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人物伝・河井継之助「西国遊学20(肥後2)」



河井継之助を考える上でポイントの一つになるものに「陽明学」があります。陽明学が学問として本質的には何を言っているのかは別として、この学問は行動を尊重する学問と見られ、この学問に影響をうけた人物の多くは行動家として・乱の首謀者として名を残しています。そうした人物の例としては、大塩平八郎、西郷隆盛、吉田松陰などが挙げられます。
河井継之助は陽明学に影響を受けた人物の特徴を持ちつつ譜代藩の上士ともいえる家にうまれた事で直線的な行動ではない何かを行おうと考える事が多かったと思います。そうした事を考えたであろう男にとって陽明学を習得しつつ体制内にあって自らの役割を果たしている人物が大きな参考になる事でしょう。継之助はきっとそうした観点から山田方谷のもとへ足を運んだのでしょう。
さて、やっと本題に入りますが、肥後の木下真太郎は山田方谷のように行政官としてきらびやかな実績があるとも言えませんが、陽明学を学んだ先輩であって体制内で活躍の場を得た人物として継之助の立場から参考になると考えたでしょう。山田方谷の使いとしてだけではなく、自らの糧とすべく継之助は木下真太郎と会おうと思ったと考えます。

10月22日 植木泊

朝早く木下を訪ねるも既に外出をしていた。(木下の)倅から「今日は昼七つ過ぎから八つ(午後2〜4時)頃迄は在宅とのこと、帰ってきたらお迎えにあがりますよ」との話があったので宿に帰った。宿にいた大阪の者と町に出、諸処見物し宿に帰り昼食をとっていると、木下の倅が迎えにきた。直ちに木下の家へ行く。
木下と会う。一礼し山田方谷からの手紙を渡す。木下は「山田は旧知の人。久々にての文通、大いに楽し」と。その後、我が事を聞く。我話をなす。木下、先にに遣わきし置きし羊羹の礼を言う。なるほど、内の様子を見ると、羊羹は粗末にあらず。尤もこの人(木下)は構わぬ人のようで別しての事ならん。畳、障子一切の道具、衣服、刀掛の長脇差の拵え、万事質素、珍しき人なり。
木下、山田の事を段々尋ねる。西方(松山藩内の開墾地、山田方谷の発案で屯田制度が導入され、武士が開墾を行っている)在宅の事を話すと「山田は知者なり、何かまだするつもりならん」と言った。
秋月と土屋の話出る。両名は木下を訪ねるも不在のため会えなかったとの事。「何をお勤め?」と聞くと、訓導という。学校(藩校「時習館」)の役人の由。
「なぁに、もう子供の世話でも致す様なる事」と。その言葉、何となく不満足の様子に聞こえたり。
木下から「幾日位の逗留?」と問われる。「今日、出立の心なり」と答えると「それでは緩々お話も仕り度きに残念なる事」と言われる故、我それにつけこみ「如何にも御繁用の様子故、御手間づかいもお気の毒と存じ候得ども、若し又、夜分にても緩々お話伺い候事相成らば、幾日にても逗留仕り候て宜し」 と述べれば「御察し通り繁用にて、夜分とても暇入り多し」と言われたので、「然らば、山田の御返事を願う」と言うと、直にその座にて認める。この人、温和、丁寧真卒、更に儒者らしくなく、初めて会う人の様に之れ無く、実に百日か半年も随て見度く思いける。如何にも実学らしき人なり。山田の倅を頼まれ し事にて我に言う「なかなか人の師たるところの訳には之れ無く、只、子供の世話でも致すのみの事。去り乍ら、御出にならば、私だけのお世話仕る可し。尤も御返事に認め候得共、猶予、宜しく」と、その言葉謙譲、実意に出づ。「御覧の通り、お話下さる可し」と言いける故、山田も何も構わぬ事を話しけ れば、「それは大分、流儀が似ているわい」と言われる。構わぬところも一つの得意かと思われる。その人のありのままなるところ、何となく慕わしき人なり。
塾、読書の声頻にて、余程読める人もいる様子、数十人いるかの由。塾を折廻して、家塾にて此の如く大なるは初めて見たり。
それより暇を告げて、宿へ帰りければ、八つ半(午前3時)頃なり。それより直に宿を立ち、三里行きて植木に宿す。

#木下真太郎との出会いは”人物の暖かさ”に触れる経験になったようです。
次回からは松山への帰路となります。

(この項つづく/Mr.Valley)




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