からくり心・ひと心向井俊博 昔、田舎のおばあちゃんが握ってくれたおにぎりはおいしかった。今、コンビニエンスストアで求める機械じこみのおにぎりには、その味がない。何故だろう。 手あて療法や気功をやる人だったら、手で握るときに何かがこめられるからだと言うに違いない。それも多少あるかもしれないが、むしろ意識の奥に人の心の介在を感じるかどうかの方が大きいのではなかろうか。もの心つかぬ赤ちゃんが、誰よりも母親の背で安らぐのと通ずるように思うのだ。 おにぎりに限らず、心がこもる機会そのものが昨今とみに少なくなってきた。便利で豊かな暮らしになるほど、人の心の介在がうすれていく。便利さの厄介な代償である。 心の形成に大事な子どものときからして、テレビやテレビゲーム、コインを入れれば「有り難うございます」を繰り返す自動販売機に囲まれていく。ゲーム機を操れば、思いのままに動かせるといったからくり心に慣らされていく。こういった寒々とした環境のなかで、真の人間らしい心、ひと心を育み、持ち続けていくのには、努力と気構えがますます必要になってきているようだ。 近ごろ、若いお母さんを見ていて、辛い思いをすることが多い。人込みで自分の子を連れていようものなら大変だ。子どもの手をつかみ、やれあっちへ行くな、早く歩け、これに触るなと自分の思ったとおりに、子どもの心を無視してひたすら操る。からくり心の発露としか思えない。 実名を出して恐縮だが、今年の十一月に報道された将棋の森安九段刺殺事件は、まさにショッキングな出来事であった。精神的に追い詰められた十二歳の御子息に刺されたという痛ましい事件であるが、プロの棋士としての理詰めのからくり心が、教育熱心に比例して出てしまい、ひと心を見失っておられたのではなかろうか。 この痛ましい事件が胸の中にまだ余韻を残していたある日のこと、近くの駅ビルの通路で、母親とその手にすがっていく女の子との会話がすれ違いざま耳にとびこんできた。 「マーちゃん、さっきは有り難うを言ったの?」 「あっ、いけない。言わなかった」 「いいのかなあ?」 「こんど気をつけるね、ママ」 母親の顔を見上げる女の子の仕ぐさがかわいかったのでつい聞き耳を立ててしまったのだが、子どもに注意を促し、みずから気づかせ、その上で反省するよう仕向けているお母さんのひと心に感銘した。ふつうだったらからくり心でもってぎゅうぎゅう理詰めに攻め立て、叱りつけておしまいとするところであろう。 |
おにぎりを心をこめて握ることに通ずるひと心の大切さを、マーちゃんのお母さんにしみじみと気づかせてもらった。 (平成5年12月15日) |