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一つの出会い

土肥千保

地下鉄の階段を上り外に出ると、もう薄ぐらくなっていた。

待つ人もいない我が家なのに急に気忙しさに押されるように、都内でただ一つ残された都電沿いの道をはや足で歩きはじめた。

二十メートルも行ったあたりで、放置されていた自転車が突然足元に倒れてきた。思わず「アッ」と大きな声をあげた。幸い、危ういところで怪我をせずにすんだ。

そのときすぐ前を歩いていた高校生だろうか、声におどろいて振り返りざま「僕ですか」と言うように人差指を自分の方に向け、立ち止まった。

この頃はこんなときでも知らぬふりをして行き過ぎる人の多い中で、ちょっと好感がもてた。その学生が鞄を少しゆらすように歩いていたのを思い出し「そうね、あなたの鞄がちょっとさわったのかネ。」続けて「うーん、こんな狭いところに自転車を無造作に置いて、ほんとうに自分のことしか考えないんだから」と日頃のうっぷんをはらすかのように言った。学生は自転車を起こしながら「スミマセン」と小さな声で応えた。日頃、若者の行儀の悪さや思いやりのなさなどを嘆いていた私は「オヤ」と思った。すると学生は「この近所の方ですか」と話しかけてきた。

チンチン電車のほんの一停留所分を肩を並べて歩いた。自転車が並木の植え込みの中で倒れて、なにか植木が「イタイヨーイタイヨー」と叫んでいる声が聞こえるようだと話しあいながら。こんな若者もいるんだなあと思った。荒れる若者は、私たち大人の責任でもあるような気がしてきた。

智性とは学問だけでなく恥を知ること。品性とは礼儀あること。智性や品性を取り戻すために私たち大人も若者と大いに語りあう必要を思い、この学生の明るい未来に思いをはせ、手を振って別れた。


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