第8号
2004年6月
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公開講演会レジュメ
第22回 フランソワ・ラショー 宗教と文学の近代——幻想の論理を廻って 第23回 瀬戸 直彦 聖王ルイの図書室 第24回 波多野宏之 メディアシオン[媒介作用]:文化情報の担い手と社会 *
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総会報告
2004年3月31日 総会
1.活動報告
講演会
第22回 2003年 6月10日 フランソワ・ラショー 宗教と文学の近代——幻想の論理を廻って 第23回 2003年11月13日 瀬戸 直彦 聖王ルイの図書室 第24回 2004年 2月27日 波多野宏之 メディアシオン[媒介作用]:文化情報の担い手と社会 2.会計報告
3.役員改選
- 2003年度会計報告
- 2004年度予算
4.活動方針
- 会長:弥永康夫
- 世話人:
- 事務担当:波多野宏之
- 会計担当:岡田恵子
- 監事: 渡邊和彦
- 年3回程度の講演会開催
(なお、2004年度の第1回目として:
第25回 吉森賢氏(放送大学大学院教授・横浜国大名誉教授)による「カトリシズムとプロテスタンティズム——企業家精神から見たフランス・ドイツ比較」
が2004年6月2日に開催されました。)*
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講演会要旨
第22回
2003年 6月10日
フランソワ・ラショー(フランス極東学院京都支部)
宗教と文学の近代——幻想の論理をめぐって
2003年6月10日の例会は、極東学院京都支部のフランソワ・ラショー氏によって、近代日本文学と宗教に関する非常に内容の濃い講演が行なわれた。ラショー氏は、まず自己紹介のなかで、はじめは英文学を専攻したが、その後日本文学、とくに中世の日本文学と宗教のかかわりについて研究するようになったことを述べられた。また、近代文学にも興味をもち、とくに好きな作家、たとえば泉鏡花の初刊本の蒐集をしていて、10年以上かけて20冊ほどの美しい初刊本を集めた、ということだった。
泉鏡花や幸田露伴は、近代日本文学における幻想文学の代表的な作家である。欧米でも、エドガー・アラン・ポー(1809〜1849年)の作品やブラム・ストーカーによる『ドラキュラ』(1897年)など、幻想文学の伝統があったが、それらは基本的に近代を讃美する傾向が強かった。それに対して、日本の鏡花、露伴の文学は、押し寄せる近代化の流れに対する批判であり、伝統的文化の再評価を意味するものだった。なかでも重要なのは、仏教への態度だった。明治以降の日本では、一般に仏教は封建的、保守的な宗教とされ、それ自体として取り上げられることが少なかったが、鏡花や露伴は、仏教を非常に高く評価し、強い親近感をもっていることを隠さなかった。たとえば露伴の『風流仏』(1889年)では、『法華経』解釈の伝統で大きな意味をもつ「十如是」の概念が用いられている。これは、当時の読者でもどの程度理解できたか疑問に思われるほどである。
さて、こうした近代の幻想文学を過去の伝統に結びつけたのは、「夢幻」という概念であり、また能の世界であったと考えることができる。「夢幻」という語は、(世阿弥にも強い影響を及ぼしたものとして知られる)仏典『金剛般若経』に、「夢幻泡影」という表現で表われている。「夢幻」という語は、日本人による作品としては、空海の『性霊集』の一節にはじめて見ることができる。「夢」という語の意味は周知のとおりだが、「幻」という語には、冥界の死者の霊を呼びだす「霊媒」の意味もあったことを指摘しなければならない(こうした用法は『源氏物語』などに現われている)。
