■■徒然散歩記 1999■■■■■■■




     1月 4日[1999]
     1月24日[禅]
     1月25日[坊主]
     2月 5日[美しき誤解]
     4月19日[しけってる]
     5月 4日[人生の幸せってのは]
     5月 5日[一万人突破=感謝]
     6月19日[金塊和歌集]
     6月27日[ライフ・イズ・ビューティフル]
     7月24日[一人芝居]
     8月 2日[初日]


JANUARY 4, 1999

[1999]

1999年を迎えた。

「高慢で、夢みたいなことばかり言っている、クールなロマンチスト」

と、世間ではどう思われているかしらないが、
こう自己評価(そうありたいってことか?)している私は、
相変わらずこういう存在でありたいと思っている。

己が己に失望したり退屈などしている暇などない
今年を過ごせる人間でありますように。
そうして、お互い様に、
楽しく真剣で愉快な本年でありますように。


JANUARY 24, 1999

[禅]

1991/9/17(火)
鈴鹿スカイライン/退蔵院〜妙心寺/桂春院〜妙心寺/龍安寺/等待院/祗王寺

18(水)
蔓殊院/三千院/詩仙堂/大仙院〜大徳寺/龍源院〜大徳寺

19(木)
源光庵/光悦寺/銀閣寺/法然院/金地院〜南禅寺/天授院〜南禅寺/南禅院〜南禅寺/無隣庵/平安神宮

20(金)
妙満寺/蓮華寺/正伝寺/高桐院〜大徳寺/瑞峯院〜大徳寺/天竜寺

21(土)
弘法さん〜東寺/比叡山ドライブウェイ

愛知県立芸術大学の4年生の秋、
京都禅寺めぐりツーリングの記録だ。
きちんとファイリングされて残っている。
あの頃、何故だか「禅」にはまった。まあ、今もだが。

おかげで卒業制作
(芸大は一般大学でいうところの「卒論」は「卒制」となる)
のテーマは「現代の枯山水」
というインスタレーションだった。
あの頃の私を写真の中に見る。
坊主頭にちかい、その風貌でこちらを睨んでいる。

大学を卒業し、就職先は大阪だった。
京都は京阪電車ですぐの土地。
どれだけ通っただろうか。

大徳寺の龍源院に、朝一の8:00AMに訪れ、
三島の「金閣寺」をずっと読んでいることもあった。
「まだ、いはったんですの」
そう言われるくらい、
「ぼーっ」と雨垂れを見ている時もあった。

私は、今、あの頃に比べて、どうなのか。
退化しているのではないのか。
ツーリングで寺を巡りながら、各々の銭湯で
「風呂桶もないのか」と、
理不尽な怒られ方をした日々を懐かしいと思うのは、
充実なのか、退化なのか。
しかし、今の私は、それらがあってこその私なのだから。


JANUARY 25, 1999

[坊主]

昨日、昔ファイルした
(大学の課題でそういう宿題があったんだよ)
「禅寺巡りツーリング記」を久しぶりにパラパラしてたら、
懐かしくなって[禅]ってことで、
その記録を記してみてしまった。

1日ですごい数回っているなあ。
庭しか見てなかったからなあ。
「禅にはまった」ってより、「庭」にはまった。
「枯山水」の造形にはまったという感じかな。
そして「茶」にまつわるものの造形にはまった。
もちろん、造形にはコンセプトがあるわけだから、
それらも学びました。
水の流れを、砂や岩で表わそうってんだから、
禅僧の想像力ってのは凄いねえ。
それで、それを「枯山水」って命名するんだもの。

でも、もっと凄いのは「山水」というモノだけでなく、
この世(それは「思想」なんていうものも含めて)の全てを、
その「庭」の造形が表現している、
ってことにしていることさ。

