Sub Title

人物伝・河井継之助「西国遊学14(肥前(長崎1))」



”江戸時代”と後世呼ばれる時代があった。徳川家康という日本史上特筆すべき保守政治家(とあえて書いておく)を祖とする幕府が日本を統治していた時期をそう呼ぶ。この時代は家康の孫である三代将軍家光によって制度が確立され、後に野生味溢れる国の船舶による威嚇によって解くまで”鎖国”なるいかにも保守発想からくる制度を守った(鎖国はどこまでを指すかで時期が若干変わる)。
この鎖国を行なう上で幕府は小さな風穴を設けた。それが長崎であった。宗教上・慣習上・実益上等の観点からごく少数の国家とのみ交易を行なった。その国家の中に欧州で唯一名を連ねたのが蘭(オランダ)である。”蘭”なる文字はこの時代、一海運国を指すものとしてよりも西洋文明一般を指す表現として用いられ、その音自体がある階層には神韻の如きものであったようである。

継之助が長崎を訪れた時は開国後であり、横浜も貿易港としての機能を持ちはじめた頃であるが、未だに長崎が世界への窓であり西洋文化の華咲く中心地であった。当時の教養人の一人である河井継之助が長崎に足を踏み込む事の重みは現代の日本人で例えようが無いものでしょう。無理に例えるならば、宇宙人との交易が行われている状況でヒューストン(NASAがある)に行くような感じでしょうか(筆者は宇宙人についてさほど興味を持っていないので、いるいないの話をするつもりはありません)。

10月6日 晴 逗留

7日 晴 逗留

8日 雨 逗留

9日 雨 逗留

10日 晴 逗留

11日 晴

夕方より、西浜町「山下屋」へ移る。

12日 晴 逗留

13日 晴明月 逗留

14日 晴 逗留

15日 晴雨半 逗留

菊館を見る。

16日 朝雨、晴 逗留

17日 曇 逗留

長崎逗留中の事を合わせて書く。只胸に浮かぶを記すのみ。「万屋」にて長州舟木の人、奥州二本松の画工、薩人、肥後人、色々同宿あり。舟木の者の話で「(長州では)新田が十八万石ある」と。石炭山あり、山の中と違い平地のため掘るに面倒ならず、且つ炭の質も良いとの事。
「山下屋」へ移ると、秋月悌次郎と同宿(同間ではない)となる。秋月は薩摩、その他諸藩についての事を記す事多し。唐館を見に行く時、急いで皮袋を失う。予は落としたと思い、人はスリという。帰り道、蘭画を欲しくなるも買えず。
唐館、蘭館を見る事、通詞と懇意になる事。皆、秋月の取り持ちなり。他日江戸で再会し時は一杯進ず可し。「観光丸」(幕府の蒸気船)へ行きし事もまた然り。彼是世話になる。
唐人・西洋人・市中往来・買物等する事は一々記し難し。惣て唐人穏やか、長崎人も「アチヤサン」と言い愛す。西洋人は悪む様なり。市中にて様々な争い居る処を見る。西洋人数人して往来の女共にかまうあり。肴屋へ其の一番悪いヤツ入りし故、我も入りて「インギリスか」と尋ねると「ホルランド」という。その帰り道にて逢いし者に酔ったふりで千鳥足をしている者がいた。皆がよけて行く故、予が当たりに行けば彼はよけた。洋人、奇怪の様子あれどもよける事なし。
唐通詞・石崎次郎の案内にて、秋月・豊田(?)・予と三人にて唐館を見る。中に関羽の像をかけ、仏壇の如くにし、唐人数人居り、茶を出し、その中へ氷砂糖を入れる。キスイ道具にて煙草吸うを見る。その外、桃の漬けたるを呉れる。
予の刀を見たがる故に見せると集まってくる。そこで「そのかわり何か見せるべし」と言うと「此処なれば御覧に入れる」と石摺り本等出してくる。室に入りて見るに一々額あり。入り口に間に豚の干物沢山あり。ラカンという二階へ上がる。阿片を吸うしかけあり。女郎、数人居る。予、その不器量なるものの仕事している故、実に縫い物できると思い、その様を尋ねると、他の女郎共、大笑い、彼女も笑って去る。気の毒なり。唐人に扇子を書いてもらう。下唐人に頼むは駄目と只弐本組のみ持ってくる。書く処を見ると中々上手、扇の悪さを羞じその旨言うと「字甚だ下手」と。誠に辞譲の心あり。
阿片を吸う匂い香ばしく、好き匂いなり。唐人阿片を勧めるも吸わず。通詞「吸いつけぬと悪し」と止める故なり。通詞は吸いけり。ねり物にて棒の先につけ、油火にてねり、がん首につけて吸う。
夫々終りて酒肴を出し振る舞う。唐酒酢味少しあり、余り美味く思えず。豚の角煮、唐茶、日本茶も出す。飲みつけし故か日本茶の方が善く思う。唐茶、蛋白なる様に覚ゆ。菓子もアラレ・オコシ・牛皮に胡麻まぜた物出る。宿へ帰ると日暮れだった(10日)。

長崎逗留日記はまだ続きます

(この項つづく/Mr.Valley)




Back