足利氏の家紋 新田氏の家紋

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足利氏と新田氏その3

足利・新田両氏 詳細系図

正治元年(1199年)3月に足利義兼は頼朝の後を追うように死亡。(頼朝はこの年の1月に死亡)

正治3年(1202年)に新田義重は死亡。 後を継いだのは新田義兼だが、源平合戦のとき一族の里見氏や山名氏が新田とは別に頼朝と主従関係を結んだため、 領土は以前よりかなり減ってしまっていた。 また新田義兼も健保3年(1215年)以前に亡くなっている。

足利義兼の後を継いだのは3男の義氏だった。義氏のことは後に述べる。

このころ足利氏と新田氏が影響を受けたできごととして畠山重忠事件がある。 正確に言えばこの事件よりも、その後に行なわれた婚姻が大きな影響を及ぼすことになる。

事件自体は北条時政がでっち上げで有力御家人だった畠山重忠(時政から見て娘婿の1人でもあるが)を倒した事件である。 (この事件では時政と義時・政子の意見が対立しており、その点でも興味深い)

この事件後、重忠の未亡人は政子や義時や足利義兼の妻から見れば妹にあたる。 その重忠の未亡人と足利義氏の庶兄である義純が結婚することになったのである。 (重忠の妻ではなく、その妻との間に産まれた娘という説もある。 義純の父親が北条時政の娘の1人と結婚しているから、重忠の娘の可能性のほうが高いかもしれない)

実は義純は新田義兼の娘と結婚していたのだが彼女とは離縁することになり、彼女や彼女との間に生まれた子は新田の家に戻ることになる。

新田義兼の妻(新田尼)は新田家でかなりの実権を持っており戻ってきた娘を溺愛したらしく、その子の岩松時兼に新田内で結構な領土が与えられる。 新田宗家の力は益々弱くなってしまう。 また後の時代のことになるが岩松氏もあるときは足利に、あるときは新田に付いたという印象がある。

源姓畠山氏の祖となった義純は少なくても重忠の領土の一部は得たであろうし、 後に畠山氏は足利の一門として南北朝の時も活躍し、三管領家の一つとなる。 こういう部分でも両家の明暗が出てしまったような気がする。

(新田)
 義兼 ─ 女性
       │(岩松)
       ├ 時兼
       │
(足利) (畠山)
 義兼 ─ 義純
       │(畠山)
       ├ 泰国
(北条)   │
 時政 ─ 女性(義純に嫁いだのは、重忠の妻ではなく、その娘という説もある)
       │
       │
     (畠山)
      重忠

畠山(足利)義純の婚姻関係
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・更新日:2011/03/24・ページ製作者:トータス砲