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人物伝・河井継之助「西国遊学1」



河井継之助の”西国遊学”は安政6年6月7日から万延1年春まで続きます。この間、継之助は親への報告をするために多分生涯でこの時期だけ日記をつけました。その日記を『塵壷』と言います。この日記をベースにして継之助を追っていきたいと思います。

6月4日、久敬舎退塾し西国遊学へと旅立つ。同藩士花輪・三間・鵜殿に送られながら品川で2艘の異船を見る。横浜にて賑わいを見る。普請が済んで相場も定まれば(市場が繁盛すると)さぞ立派になるだろうと思う。異船は6艘あった。神奈川への帰路では十人余りの異人に会う。この日は神奈川の「玉屋」にて宿泊。

6月8日、雨、四ッ(午前10時)過、花輪・三間・鵜殿と別れる。保土ヶ谷より金沢に着く。雨のため風景楽しからず。鎌倉に至る。裏門前「丸屋」にて宿泊。

6月9日、晴、鎌倉は旧跡あり、感じるに余り有り。案内を頼む。『鎌倉志』を読み楽しむ。九ッ半(午後1時)頃七里ヶ浜へ出る時城ケ島・江ノ島を見る、好風景。義経の寺(満福寺)へ詣でる。

6月10日、雨、朝五ッ半(午前9時)頃、雨がやんだので江ノ島を立つ。小田原に宿泊。

6月11日、雨(終日)、朝五ッ(午前8時)頃立つ。石垣山を見、湯元より箱根にかかる。険を楽しみにしていたが風雨のため四方見えず。徒に艱難のみ『さぞ天気ならば面白き事ならん』。三島に至る。三島明神は余程の大社なり。夕七ッ(午後4時)過、沼津に宿泊。同行の旅人より『あれなるは天城山なり。あの山より公儀へ納める炭十万俵』と聞く。

6月12日、時々雨、沼津を立ち、原を過ぎ、富士沼を見、吉原に至る。愛鷹山すら見えず、富士はなおさら見えず。富士へ登るには三島より直山からが良いと聞くが、天気も悪く逗留も愚なる様に思うも、吉原と蒲原の間まで行き、山を越えて大宮まで行き宿泊。宿に輪島膳椀の売人あり、「輪島より出る処の膳椀類、年々如何程の金になるのか?」と聞くと「だいたい十万両くらい」と答える。盛んなものだと感心する。


旅の序盤です。品川・横浜でにぎわいを見、箱根を越え、富士山のそばまで来た所です。継之助はこの旅において富士登山を楽しみにしていたようです。次回で富士山物語に入ります。

(この項つづく/Mr.Valley)




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