能の分類として「現在能」と「夢幻能」の二つのカテゴリーがあることが知られている。この「夢幻能」ということばは、『謡曲大観』の編者として有名な佐成謙太郎が1926年のラジオ番組のなかで使ったもので、その後一般にも用いられるようになった。「夢幻能」は特徴的な構造をもっている。それは旅人(多くは僧侶)であるワキが、何らかのできごとがあった場所(「ゆかり」の場所)におもむき、そこで人間として現われる前シテと出会って、昔のできごとの話を聞くところから始まる。物語を終えた前シテが突然かき消えて前半が終わり、後半になって、後シテが幽霊や妖怪の形で現われて、あらためて一人称で昔のできごと(悲劇)を物語り、霊験(「奇瑞」)を見せ、舞を舞ってかき消える。そのあとに、すべてが夢かうつつか分からぬままのワキを一人残して劇が終わる。こうした能は、一種の「鎮魂の芸術」であるということができる。
能以前の伝統では、化け物や妖怪は怒りに満ちた怨霊、嫉妬に狂う生き霊などとして現われた。世阿弥の謡曲では、これらの幽霊や妖怪たちは、例外的に悲しむべき、哀れむべき存在として描かれている。しかしその後の観世信光の時代になると、以前と似たような「恐ろしい」幽霊が表現されるようになる。さらに江戸時代には、(『四谷怪談』などに顕著に見られるように)恐ろしい怨みの体現者として、ほとんどつねに女性の幽霊が描かれている。
近代日本では、たとえばドイツ表現主義の映画(『ゴーレム』や『カリガリ博士』など)やイプセンの作品を表わす語として「夢幻的」という表現が用いられた。
近代幻想文学のなかで夢幻能ととくに近い関係を示す作品の一つに、露伴の『対髑髏』(1890年)を挙げることができる。これは「露伴」と呼ばれる旅人の主人公が山に入り、そこで美女と出会う物語である。女は彼に一夜の宿を貸し、風呂に入れ、寒いからという理由で同衾する。その夜、女は昔の恋の物語を語る。彼女は、昔ある高貴な男性に思いをかけられたが、それを拒み、男はついに焦がれ死にしたという。女が拒んだのは、母の遺書によって彼女が癩の家系であると知らされていたからだった(そのことは「露伴」には明示的には語られない)。そうして一夜を過ごし、明け方になって目覚めると、そこには家も人もなく、ただ足下に髑髏が一つ落ちていただけだった。人里にたどりついた「露伴」は、土地の人に山で出会った女のことを尋ねる。その話によれば、彼女は癩に冒されてさ迷い来った女で、病に狂い、山から山へと彷徨して消え失せたという。この物語は構成的に夢幻能の構成にのっとっているばかりでなく、内容的にも謡曲『卒塔婆小町』のイメージに多くを負ったものと考えられる。
鏡花の代表作『高野聖』に現われる山の女のイメージは、一種の宿命の女であり、その源泉には『古今和歌集』に見られるような山姫のイメージ(山、滝などの主であり、また霊媒、巫女でもありうる)、森田思軒によって翻案されたアプレイウスの人間を動物に変える魔女の物語『黄金のろば』(ギリシア神話に基づく)、『和漢三才図会』の「山姥」の項目(猩猩の一種で、南方に女だけの国を作り、人間の男をさらって交尾するという)、さらに謡曲『山姥』に見られる女性像(「山姥」は白拍子の名であると同時に、山に住む魔女で、昔、男をたぶらかし、鬼に食われた女)などの影響を考えることができる。鏡花が能の影響を受けたことは、母方の親類に能の役者がいたこと、彫金師だった父が、伝統芸能と深いかかわりをもち、鼓打ちの親戚がいたことなどを考えれば、当然のことだったといえる。鏡花の作品は、俗界と魔界を媒介するものであり、魔界に住む女性たちは、恐ろしいものというより(世阿弥の場合と同様に)悲しむべき、哀れむべき存在として描かれている。
鏡花の文学における能の深い影響は、彼の最大の理解者であった三島由紀夫によって指摘されているし、また芥川龍之介も、そのことを強く意識していた。