「そりゃあ、いくらなんでも乱暴だよ」
って感じなんだけれど、その「庭」たちをみていると、
想像の仕様で如何様にもみえてくる。
私が「枯山水」というものを好きになったのは、
その「自己の思いを投影出来る隙間がある」ってところかな。
隙間のある、堅固な骨格を持った造形物ってことだ。

この「禅寺巡りツーリング」の時、坊主頭にちかかったのは、
修行していたからではなく

(本当にね「修行」
 とか出来る性格だったらいいんですけどね、
 無理です。
 だって、スキーに友達と行って、
 皆スキー教室入るってので、
 イヤだけど付き合いで入って、
 でも、直ぐ一人で脱走したもの、
 その教室)

そのとき担当の美容師さんに
「就職活動ももうないんだしさ、
 就職したら、凄い頭とか出来ないしさ」
(疎のときは、大学4年の秋)
とせがまれて、
むちゃくちゃベリベリショートになっていた頃だったなあ。
それで、バイクでガンガンに禅寺回ってると、
なんかねえ、今から思うとかなり怪しい人やね。
写真の私はこっちを睨んでいるしね。
タイマーで写真撮ってるからなあ、
カメラ相手だから睨むしかなかったのだろうねえ。

そういう怪しい私は、怪しくて若いながらも
「枯山水」やら「禅」やら「茶」やらを、
何だかわかりたくて、とにかく動いていた。

いやあ、よくあんなに(「枯山水」のことに限らず)
動けていたよ、あの頃は、
と懐かしくファイルを見ていて思ってしまった。
いかん、やっぱり退化している。


FEBRUARY 05, 1999

[美しき誤解]

文学座演劇付属研究所の本科(入って1年目)の時、
我々演出部志望の者たちに、レギュラーメニュー以外に
「演出部ゼミ」というものがあった。

講師は文学座の演出家の西川信廣さん。
毎週土曜日の10時から、
モリヤ(文学座の隣にある第2稽古場みたいなもの)
の2階で行われた。

「美しき誤解」
という、素敵な言葉を西川さんから聞いた。
その舞台を一緒に創る、
役者、美術家、照明家、音響家等に、自分のプランを伝え、
後日「こうきたか」
というのが、自分の「プランの思惑」
とはズレたものであったが、
「こういういきかたもあるか」
という新たな発見であったときの言葉だ。

その「美しき誤解」が楽しくて、舞台なんてのをやっている。
みたいなことを、西川さんは言っていた。
人が集まって、一つの作品を創り上げる。
ということに「楽しみ」を見い出す最も大きな要素を
「美しき誤解」という
シンプルな言葉に置き換えた、西川さんという演出家の下での
「演出ゼミ」の楽しかったことといったら。
私はこの言葉に出会って以来、
それまでの私の舞台を創る魅力のひとつの説明を、
たった一言ですませることが出来るようになった。
「美しき誤解」の多い、素敵な稽古場を創りたいと思う。


APRIL 19, 1999

[しけってる]

映画「バグズ・ライフ」の開演を待つ
新宿東急ロビーでのコギャルたちの会話。

A「のりこん家ってさあ、
  おやつにおせんべい食べるらしいのね」
B・C「うん」
A「で、のりこって、一度に全部食べれないらしいの。
  そしたら、しけるじゃん。せんべいって」
B・C「うん」
A「のりこは、普通にそれ食べるのよ。
  で、私が「しけってるよ」って言うと、
 「しけって」て何?」って聞くの」
B・C「えー」
A「でね、「水分含んじゃって、モグモグしちゃうことだよ」
  って言ったら、「フーン」で終わりなの。
  しけることが駄目なことじゃないみたいなのね」
B・C「ふーん」
A「のりこにとっては、せんべいって、
  時間がたつと変化する食べ物らしいの」
B「しけると、完成形なんだ」
A「そうみたいなの」

