歴史のページへ戻る

北朝対南朝その3

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐が捕らえられ隠岐に流されても、西国では護良親王・楠木正成・赤松円心などの人々が鎌倉幕府の六波羅軍と戦っていました。 彼らのゲリラ戦や篭城に六波羅は苦戦しいられます。 そうこうしているうちに足利高氏・新田義貞といった鎌倉側の御家人まで反北条の兵を挙げます。 六波羅探題は足利高氏に攻め落とされ、六波羅探題の北条仲時は光厳天皇と共に鎌倉に落ち延びようとしますが、途中で無理と判断して自害します。 光厳や持明院統の上皇は捕らえられてしまいます。(この時、太平記によると光厳自身もひじに流れ矢をうけるありさまだったといいます)

鎌倉も新田義貞に攻められ、得宗家の北条高時は東勝寺で自害します。 こうして鎌倉幕府は滅亡して、後醍醐による建武の親政が始まりますが、後醍醐は自分が隠岐に流されていたときに光厳が即位していたことを認めません。 その間も自分が天皇だったと言い張ります。 この時、光厳は太上天皇の位を贈られますが「天皇だったものではないが自分の皇太子だったこともあるので特別に」と後醍醐にいわれます。 (同じような屈辱を約60年後に今度は後醍醐の孫の後亀山天皇が味わうことになります)

中先代の乱

鎌倉幕府が滅びると大半の公家は大喜びしたのかとかというと違います。 大喜びしたのは後醍醐の側近ぐらいで、鎌倉幕府があったころと比べて持明院統派の公家等は冷遇されますから面白くありません。 北条と親しかった西園寺公宗は北条泰家(高時の弟)や時行(高時の子)らとクーデーターを謀りますが失敗します。 しかし時行は信濃で挙兵。中先代の乱が起こります。 一時は北条軍が鎌倉を制圧しますが、足利尊氏(高氏から改名)によって鎮圧されます。

足利尊氏、建武政権との決別

だが、足利尊氏も建武政権に不満があり、弟の直義の勧めもあって、しばらく鎌倉に留まります。 尊氏は後醍醐天皇と戦うことに悩みますが、ついに新しい幕府を開くことを目指して後醍醐と戦うことを決意します。

尊氏は京都に攻め上がるも敗れて九州に落ち延びることになりますが、その敗走の途中に尊氏は光厳上皇の「院宣」を手に入れます。 (光厳上皇から「院宣」をもらうことを尊氏に提案したのは赤松円心等いくつか説があります) 天皇に逆らう「逆賊」になってしまうことに尊氏は悩んでいましたが、光厳上皇の「院宣」があれば「逆賊」ではなくなります。 (正確に言えば後醍醐からは逆賊のままでしょうが、逆に新田義貞や楠木正成は光厳からは逆賊になります) 多々良浜で菊池武敏を破って勢力を盛り返すと足利軍は再び京都へ向かいます。

後醍醐天皇が重祚しなかったことが疑問

ここで私の疑問点を1つ書きます。 後醍醐天皇が隠岐から戻ってきた時に、 「治天の君」(上皇)や重祚(歴史的に見れば後醍醐はこれが正しいでしょう)しようとしなかったのか?という点です。 宋学の視点で「天皇が国を治める」と思っていたから、上皇にならなかったのはまだ分かりますが、重祚した人は以前にもいるし、 それでもいいのでは?と個人的には思いますが、後醍醐にとっては自分が隠岐に流されている間の人事を認めたくなかったのでしょうか?

しかしこういうことを行なえば、3種の神器を持っていたものでも天皇ではないということにつながってしまいます。 後の後醍醐の行動とかなりの矛盾が出てしまうことになります。 (当時の後醍醐に後に持明院統が復活することなど考えてもいなかったのでしょうが)

武力で強制的に行なわれた譲位だったと言う意見の方もいるかもしれませんが、様々な圧力で強制的に退位させられた天皇は他にもたくさんいます。 (後醍醐も光厳も含めまして) また後醍醐も武力で鎌倉幕府を倒して天皇に返り咲いたのです。

その2へ戻る その4へ続く

・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