足利氏の家紋 新田氏の家紋

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足利氏と新田氏その2

足利・新田両氏 詳細系図

源姓足利氏と源義朝の結びつきは強く、義朝の長男である義平の妻に新田義重の娘がなったり、 (まだこの娘は当時そうとう幼い年齢だったと思うが) 足利義康は熱田大宮司家の娘を妻にしている。(頼朝の母もこの一族)

義康は義朝と共に保元の乱を戦い従5位下に任じられる。 新田義重は自領にいたようだ。(藤姓足利氏とのこともあり、離れるわけにもいかないと思う)

この頃、義重は藤原忠雅に寄進し新田荘が名実ともに成立する。 忠雅は平清盛の娘を妻としてたから、清盛とも関係を持ちたいと思ったかもしれない。 (当時、義朝より清盛の方が勢いがあったし)

またその頃、源姓足利氏にとってショックなことが起きる。 保元2年(1157年)義康が病死してしまう。まだ義康の子は幼く不安になったと思う。 (義康やその子達の生年は不明だがその時は兄の義重すら23歳)

ただ何が幸いするか分からない。 当主である足利義兼(義康の3男)は幼いためか平治の乱には参加してない。 もし義康が生きていたら保元の乱同様に義朝と共に戦っていたと思う。 そしたらそこで源姓足利氏は滅びたかもしれないし...。

平治の乱後は完全に平氏の天下である。 ただ義重と忠雅との結びつきからか新田も足利もそんなに不遇な時代ではない。 むしろ義重は従5位下に任じられ、1161年に源姓足利氏と藤姓足利氏での領土の一部を巡っての裁判も源姓足利氏が勝利している。 この頃は新田と足利の関係は友好だったと思われる。 (先に書いたように義兼は幼いころは義重が後見していた可能性もある)

ただ以仁王の挙兵の頃になると足利氏も新田氏もそれぞれ独自に行動するようになっていた。 義兼の庶兄の矢田義清は以仁王側として戦い、後に義仲の配下となる。 義兼は頼朝挙兵後すぐにその配下となった。 (先に書いたとおり、義兼は母親の系統でも頼朝に近いのでその影響もあるかもしれない)

義重は頼朝挙兵後、自領に戻り石橋山合戦に参加はしてないらしいがその様子を清盛に報告。 さらに寺尾城で反頼朝の兵を集めようとした。しかし兵はあまり集まらず頼朝に降伏している。 また義重の子の山名義範や孫の里見義成は独自の判断で頼朝についている。

鎌倉時代の足利・新田氏の明暗を分けたのはここが大きな理由だったと思う。 つまり足利が嫡流で新田が庶流というのはあまり関係がない。(どちらも頼朝からみれば庶流だろう) この時の行動が逆なら足利が冷遇されて新田が栄えたかもしれない。

新田氏は一時敵対行動を取ったためか頼朝から信頼されなかったし、平家や奥州藤原氏との戦いでも活躍の場は与えられなかった。

義兼は北条氏の娘を妻とし(政子の妹)足利氏躍進の基となった。 また源平合戦では西国にいっていないが、頼朝の命により武田氏の勢力を弱めるために甲斐に出陣している。 また奥州藤原氏と戦ったときは頼朝に従軍している。

また長年のライバルだった藤姓足利氏は平氏側として戦い壊滅状態となり、自領も安定した。

話は変わって頼朝が兄の嫁だった義重の娘に恋文を送り、それを知った義重が北条氏の反発を恐れ慌てて他家に嫁に出して、 頼朝を怒らせたという話があるけどあまり信じられない。 その娘もこのころは30を過ぎていたと思うし。恋文とは名ばかりの「人質要求」だったかも...。 しかしこうして頼朝の要求をつっぱねていては益々、新田の立場は苦しくなったと推測できる。

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