柔軟だなあ、感性が。
と、笑いをこらえつつ、ちょっと感動した。
「しける」という言葉を知らんのか!
というお怒りもあろうが、それはおいといて、
考えてみれば、確かにのりこの言うとおり、
その「しけった」ものは「しけった」もので、
決して駄目なわけではないのだよなあ。
味覚は人各々違うのであるし。
そういう問題ではないのかもしれんが。

物事はいろんな面があるのだよ、ということを、久しぶりに、
しかも(しかもってことはないが)
コギャルの皆さんから教えられた。
のりこの感性をそのまま受け取る彼女達もまたいい。

ちなみに「バグズ・ライフ」は最高の映画だ。
エンディングが終わるまで席を立たずにいましょうね。
楽しいおまけがついてくるよ。
こういう遊びの出来るスタッフによって作られた映画だもの。
いいハズさ。



MAY 04, 1999

[人生の幸せってのは]

「幸せってのは、
 心のそこから笑いあえるときを、
 どれだけ共有出来たか」

上記を言う彼(我が弟)は、それを実現するために
生きていたいと思っている。
なんて、言葉にすると大袈裟に見えるけど、ようは

「心のそこから笑いあえる楽しい事を
 誰かと一緒にしてたい」

っていうことよ。

「日本という国ではそれは難しいよ。変な国だ」
と言う。

「サッカーを友人達とするだけのことが、
 なんでこんなに困難なわけ?」

どこのスタジアムも予約でいっぱいだ。
そして彼も彼の友人達も「会社」で忙しすぎる。

「僕はイタリアに行く。
 あの国は素敵だ、
 人生を楽しむということを知り尽くしている」

と言うその彼は、
数年後には、また行ってしまうのだろうか。
個人的欲求に忠実なのは素敵なことだ。
実に素直な欲求だし。

「こんなことで、日本を非難するな!」
と言われるだろうけど、
「こんなこと」だから大事だと思うのだ。
だって、その「こんなこと」も、
出来てないってことでしょ。
「こんなこと」も出来ないで、
そこから先にはいけんのだよ。

「心のそこから笑いあえるときを、
 どれだけ共有出来たか」
私自身、日々そうであるとはいいきれないからなあ。
しかし、私は日本で、
今もこれからも生きていきたいと思っている。
「日本人だからね」
と言うソレが、肯定のソレとなりたい。

国際化とは、つまり
「あなたは誰ですか?」
という問に、誇りを持って「日本人です」
と答えることが出来ることだ。
そう、今のところ私は思っている。

国粋主義は少し入っているかもしれないけど、
国家主義じゃないからね。
それは全く違うから。
その差は大きいよ。誤解なきように。

「個人の快楽」って一番大事だと思うんだけどな。

難しいね、でも。


MAY 05, 1999

[一万人突破=感謝]

「Tokyo劇場」に御出でになった方が
一万人を超えました。
ありがとうございます。
このホームページを開設したのは
(と、過去の「観劇感想文」を開く)
1996年10月12日でした。
文学座の研修科1年生の秋ですね。
多分、この日でしょう、オープニングは。
・・・いいかげんやなあ。
それから、2年と半年が過ぎました。

ネットに本名を乗せる。その上で、言葉を連ねるのだ。
発言に責任を持つ、ということ。
(=そう大したことは言ってないけどね)
それは「インターネットの匿名性」という、
胡散臭さがイヤだからだ。

しかし「本名であること」は、実のところ、
それが枷になってくるかもしれない、これから。
「インターネットの匿名性」は、無責任だが本音トーク。
責任のある本音トークって、
本当のところどこまで可能なのか。
それが出来るのが一番いいのは分かっているんだけど。
でも、ウソは言はないよ。黙っていることはあるけどね。
って、んなこと当り前か。みんなそうだよな。

どんなに道具が変ろうと、使っているのは所詮人間。
道具が広げる世界観に、
どう向き合っていけるのか、ということだ。

私はこれからどうしていくだろう、
自分で自分の様子を観察するとしよう。
しかし、メールってのは、これからも必需品。
限りなく会話にちかい文章表現による通信。
この通信手段は、非常に私に合っている。

