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北朝対南朝その4

後醍醐天皇、3種の神器を渡すも…

勢力を盛り返した尊氏は湊川で新田義貞・楠木正成を破ります。 焦って後醍醐は比叡山に篭もりますが、(正成の言うとおり、湊川の敗戦前に比叡山に移動していればよかったかもしれませんが) 兵糧を絶たれ状況は良くならない。 ついに後醍醐は内密に尊氏との和睦を決意します。

この和睦案を知った義貞と義貞の家臣達は猛然と講義をしました。 すると尊氏との和睦は一時的なもので、義貞には後醍醐は息子の恒良親王と共に北陸に言って力を蓄えてほしいといいました。 だが義貞は尊氏と後醍醐の和睦が行なわれると、逆賊になってしまうことを心配します。 そんな義貞に対し、恒良親王に譲位するといって3種の神器を渡しました。

そうして義貞を宥め北陸へ向かわせた後は、恒良や義貞のことを忘れたかのように、尊氏との和睦では光明天皇(光厳の弟)に3種の神器を渡しました。

その後、後醍醐は幽閉されるがしばらくすると吉野に脱出する。 そうすると後醍醐は以下のように主張しました。 「光明に渡した神器は偽物で私が本当の天皇である」と!

ちなみに、義貞といっしょに北陸にいった恒良親王は後に足利方に捕らえられ毒殺されてしまいます。 正直、同情を禁じえないです。

南朝劣勢だが、足利方にも問題が…

後醍醐が吉野で南朝を起こした後、新田義貞は斯波高経に、北畠顕家は高師直との合戦で討ち死にし、 後醍醐も北朝:暦応2年・南朝:延元4年(1339年)に亡くなり、後村上天皇が後を継ぎます。 だが南朝側は代が変わっても北畠親房の北関東での拠点作りが失敗したり、苦しい状況が続きます。

対する足利幕府も体制が磐石というわけではなありませんでした。 足利尊氏の弟の足利直義と足利家執事の高師直の争いが表面化してきますと、南朝は重要なキャスティングボードを担うのことになります。

皇位と3種の神器に対する考察

上記のように北朝:建武3年、南朝:延元元年(1336年)後醍醐はまず恒良親王や新田義貞に、 その直後に光明天皇や足利尊氏に3種の神器を渡している。 さらに自分が吉野に脱出するや自分が本物の3種の神器を持っていると主張をします。 つまり3種の神器が3つあることになってしまっています。 こうなると3種の神器の価値が下がるように感じてしまうのは私だけでしょうか?

無論、3種の神器は天皇のシンボルであり、ないよりあった方が良いです。 しかし決して神器=天皇ではありません! 例えばいつの時代でも皇族の一人が勝手に3種の神器を持ち出して、「これからはおれが天皇」と言っても誰も認めてはくれないでしょう。

しかも後醍醐はその2でも述べました通り、かって光厳の即位を強引に否定した実績があるのです。 また、こういう状況になってしまうと、3つの中でどれが本物の3種の神器かは分からないというのが実情でしょう。 (ちなみに後に北朝は和睦のした時に得た神器を使い、光明から崇光天皇へ譲位してます)

南北朝時代での天皇の権威

この時代は朝廷というものが重要なポイントだと思いますが、朝廷の権威が低くなってしまった時代でもあります。 光厳上皇が法事である寺へ向かう途中、有力な武将である土岐頼遠の一行に対し、 上皇の従者が「院の御前である、下馬せよ」といったところ「院というか、犬というか犬ならば射ってやる!」と矢を射った。 (光厳はつくづく弓に縁がある)

高師直・師泰兄弟は「都に王というものがいるらしいが、どうしても必要なら木か金で造っておけばいい!」と方言しています。 彼らには天皇が人間どころか、動物や物と同レベルにされてしまっています。

ここまで朝廷の権威が落ちてしまった理由としては朝廷が持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)に分かれて何十年も経過してしまい、 それが当たり前に思えるような状況になってしまったことも大きな要因だと思います。 最高権威が1つでなく、2つになってしまったのだから当然、権威は下がってしまいます。 その責任は後醍醐や光厳よりも後嵯峨の偏愛にあると思っていますが!

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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