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命の重み

荻野誠人

交通事故で一家の大黒柱を失った家庭の子供に奨学金を出している団体があるが、どうも最近その活動が周囲の十分な協力をえられなくなっているようだ。たとえば昨年(1988)の街頭募金は、途中でマスコミが報道してくれたにもかかわらず、目標額をかなり下回ったということである。「カネあまり時代」だというのに、何とも淋しい話ではないか。

一方、原発反対運動は昨年空前の盛り上がりをみせたそうである。だが、少なくとも日本では原発のおかげで死んだ人はまだ一人もいない。それに対して、交通事故で死ぬ人は毎年九千人を越える。しかもその数には事故が原因でしばらくたってから死ぬ人は含まれていないのである。後遺症に悩む人、怪我をした人はその何倍にものぼるだろう。さらに遺族の苦しみ、悲しみがある。そのうえ今年も来年も間違いなく多くの人が命を失うのである。それなのに、原発全廃を叫ぶ声は聞こえても、交通事故の主役である自動車全廃を叫ぶ声は一向に聞こえてはこない。原発よりも車で死ぬ可能性の方がはるかに高いのに、一体なぜだろう。

それは車の方が私たちの生活にずっと密着しているからだ。車の製造販売を仕事にしている人をはじめとして、車を仕事や遊びで使う人の数は数え切れない。車の恩恵にあずからない人は日本には一人もいないとさえ思えるくらいだ。車は私たちの豊かで快適な生活を支えているのである。もしある日突然車が消えたならば、日本の経済は大混乱に陥ってしまうであろう。車の重要性は原発の比ではない。誰もが車の全廃など非現実的だと思うであろう。

しかし、そう思うということは、自分の豊かで快適な生活の代償として多数の犠牲者が出るのを黙認しているということでもある。「人一人の命は地球よりも重い」などと言う人もいるし、街頭で「人の命は地球よりも重いと思いますか」とインタビューでもされれば、かなりの人が「はい」と答えるだろう。だが、実際には私たちはそうは思っていないのである。

もっとも、私はそのことで人を責めようとは思わない。残念な気もするが、私も含め人間とはそういうものだと思っている。

とはいえ、交通遺児のための運動が今一つ盛り上がらないことなどを聞くと、多くの人が犠牲者の存在に対して、許される限度を越えて鈍感になってしまったのではないかと感じるのである。ひょっとすると私たちは犠牲者のことを必要悪として軽く考えてはいないだろうか。余りにも頻繁に繰り返される交通事故のニュースに慣れてしまってはいないだろうか。いわば私たちの生活を支えるために失われた命なのである。せめてその命の重みをかみしめることが、車を手放すことのできない私たちのつとめなのではないだろうか。

(1989・2・11)


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