最後に、ラショー氏は、これら近代日本の幻想文学に比較できるものとして、近‐現代の南部アメリカの数人の作家、とくにウィリアム・フォークナー、フラナリー・オコーナー、コーマック・マッカーシーの作品について言及された。とくにその最後の二人の文学は、近代批判であると同時に、もっともすぐれた幻想的宗教文学でもあり、死者と生者の間の掛け橋として機能するものでもある。それは、聖なるものとの対話としての文学、「鎮魂としての文学」を現代に伝えるものともいうことができる。
講演終了後、質問に答える形で、ラショー氏は、鏡花における「方言」の用法の重要性について言及し、アメリカ南部の作家たちに見られる過去の伝統的生活と現代、アメリカと国境を隔てたメキシコの生活とのエスニックな差などが重要な要素であることを指摘された。また、中世後期の夢幻能において、妖怪や怨霊が哀れむべき存在として現われ、それまでの「魔」や天狗などとは明らかに異なった形で描かれるようになった理由について、こうした芸能が鎮魂の意味をもっていたこと、それは、「平曲」などの伝統を受け継ぎつつ、長い戦乱の時代における芸術の新しい機能を反映したものであったこと、また、芸術の担い手が貴族から武士の階層に移っていったこと、さらに禅の思想の強い影響があったこと、などを述べられた。
二時間の講演が短く感じられたほど、凝縮され、示唆に富んだ講演だった。
文責・彌永信美
第23回
2003年11月13日
瀬戸 直彦
早稲田大学教授、前早稲田大学図書館副館長(中世フランス文学)
聖王ルイの図書室
日仏図書館友の会、日仏図書館情報学会共催
はじめに:
フランス人に人気のある3人の王様、その一人が聖王ルイである。あとの二人は、メロヴィング朝のロベルト王、16世紀宗教戦争を収めた王アンリであるといわれる。その聖ルイについては、王の家令であったジョワンヴィルが作った「聖ルイの伝記」が最も知られている。『この聖なる君主は、かくもフランス政治を治め、あれほど大きな喜捨を行なって、あれほど多数の美しい建造物を建てたのである。そして写字生が自分の本を作り、金色や青色でその本を彩色するのと同じように、王国の自分の建立した美しい修道院、数多くの病院、ドミニコ会やフランシスコ会など多くの宗派の僧院を彩色したのである』と描いている。
ルイの業績を字を書き本を作るという比喩を用いて称えているのだ。自分の国を飾ったという事と美しい写本を作ったという事とに同じような価値を置いていることに、驚きと違和感を覚え興味を持った。
Jacque Le Goff による聖王ルイ9世伝
1924年生まれた社会学者で「煉獄の誕生」の作者。ルイの伝記「聖ルイ」を1996年に出版し、2001年には翻訳が出た。従来の伝記のように聖者伝や文学のテクストをそのまま用いるのではなく、聖ルイ王の業績をその場その場での王の決断がどうされたか、裁量権とその行使を精密に検討して“聖と俗”の両方を兼ねるこの王の内側に《宗教と政治》、《モラルと現実》という本来重ならないものが矛盾して存在し、それを結果的に上手く両立させた。中世は何事も神の判断に委ねる、個性のない時代というイメージがある。Le Goff による伝記は、王の親族、殊に祖父フィリップ2世の影響(聖ルイは短命の時代にあって祖父を知る初めての王だった)や、誕生から死後聖人に列せられるまでを考え、社会と個人の対立概念を乗り超えようとした。
聖王ルイの伝記の資料
ルイは、1214年に生まれ12歳で即位、1270年に十字軍の途中、チフスで死亡する。1297年に聖人に列せられる。死後27年、聖人になる為に資料が集められた。
ジョワンヴィル、サンパチウス、ボウリィユウ等々の資料は、性格も様々だが共通している点は、“王が書物を好んだこと”、それに関連して“信仰が深かったこと”である。例えばサンパチウスの伝記によれば『王は、注釈付きの聖書とか、アウグスチーヌスや他の聖人のテクストや聖書を手元に所有して夕食と就寝の間にそれらを読んだり読ませたりした。ミサから帰るとトロワ・ピエ(約1m)の蝋燭が燃えている間中、聖書や聖人伝を読んだ』と王の姿を描いている。
