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感動の落とし穴

荻野誠人

私がある宗教団体に属していたとき、奇跡を体験したり、信者に親身に世話をしてもらったりして大いに感動し、これから活動に全力を尽くします、と皆の前で決意発表をしている人をよく見かけたものである。涙を流す人も珍しくなかった。周囲もその人たちをほめ、期待して、いきなり役職を与えることさえあった。ところがその人たちの活動の多くは長続きしなかった。皆あれほど感動していたのに、一体どうしてなのだろうか。

それはそもそも感動というものが、常識に反し、実際にはそれほど強いものではないからだ。感動の最中には、自分が清められ、すっかり生まれ変わったような気持ちになる。多くの人がそれをすばらしい体験だと思っている。私も同感である。だが、そのすばらしさに気をとられ、感動を過大評価し、感動すればその場で心も向上すると錯覚しているのではなかろうか。だから宗教団体の人たちも、感動していた人たちに拍手を送り、信頼して役職を与えたのだと思う。しかし、実際には、いくら感動しても、そのときその人の人格が向上するわけではない。たとえある偉人の行為に感動したとしても、その瞬間に同じことができるようになるわけではないのだ。

感動は、それ自体では確固とした高い人格をつくることはできない。ただ、感動は自分がこれから到達すべき目標を指し示し、激励してくれる。もし、ある偉人の行為に感動したのなら、それが自分の目標となる。だから感動は出発点であるといえるだろう。だが目標が決まっても、そこへたどり着くのは容易ではない。人格を高めるためには大変な努力が必要である。感動するのは一瞬のうちだが、この努力は長い間地道に続けねばならない。その努力の末に優れた人格を身につけ、それが多少の苦難などにはびくともしなくなってこそ、初めて感動は実を結んだといえるのである。もし確固としたものを何も生み出さなかったとしたら、その感動はあだ花ということになる。それは美しい体験として記憶に残るのみである。

私は宗教団体の人たちのあの感動がにせものであったとは思わない。強い弱いはあっただろうが、みな本物の感動だったと思う。それなのにその後の活動が長続きしなかった原因の一つは、感動のあとの油断だったのではないだろうか。感動のあとがむしろ大切なのだということを知らなかったために、人格の鍛練がおろそかになってしまったのではないだろうか。もし感動が出発点に過ぎないと知っていれば、あの人たちも気持ちをひきしめ、心の修行に励んだかもしれない。そして、周囲の人もより冷静に、人材を育てようという気持ちで接していたかもしれない。そうすれば、あの人たちの感動はもっと豊かな実を結んだのではないだろうか。

(1987・1・8、1988・12・31 改稿)


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