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かけっこ

家治綾子

田舎道を、綾は父のうしろ十米ほどひき離されて走っていた。

わら草履の鼻緒がゆるんでいて、前にはみ出した綾の足の指が血でにじんでいる。

ゴールに到着した父が、こっちを向いて立っている。

「綾ちゃん、こんなこっちゃあ、なかなか勝たれへんど・・・」

父はびっちゃり濡れた綾の頭に手を置いてそういった。

綾が父とかけっこを始めてもう一週間がたっている。

父は、朝早く近くの工場へ出かけていき、夕方帰ってくるという毎日であったが、汗を流したり、一服したりする暇もなく、綾のお相手をすることになったのは、陸上部でもない綾が、五年生から学校代表の百米走に選ばれたからであった。

ヨーイ・ドン!

スタート地点で、かけ声と共に手を振り下ろす父の合図で、まず綾がスタートを切る。その後、数秒たって父がかけ出すのだが、あっという間に下駄の音が近づき、さっさと追い抜いていくのだ。綾の横にくると、いつも「おさきに」といわんばかりに綾の顔を見て笑う。

父のちびた下駄の裏が綾の目の前で上下しながら遠ざかっていく。

綾はチクショウ!と思いながら頑張るのだが、いつも距離は縮まらなかった。

綾が毎日父と走る練習をするようになったのにはわけがあった。

五年生からもう一人、民ちゃんが選ばれていた。民ちゃんのお父さんも叔父さんも小学校の先生で、いつも民ちゃんに厳しい目が注がれていた。

「今日から毎日学校に残って走る練習せえ!」

ある日、民ちゃんの叔父の小川先生から、突然二人に命令が下った。

なんだろうといぶかる二人に、先生は、岸和田市立の小学校連合運動会に選手として参加するのだと説明した。

民ちゃんは、五年生にしては大柄で発育もよく、健康そのものだった。だれが見ても家柄の立派なお嬢様と分かる。

それにひきかえ、綾は疎開者で、かかりつけの医者から「栄養失調ですね」といわれるくらい、小さくやせこけていた。

二人は正門前の地道を、白線で百米に区切り、両手をついてスタートを切る練習、ゴール近くでスパートをかける練習、百米の秒を縮める練習を繰り返した。綾はすぐ疲れた。三十分もすればもう帰って横になりたくなった。それでも綾の方がゴールに早く到着する時があった。

「こんな小さいもんに負けてどうすんや!」

小川先生にしてみれば民ちゃんが勝って当たり前、綾に負けるようなことがあれば、けとばして怒鳴りつけた。そのたびに民ちゃんは声をあげて泣いた。大きな目から涙がとめどなく流れる。そんな民ちゃんを小さな綾は抱きかかえるように洗面所へ行き、顔をパシャパシャ洗いながら、一緒に泣いた。

綾はせつなかった。小さな胸がしめつけられるようだった。

<民ちゃんばっかり可哀相や、民ちゃんだけに厳しすぎる。時々は私もけったらええのに。>

綾はいつまでも顔を水につけながらそう思った。

「先生、体の調子が悪くて毎日の練習ができそうにありません。やれそうな時一人で練習しますので帰らせて下さい。」

「そうか。」

しばらく綾の顔をみつめていた小川先生はあっさりそういった。

民ちゃんはその後どうしたのか綾はしらない。

「お父ちゃん、お父ちゃんと一緒に走る練習したいんやけど・・・」

「なんでやねん。」

「百米走の学校代表に選ばれてん。」

「学校で練習せえへんのか。」

「今日までしてたけど・・・今日でやめてん。」

「なんでや。」

いつも綾は、学校であったことや、不思議に思ったことを父や母に話したり、相談したりしていた。

父は綾のいうことをすぐ分かってくれた。そして父との練習が二週間続いた。眼鏡の奥に見える父の目は、どんな時でも優しかった。いつも慈愛に満ちた眼差しと励ましの言葉があった。あれほどしんどいと思った走る練習も、父の速さを努力目標に、日に日に走る楽しさが増してきた。

