絵図資料としての往来物に注目

  *加藤好夫さん(さいたま市・高校教諭)に伺いました(2004年1月)。
──加藤さんとの出会いは一冊の女子用往来の挿絵がきっかけでしたね…
[加藤] そうでしたね。小泉さんの往来物データベースを拝見しましたら、宝暦四年『女教補談嚢』(村井淇水序)の絵師が「鈴木春信画」となっていました。その当時、原本を見たことはありませんでしたが、奈良女子大学の電子文書「女性関連資料」(菊屋七郎兵衛板)をインターネットで見たところ、内題、奥付、挿画中にも鈴木春信画と明記した箇所はなかったので、鈴木春信画の根拠について質問したのが最初でした。
──そこで、早速、手持ちの原本を確認したら、やはり加藤さんのご指摘の通りでした。どうしてこのようなデータになったのか不思議に思い、色々調べているうちに、雄松堂のマイクロフィルム版『岡村金太郎蒐集 往来物分類集成・収録書目録』(昭和62年)のリール40に「鈴木春信画」と書かれてあったので、十分な吟味がないままその記載を鵜呑みにしてしまった可能性があるとお伝えしましたね。そうしたら、加藤さんはすぐに原本に当たられましたね。
[加藤] ええ。江戸東京博物館で、例のマイクロフィルム版と「収録書目録」を確認しました。リール40を繙いて見、さらにそのコピーを全部点検しましたが「鈴木春信画」とするに足る根拠は見つけられませんでした。さらに藤澤紫著の『鈴木春信絵本全集』(平成15年7月改訂新版、勉誠出版)にも当たりましたが『女教補談嚢』は見当たりませんでした。
──やはり、私の調査が不十分だったようで、お恥ずかしい限りです。
[加藤] 春信は、京都の浮世絵師西川祐信にゆかり(西川家の過去帳に春信の名が見える)があるとされています。とすれば、宝暦年間に江戸に下った可能性がないでもないので、宝暦4年、京都・菊屋七郎兵衛の出版による『女教補談嚢』の春信画はあり得ないわけではありません。しかし、春信の版本は「狂言絵尽」『壮士故郷錦』が宝暦11年刊、また「絵本」の初出である『絵本古金襴』は宝暦13年刊とされています。紅摺の一枚絵では推定されるもので宝暦7年、確認されているもので宝暦10年が初出とされています。いずれも役者絵で、しかも全て江戸の出版です。
──なるほど、そうでしたか。宝暦4年の春信画の存在は、春信の活動時期に関わる重要な問題になってくるんですね。
[加藤] そうです。いずれにしても、宝暦10年の春信画から宝暦4年の『女教補談嚢』に遡行する道筋は今のところ見つかっていませんので、これを鈴木春信画と断定するには躊躇せざるを得ません。私見ですが、『女教補談嚢』の挿絵は大坂の浮世絵師・北尾雪坑斎辰宣(作画期:延享〜安永年間)の筆遣いに似ているように思います。
──加藤さんのご指摘に従って、いずれ私の往来物データベースも修正したいと思います。ところで、今のお話に出てきた雪坑斎北尾辰宣の「辰宣」は「たつのぶ」ではなく「ときのぶ」と読むのが正しいのですか?
[加藤] 私自身は「辰宣」にルビのある作品例を見たことはありませんが、『原色 浮世絵大百科事典』(大修館)には「ときのぶ」とありますね。
──そうですか。いずれにしても、雪坑斎が挿絵を描いた往来物は非常に多く、江戸中期の往来物作家(画家)の代表的な人物かと思いますが、個人的にはこの頃の往来物の挿絵が一番好きです。とにかく、このように往来物などに携わった画家や書家については、まだ未知の部分が大きいと思いますので、加藤さんのような地道な研究がとても大切だと思います。今後とも色々とご教示ください。

その後、加藤さんから次のようなメールが届きました。
………………………………………………………………………
 以下のようなことが分かりましたので報告いたします。
 最初に『女教補談嚢』(宝暦4年1754)の奥付(雄松堂マイクロフィルム版)を確認しておきます。
 「彫工 藤村善右衛門/京都/書林 寺町枩原上ル 菊屋七郎兵衛」
 興味深いのは「彫工 藤村善右衛門」です。この彫工を検索してみました。



