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人物伝・河井継之助「再遊学(久敬舎時代4)」



安政6年、後世に生きる我々から見れば大老井伊直弼による”安政の大獄”真っ只中に江戸で学問に励んでいた?河井継之助が梅雨も過ぎた6月7日(旧暦)に新たなる師匠を求めて西国に向かいます。その継之助が師匠にしようとした男は”山田方谷”と言います。

山田方谷は備中松山藩(板倉家)領の農民の子として文化10(1805)に生まれました。
同じ世代の人物と言えば佐久間象山(文化8生)、井伊直弼(文化12生)、梅田雲浜(文化12生)などが挙げられます。この継之助より22歳年長の農民の子は家が数代前までは豪農であった事・家名再興の願いもあってきびしく教育を受けました。彼が20歳の時(文政8,1825)最初の遊学を果たし、帰国後藩校の会頭(教務主任相当)となり士籍に列し、江戸遊学(天保2〜7,1835〜1840)で陽明学者春日潜庵などとの交友や佐藤一斎への師事によって陽明学を学びました。ちなみに当時の佐藤一斎門下生には佐久間象山他多くの人材が集まっていて、その中に後の長岡藩崇徳館(藩校)の都講(校長)高野松陰も方谷の先輩として学頭を勤めたりしています。継之助が当時政治家へ転身し塾を持っていなかった方谷に注目したのは高野松陰から何かしらの話を聞いたであろうと想像できます。

継之助は山田方谷のもとで学ぶべく動き出しましたが数々の関門が待ち受けていました。まず、彼は書生ではなく河井家当主ですので遊学どころか早く長岡に戻って藩官僚として活躍する事が期待されて?いました。あと、方谷がいる松山藩主板倉勝静は昨年末に”安政の大獄”の処置に反対し、井伊大老と対立、寺社奉行を罷免されていました。そうした藩の行政官のもとへ藩士を送り出すのは長岡藩庁として躊躇する所があったように思います。あと、最大の問題がありました。”金”です。そもそも藩庁が渋っている訳ですから費用を出してくれる筈も無い、となると金策をしなければなりません。そこで継之助は父親に対して三千字の及ぶ学費送付依頼の文を書いて50両もの大金を確保、藩庁もなんとか説得して西国へ向かいました。

継之助が山田方谷を選んだ理由については、父代右衛門へ宛てた手紙の中にある程度書かれています。現代文に書き換えると「当地(江戸)はさすがに大都会で大学者も多く、未熟な私にとっては師範にする人物は沢山いますが、とかく学問を職業のようにしている者が多く実学の人は少ないように思います。.....安五郎(山田方谷)は元来百姓ですが、今は登用され政治に当たっていて、その事業に対し国中が神の如く尊敬しているとの事です。」と書いています。継之助は学者よりも実学の人間に対して目が向けられていたようです。

さて、河井継之助西国遊学に際し困った人がいました。古賀塾で継之助を師匠として学問に励んでいた三郎(苅谷無隠)です。当時の塾では師匠が直接指導する事は時間的な関係(大抵師匠は儒官として勤務し、空いた時間で塾生を教授していました)から自らの師匠を決め、その人物から学んで行く事が多かったようです。継之助が古賀塾を去るのであれば新しい師匠を見つけねばなりません。そこで三郎少年は継之助に対し「誰を師匠にしたら良いでしょうか?」と聞いた所、継之助は「土田衡平がよかろう」と言いました。三郎は土田のところへ行き、継之助からそのように言われた事を話し、師匠になってもらうよう頼んだ所、土田は「河井というヤツは可笑しいやつだ。河井とはこの塾に長くいたけれども一度も話をした事が無い。だが、長い間に色々な人と会ったが人物として河井ほどの者を見た事がない。」と言ったそうです。三郎は「なぜ話もした事が無いのにわかるのですか?」聞くと土田は「英雄豪傑が人を見るのに話だの議論だのを聞いて知るなどトロい事をしていたら世の中やっていけない。」と言い、三郎は「どこで見るのですか?」と聞くと「碁や将棋をさす所を見た。今まであんな愉快な碁・将棋を見た事がない。まるで眼中に勝負がないのに勝ちえを制するのだ。」と言ったそうです。当時の人間というのが多少見える逸話ですね。
ちなみに、土田はさっぱり本を読めない男で当時30歳、決して秀才ではないこの男の長所を河井は見抜いていたのでしょう。後に”かみそり陸奥”と呼ばれた陸奥宗光が議論ふっかけても子供野ように扱っていた豪傑土田衡平は筑波挙兵に参加し田中隊の参謀として活躍するも元治1(1864)に斬首、維新を見る事なくこの世を去りました。

次回からは旅日記『塵壷』をベースとして松山への旅を紹介したいと思います。

(この項つづく/Mr.Valley)




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