一万人突破記念だから、自分と、この環境について、
ちょっと真面目な話し。
ちょっとだけね。


JUNE 19, 1999

[金塊和歌集]

私は句をやる。
といっても「句会やるよ」
というプレッシャーに襲われなければ、
何もよまないロクデナシな俳人なのだが。
ハイジンだけに、それでいいのか。
俳号は「蘭丸」
こんな私を受け入れてくれる句会は「桜蘭詩歌会」

俳人では、永田耕衣。
和歌で私の最も好きなのは「金塊和歌集」源実朝だ。

現とも
夢とも知らぬ
世にしあれば
有とてありと
頼むべき身か

この歌を最も愛する私は、だからとて、
このように切実に生きているのではない。
頼むべき身の我は、今もロクデナシのままだ。


JUNE 27, 1999

[ライフ・イズ・ビューティフル]

「観てよ」
と姉と弟から言われていた映画を、今日やっと観た。
「ライフ・イズ・ビューティフル」
8/9より立ち稽古にはいる、
モーツァルト劇場のオペラの打ち合わせ後だ。
姉と弟が「観て! 最高だよ」というだけある映画だ。
「それでも、人生は美しい」
そういう映画だ。

「それでも、・・」

その「それでも」の真っ只中に私は生きている。
そうして、最後に言う台詞が、
前記のそれと同じである人生を過ごしていきたい。

でも「それでも」って、すごいドラマのある接続詞だね。
初めて気付いた。
「それでも、好きと言ってくれるかい?」とかね。
「それでも、幸せだったわ」とか。
ってことは、「それでも」の後に続く言葉が肯定だったら、
その台詞が多い人生って凄い素敵ってことだよな。
でも「それでも」の中味は
「失敗」や「挫折」なわけなんだよ。
「それでも」だけに。
難しい。

「やっぱり、よかったわ」
が一番いいのか。
でも、ドラマがない。この台詞には。

人生は色々ある。
「それでも、楽しい」
それは、もう知っている。


JULY 24, 1999

[一人芝居]

文学座インディーズステージにて「声」
という作品を演出する。
ジャン・コクトー作。
女優による一人芝居。

縁あって、文学座ではない他の舞台の一人芝居
(演出助手で参加)
との同時進行の稽古の日々だ。
そちらも女優の一人芝居。
「天海祐希のピエタ」

一人きりで戦っている、二人の女優に毎日会う。
助けることしか出来ない。同じ戦場には出ていけない。
演出家とは、もとよりそういう存在なのだが、
一人芝居という特異な形態の舞台に対峠している今、
それを痛感している。

ひとつは8/2に、もうひとつは8/7に幕が上がる。
真摯に、舞台という現場に立ち向う二人の女優。

「声」では、演出家として、サシで役者と向い合う。
勉強会という形式のせいもあって、
二人だけの稽古場、という状態が多い。
この人が、これから一人で戦場で戦える力を得る為に、
私は何が出来るだろうか。
それは多分、私がこの人と戦うことだ。戦場に送り出す前に。
礼儀と信頼を持って、戦っていきたいと思う。


AUGUST 2, 1999

[初日]

「天海祐希のピエタ」の初日の幕が無事降りた。
演出助手で参加。
3回に及ぶカーテンコール。
その3回目は、スタンディングオベーションで
観客は役者を迎えた。
私もだ。

この作品と、これに係わる人達と出会えたことは
最高の喜びだ。

これらの財産は、先ず文学座インディーズステージ「声」
持ち返る。

私にお知らせ頂ければ、
「ピエタ」チケット1割引になります。

「声」の初日はもうすぐだ。
私の初演出です。
でも、その気負いが不思議なくらいない。
誰よりも、一観客として楽しんで居る稽古場の自分がいる。


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