(1)東北大学付属図書館「狩野文庫画像データーベース」
 『絵本綟摺草』奥付「擅画 北尾雪坑斎/明和二乙酉歳正月吉祥日/彫工 藤村善右衛門/書林 大坂高麗橋壱丁目 藤屋弥兵衛版」(明和2年は1765年)
→ 国文学研究資料館「国書基本データベース(著作編)」によると、この『絵本綟摺草』は「【成立】宝暦6刊」(1756)とあります。したがって狩野文庫本は再版本と思われます。ただ残念なことに、この国文学資料館のデータには「雪坑斎/北尾/辰宣」の名はあるものの、彫工や版元については言及がありません。もともとないのか、データ化する折に無視したものか分かりませんが。ともあれ、明和2年版と同じ彫工・版元かどうかは確認できません。しかしいずれにせよ、北尾雪坑斎の版下絵を藤村善右衛門が彫ったという事実は確認できます。

(2)東京学芸大学図書館「望月文庫往来物データベース」
 「女小学(おんなしょうがく)敦賀屋九兵衛/宝暦13」「[画者]北尾雪坑斎 [彫工]藤村善右衛門 [別題]女小学教草(題簽)」
→ ここにも雪坑斎と藤村善右衛門の関係が確認できます。ただ、この望月文庫では藤村善右衛門の名があがるのはこのデータ一件だけです。他にもあるような気もするのですが…。ところで、私はこれを小泉さんの「往来物データーベース」の『女小学教艸』「【年代】宝暦一三年刊。[大阪]敦賀屋九兵衛板」と同じものと見なしました(*小泉注:同じ物です)。

 小泉さんの「往来物データベース」には「女教補談嚢(じょきょうふだんぶくろ)【作者】村井淇水(雪悦斎)作・序。鈴木春信画。【年代】宝暦4年(1754)刊。[大阪]村井喜太郎板。また別に[京都]菊屋七郎兵衛板(後印)あり」とありますが、私は菊屋七郎兵衛板しか見ていなかったので、大坂の「村井喜太郎板」のことは念頭にありませんでした。ちょっと気にかかったので、村井喜太郎についても調べてみました。すると、小泉さんの「往来物データベース」に「〈新板〉女用仮字書筆(じょようかながきふで)【作者】村井範啓作・跋。北尾辰宣(北尾仁右衛門・銭屋仁右衛門・雪坑斎・仁翁)画。中谷楮同書。【年代】寛延2年(1749)刊。[大阪]村井喜太郎板」とありました。
 そうしますと、少々時代は遡るのですが、『女教補談嚢』の出版に5年ほど先つ寛延2年、北尾辰宣と村井喜太郎は「往来物」『女用仮字書筆』において絵師と版元という関係にあったことになります。

 以上のように、北尾辰宣は『女教補談嚢』の彫工・藤村善右衛門とも版元・村井喜太郎とも関係があります。状況証拠からいえば、『女教補談嚢』の絵師が北尾辰宣の可能性はあると思います。もっとも、きわめて細い糸でかろうじて結ばれたような関係ですから、根拠の薄弱な憶測でしかありません。
 それにしても不審なのは、『女教補談嚢』の奥付です。おそらく「村井喜太郎板」もそうなっているのだろうと思うのですが、なぜ彫工と版元の名があって絵師の名がないのか。「往来物」においてこうした奥付はそれほど珍しくないのかどうか分かりませんが、実に不思議に思います。

往来物の刊記にはしばしば彫工の名前が記されていますが、このようなお話を伺うと、刊記などに記載してある人名は全て目録化またはデータベース化すべきだと感じます。往来物を始めとする挿絵の研究はほとんどなされていないようですが、例えば、唐子絵の例では浮世絵に登場するずっと以前に往来物の挿絵として描かれているように、浮世絵中心の研究から、版本を含む絵図資料全体からの研究が必要であり、さらに絵図資料のデータベース化を考えていく必要があると思います。今回のご指摘によって、往来物データベースの課題(例えば絵師の記載を盛り込むなど)も見えてきたような気がします。