足利氏と新田氏は南北朝時代、武家の棟梁の座を賭けて争うことになる。 血統的にはどちらも共に八幡太郎こと源義家の3男である義国の子孫である。 (下の系図にもあるとおり、義国の長男が新田氏となり、次男の義康の系統が源姓足利氏を継いでいる)
┌ 義親 ─ 為義 ─ 義朝 ─ 頼朝 │ (源) │ (新田) 義家 ┤ ┌ 義重 ─ 義兼 ─ 義房 ─ 義政 ─ 政氏 ─ 基氏 ─ 朝氏 ─ 義貞 │ │ │(足利)│(足利) └ 義国 ┴ 義康 ─ 義兼 ─ 義氏 ─ 泰氏 ─ 頼氏 ─ 家時 ─ 貞氏 ─ 尊氏 足利氏・新田氏系図
源姓足利氏とは別に藤原姓の足利氏がいる。 平将門を倒した藤原秀郷の系統の1つである。 源義家が下野守だった頃、藤姓足利氏の一族の佐野氏の娘との間に子供が生まれた。 (佐野氏の誰のかは諸説あり、よく分からない) それが義家の3男の義国である。
しばらくは下野で育つがおそらく15歳ぐらいの頃、京都に上洛。 式部大夫・検非違使・加賀介となり、位も従5位下となる。
康和元年(1099年)義国は朝廷から常陸の佐竹昌義を討伐を命じられ、彼を討ち取った。 しかし佐竹昌義の祖父である源義光(義家の弟で武田・佐竹氏などの祖)や外祖父の平重幹が怒って義国を攻撃してきた。 義光たちとの合戦(常陸合戦)は「私闘」と見なされ、父の義家が義国を連行してくることを命じられる。
しかしその直後、義家が死んでしまい、結局常陸合戦の処理はうやむやになってしまう。 (この常陸合戦には源氏の力を弱めようと白河院も影で動いたという説が有力。 後3年の役でも朝廷は恩賞を義家に出さなかったり冷遇している)
しかし父の義家が常陸合戦の最中に死んだことは義国に大きな影響があった。 義家の長男である義宗は義家の生前に死亡していて、子孫はいない。 2男の義親も事件を起こして追討を受けてる時だった。 この状況であれば、3男の義国に家督が回ってきてもおかしくないのだが、 「私闘」を起こし朝廷からも白い目で見られていた義国に総領の座に就くことはできなかった。 結局、源氏の総領の座についたのは4男である義忠だった。
しかし義忠も数年後、源義光により暗殺されてしまう。 その後は義親の子である為義がその座に就く。
棟梁の座を逃した義国は下野に戻り簗田郡を開拓していく。 始めのうちは同族の娘が産んだ子ということで大目に見ていた藤姓足利氏とも、開発が進むにつれ領土のことで対立をしていく。 (そのころから義国は「足利前式部大夫」と名乗り始めたらしい) 義国の晩年にはその対立はどうにもならなくなっていた。
藤姓足利氏との土地を巡っての訴訟問題をなんとか自分に有利に持っていこうと上洛をしたが、目的は全く果たせないどころか、 権弁である藤原光頼や右大将である藤原実能といざこざを起こし、下野に戻って蟄居となってしまう。
下野に戻った義国は「荒加賀入道」と名乗り義国側の足利の領土は2男の義康が継ぎ、長男の義重は上野の新田荘方面の開発を始めた。 ここも藤姓足利氏の領土でさらに対立は深まった。 (2男の義康が家督を継いだという事はこちらが正室の子なのだろう)
藤姓足利氏は秩父氏や源義賢(義仲の父)と結び、源姓足利氏は三浦氏や源義朝と結ぶという状況だった。 そんな対立の最中に義国は死亡。 2男の義康は義朝との結びつきから京都で保元の乱を共に戦い活躍した。
・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