遂に連合運動会の日が来た。

「精一杯がんばってくるんよ。」

母はそういいながら、真新しい地下足袋を手渡してくれた。母が手で縫ったものだ。父と二人で練習している時、何もいわなかった母だが、こんな形で応援してくれていたのだ。

綾は畳の上ではいてみた。ぴったりだ。

<でも、ちょっと恥ずかしいなあ。こんな足袋、きっと誰もはいていないに違いない。>

心の中でそう思いながら、お弁当、水筒、手拭いと一緒にリュックにつめた。

岸和田市内の会場に当てられた小学校は、紅白のテープで美しく飾られ、風にひらひらと揺れていた。

広い運動場も開始時刻前には各校の選手で一杯になった。

綾の体がこきざみにふるえ始めた。どの選手も綾にははるかに大きく強そうに見える。太ももをたたいたり、深呼吸をしたりして、自分を落ちつかせようと懸命だ。民ちゃんはと見ると、いつも通り華やかに笑っている。

百米走は六十米走に続いて、プログラム二番だった。第一レースに民ちゃん、第二レースに綾の名があった。

胸は早鐘のように高鳴り、目がかすんで、あたりの景色が消えては現れ、また消えていったりする。民ちゃんが何番目にゴールしたのかさえ分からない。

予選のコースは八人中、一番内側だった。綾の苦手なコースである。一直線上にあるコーナーに目をすえて、スタートを切った。いつもスタートは上々、第一コーナーでは二三人がダンゴ状態になり、二人に抜かれてゴールした。民ちゃんは予選落ち、綾は辛ろうじて通過した。

四百米リレー、八百米リレー、中距離走と、プログラムは次々と展開していった。

綾の学校の男子勢はなかなかの成績を修めている。綾にも観戦する余裕が出て来た。

綿入れの袋に包まれたお弁当は、まだ温かい。ふたを開ける綾の心はときめいた。

まっ白なお米のご飯、卵焼きに魚の切り身。ご飯には海苔やおかかが二段に敷かれている。久し振りに嗅ぐこの匂い。綾は味わうようにぽちぽち口に運んだ。日頃、家庭では食べられないお弁当。今ごろ、姉や妹たちがどんなものを食べているのだろうと、少し胸が痛んだ。

さあ、いよいよ決勝。午前中のあの興奮状態はまるでない。あたりの風景が広々と見える。同校の選手の顔も、先生の顔もきちんと見える。

今度は六人中一番外側のコースだ。綾は、スタートラインから第一コーナーを目がけて斜めに走るこの位置がお気に入りだった。

位置について! ヨーイ! パーン!

綾は勢いよく跳び出した。足の裏に伝わる地下足袋の感触が心地よい。しかし第一コーナーを曲がったのは綾が最後だった。そのまま順位が変わることなくゴール・イン。

観客席にもどった綾の背中に屈辱感がのしかかってきた。折り曲げた膝小僧に額をおしあてて涙を隠した。背中がプルプルと震えた。後ろから背中をなでてくれる上級生。綾は涙が乾くまで決して顔を上げなかった。

綾にとっては長い長い一日だった。足をひきずるように帰途についた。

「今日のお弁当、ものすごう、おいしかった。」

綾はお弁当箱と土にまみれた地下足袋を、母に手渡した。母は綾の顔を伺うように見た。

「あかんかった。」

綾の自慢話を期待していた父と母に一言そういった。

「そうか、そうか、よかった、よかった。」

父は綾の労をねぎらった。綾のまぶたの裏がぶっとふくれあがるのを、どうすることもできなかった。

「お前はいつも一生懸命や、精一杯がんばっとおる。それがええんや、それがええんや。」

温かい父の言葉が綾の心をそっと包んでくれた。

濡れた手を拭きながら、台所から座敷へ上がってきた母も、二三度首を振るようにして微笑んだ。

<明日から、また走る練習しよう。六年になったら負けてられへん。>

重たい布団を頭からすっぽりかぶり、足を前後に曲げ、走る格好をして眠りについた。


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