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うっとりするということ

向井俊博

海が懐かしく、三浦半島の海辺へ一人足を運んだ。磯遊びにはまだ早く、人影のない岩場に腰をおろすと、単調な波打ちのリズムが心を静めてくれる。

水ぎわの岩は黒くぬれ、ふじつぼの殻を波がくり返し洗っている。ぼうっとしていると、自分がこの世にたった一人でいるような実感と、目の前にある風景が自分のもののような感じになってくる。

そのうちに我を忘れてしまったようだ。どれくらい時間がたったのだろうか、海鳥の鳴き声にふと我にかえると、途端に眼前の風景は文字通り自分の前にある風景に戻ってしまった。

この直前の状態をどう伝えたらよいのかわからない。「うっとり」というのはこのことをいうのだろうか。


海辺でのこの経験は、しばらく忘れがたい余韻を残した。短い時間ながら、自分と周りの世界との境界が薄らぎ、たとえようもない充実感があったからだ。

そこで、こうした時間を日常の生活に持ちこめぬか、今にして思えばつまらぬことを考えた。波の音をふんだんに吹きこんだ瞑想用のレコードを求め、これに聞き入ってみたのだ。

何度聞き入ってみても、心が静まりこそすれ、海辺での深い充実感はよみがえってこなかった。理由はすぐにわかった。音だけの切り取られた世界だけがあって、海と岩とのプレゼンスがないので、あるレベル以上の充実感がわかないのだ。

だが、「うっとり」というのは、私たちの人生にうるおいを与えるものだという確信だけは深まっていき、くだんのレコードは埃をかぶってしまった。


考えてみると、深浅の差こそあれ、「うっとり」は日々の暮らしの中のそちこちに息づいている。無邪気に遊ぶ子供を見つめている時、絵画に見入っている時、親しい友と胸を開いて語り合っている時、道ばたの草花に足をとめる時がそうだ。

この状態はというと、どの場合にも、自分の心は対象に向かって開いているのに気がついた。

心を開き、対象との境界が薄まる度合いによって「うっとり」の深さも違ってくる。


人はもっと「うっとり」すべきではなかろうか。

それには、自然を、人を、心を開いて見つめる。近くの草木一本でも、心を開いて眺める。あらゆる風景を、心を開き、心底から見つめることである。

さもないと、私たちは周りの風景から孤立し、世界を失ってしまうだろう。

(1989・9・30)


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