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人物伝・河井継之助「西国遊学19(肥後1)」



肥後についた継之助はこの旅にあった大きな目的の一つに師匠・山田方谷の子息の留学についてのお願いを木下真太郎なる高名な学者へする、という事がありました。その使命を全うするため継之助は肥後を闊歩します。

10月21日 晴  熊本泊

朝、天候定まらず、風やまず。船を出せないためにここ(着いたところ)から上陸する。ここの石垣は大層なものなり。二段に積み上げ、高さ二間半から三間もあり。ここから熊本はあと三里。途中民家にて茶を貰う。その代わりに船頭からもらった握り飯をやったところ、味噌漬けを出してきた。丁寧にして 質素には感心せり。天気も次第になおり、昼過に城下へ入る。

町を通ると、城の脇にある高所に社あり。その下で昼飯を食い、城の西を通って直ちに清正公(加藤清正)の社(注1)へ行く。これは城下より北にあたり、その境内に入り幾つも曲道を進むと更に門があり、馬場の如く両側に桜がある。それを過ぎると石坂になる。その上に茶屋あり、田舎にしては珍しく賑やかなり。それより本堂に行くと、大勢で題目を唱える者、日参の者、百度参りする者などがおり、士(侍)も数々逢う。内院には木の矢来あり、これより内へ刀無用とありし故、かわりに持って中に入る。結構なる堂なり。堂の前、蝋石の石橙籠あり、万事美事なり。田舎にてすら此の如し、江戸にあるならば浅草にでも比すべきか。熊本帰りの途中、近国の者、中には中国筋の者も皆、清正公へ行くとて数々逢いしなり。西国は素より中国筋の者も法華宗(加藤清正は熱心な法華宗の信者であった)は皆行く様子、賑やかなるも尤もなり。

ここで増子と別れる。予はそれより城下へ行く。まずは熊本公先代の隠居所あり。数本楓紅葉して好風景、尤も山上なり。これより百間石垣を通り、山田先生の用にて、木下真太郎(注2)宅へ行く。若士に道を尋ねしところ、「御同道申さん」と云いけれども、それも失礼、達て辞退し、その道を聞く。「御大藩故、如何なる処かと案じ候処、御蔭にて有り難し」と述べれば「往来より誠に近し。その近所へ参り 候故、お知らせ申さん、且つ宿屋もその傍にあり」とて、道案内をして宿屋まで教えて呉れる故、厚く礼を述べて別れけり。浜田屋甚八へ宿す。

七つ時分(午後四時)、結髪入湯して、木下へ土産のため菓子屋のよき所へ立ち寄り尋ねし処、朝鮮飴とて諸国へ廻る当所の名産ありと。それを少し食べて見ると甘くもなく駄菓子なり。煉羊羹を尋ねし処、「あり」と云う。「それ亦少し食わせよ」と云い食すと、果たして子供羊羹なり。「此の如き粗末なるは、使い物に出来ず。煉羊羹にあらず」と困りければ、彼云う「仰せの如く、これより別製も間にはつくろうけれ共、只今は是無し。且つ此の品なら御音進に結構なり。これ等は好き処の御使い物なり」と云いける故、呆れて「かさありてよかろう」などと笑いて持ち帰る。

木下を尋ねけれ共、留守故、その日は帰りしなり。この人、木下宇太郎とても高名なり。山田先生の倅・栄太郎を明年遣さんため、我肥後へ行くを幸いに手紙を認め、我に託せる故、我、諸方人物、格別の人にならざれば、尋ねし事もなけれど、此の如き人に逢うは幸なりと。その次第を手紙の中に認め貰い行 きしなり。

注1;本妙寺

現在、上熊本駅の北約一キロ、中尾山の中腹にある。もと大阪にあった瑞竜院(日蓮宗)を、加藤清正が城内に移し、さらに二代・広忠が元和二年(1616年)清正の廟所である当地へ移したもの。数百段の石垣は胸突カンギを呼ばれ、桜並木も立派である。

注2;木下真太郎(木下宇太郎)

号は犀潭(さいたん)。その先祖は菊池氏に仕えた。幼年より秀才を以て知られ、二十二歳の時、藩本命をもって氏を称し、帯刀を許され、三十一歳(天保六年)のとき伴読に挙げられ、中小姓に班した。同年、東都に遊学し、佐藤一斎の門に入った。嘉永二年、府学の訓導となり、慶応二年、物頭に進んだ。すなわち山田方谷とは一斎門の同学であったが、朱子・陽明、両学を摂取して、一方に偏しなかったという。門人に横井小楠、元田永孚などがある。慶応三年病没、享年六十三。

#継之助は肥後人に良い印象を持ったようですね。ただ、文中に妙に「田舎」を多用していまして、これが何を意味するかはよくわかりませんが..次回は木下真太郎との出会いとなります。

(この項つづく/Mr.Valley)




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