戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

大学名について

荻野誠人

 私の知っているかなり大きなボランティアの学生グループでは、互いに大学名を名乗らないことになっているらしい。聞いてみたことはないが、大学名にまどわされて、本人を誤ってとらえてしまうことのないようにとの配慮なのだろう。あるいは、いわゆる無名大学の学生が劣等感をもたずにすむようにとの思いやりなのかもしれない。
 最近は学歴信仰も揺らいできたようだが、まだまだ肩書で人を判断してしまう傾向は根強い。お恥ずかしい話だが、私自身も、相手が一流大卒だと聞くと少々緊張し、そうでないと何となくほっとしたりする。いや、正直言って、時には相手を見下す気持ちすら生じてしまうしまつである。だから、学生グループにそういう決まりがあるのは十分理解できる。
 しかし、その狙いはもっともだとは思うのだが、私はどうもその決まりそのものに賛成できないのである。なぜなら、学歴はその人のすべてではないが、その人の一部であることは間違いないからだ。それにあえてふれないというのは、大学名を過大に評価するのと同様、その人を正しくとらえることにはならない。しかも、隠すことはかえって目立たせることにもなり、大学名を意識させまいとして、逆に強く意識させてしまうのである。
 では、どうすればいいのか。私はやはり大学名は本来の扱いをするのがいいと思う。つまり、過大評価も過小評価もせず、ひけらかしたり、隠したりすることもなく、ありのままに扱うということである。ものごとの自然な成り行きで大学名が出るのなら、出るにまかせればいい。
 それが出来れば苦労はしない。出来ないから、決まりをつくったのだ、と反論が出るかもしれない。確かに、大学名に左右されずに人を判断するのは、世間の風潮もあって今のところなかなか難しそうである。まして無名大学でも全く卑下しない、というのは実際にはありえないことかもしれない。
 しかし、判断力は鍛えればある程度は向上するものである。大学名を隠していては、それに惑わされそうになる自分と格闘する機会は永久に訪れない。また、劣等感が生まれてしまうのはどうしようもないとしても、それに振り回されずに少しずつ慣れていくことは決して不可能ではないし、勉強、スポーツ、趣味などに打ち込んで克服してしまうことも出来るだろう。若いうちにそういう智恵を身につけることも大事ではないだろうか。
 それに、私がこんな理想のようなことを書けるのは、何と言っても、このグループの若者たちが思いやりの持ち主だからだ。判断力を養うことも、劣等感を克服することも、こういう仲間の中ではずっと容易になるはずだ。このような仲間同士で、大学名を伏せるといった水臭い決まりをつくる必要などないではないか。

(1993・11・17)


戻る目次ホームページヘ次へ  作者・テーマ別作者別

ご感想をどうぞ:gb3820@i.bekkoame.ne.jp