?

物質にとらわれない生き方とは、次のように認識できることをいいます。

◆心身不二、知性は肉体に宿る。それ故人間は放っておくと物質にとらわれる。
◆耐える、抑える、合わせることがこころを進歩させる。
◆すべてを損得ではなく、善悪で判断する。

〔注・縄文人のテレパシイについては、次の文献をご覧ください。

  • 『甦る縄文の思想』梅原猛・中上健次。有学書林。
  • 『縄文の地霊』西宮紘。工作舎。
  • 『古代幻想と自然』高内壮介。工作舎。
  • 『自然と民俗』篠原徹。日本エディタースクール出版部。
  • 『古代日本人の自然観』舟橋豊。審美社。〕


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