ルイが書物を集めたことに関しては、第6、7の十字軍の間の挿話がある。サラセンの王が哲学者達に有用な書物を探させ書写させ図書館を充実させている話を聞き及び「暗闇の子供達(イスラム教徒)が光の子供達(キリスト教徒)より思慮深くサラセンの戒律の信仰においては、教会の子供がキリスト教を信仰するより熱心である」と考え、「帰国したら聖書に関する有益で権威のある書物を全て書写させて多くの修道院の図書室に持ってこさせるべきである。自分や知識人や宗教家が廻りの人を教え導く為それらの書物を研究するのが目的である。」このように考えて帰国すると実行に移し、安全な場所である彼のチャペルの宝物館に保管した。自らもそこで研究し他の人にもつかうことを許した。古い書物を購入するよりも新しく書かせることを好んだ。フランスの王で本の収集に熱を上げたのは、ルイの孫の孫、ジャンからと言われる。その息子シャルルが bibliophile として特に名高く、その図書室
文責 塩路支満江(『日仏図書館情報学会ニュースレター』より転載)
第24回
2004年 2月27日
波多野宏之
メディアシオン[媒介作用]:文化情報の担い手と社会
今日、情報・コミュニケーションの観点からさまざまな文化事象をみると、その枠組みが大きく変化していることに気づく。例えば、美術館のもっとも中心的な位置に図書室が設置され(2002年オープン、熊本市現代美術館ホームギャラリー)、丸の内の官庁街には、多くのボランディアが介在してさまざまな形と色彩の牛(の彫刻)が出現する(2003年秋、カウパレード)。図書が美術館を侵食し、アートは美術館を捨て、街にでる。
このような時代にこそ、文化情報専門職のABCD(
(波多野宏之・記)
2001年より計画がもちあがり、2002年4月、会館理事会・評議員会において具体案が示された「在日フランス商工会議所の館内転入」とこれに伴う「図書室縮小」問題は、2004年3月の理事会・評議員会において、明白に白紙に戻すことが確認されました。説明によれば、商工会議所転入の実態として、フランス企業が長期にわたり入居すること、6F会議室を会議所が(常時的に)優先使用すること、が「日仏双方の合意に至らなかった」主要因であるとのことでした。 これにより、図書室の縮小計画も中止となったと理解してよいと思われますが、この計画を前提にしているはずの図書除籍準備作業は依然として継続しており、なお要注意の状況は続いております。2004年5月の理事会・評議員会では、既に除籍を実施済みということはないと理解してよいか、との質問に対し、現フランス学長はこれを一応否定してはおりませんが・・・。 なお、前学長の在任中に確認されたはずの三項目([1]当面、蔵書は一切廃棄しない、[2]書庫入れするものはリストを作成し、利用可能とする、[3]常設委員会による方針確立および関連学会の意見聴取前の廃棄等を行わない)は、会館側、フランス事務所側もこれを積極的にとりあげようとはしていないのが現状です。今後、友の会としても何らかのかたちで双方と話し合いを継続していく必要があります。 ところで、昨年末より現学長(フランソワーズ・サバン女史)が着任されて以来、図書室内で講演会を開催し、図書室利用(者)を開拓しようとの方針が実施に移されています。フランス政府の指摘する「スペースに比して利用者が少ないので図書室を縮小すべきである」という一面的な見方によるのではなく、レファレンスや貸し出しなどの利用内容の質を考慮すべきであり、潜在的利用者のなかからより多くの利用者を掘り起こすための新たな方策を求めることこそがとるべき道だと思われます。そうした意味でこの方針は評価に値します。友の会は、既に早くより図書室における講演会を実施しているところであり、この点ではフランス事務所と共通の認識をもつといってよいでしょう。こうして、2004年2月の第24回、6月の第25回講演会はフランス事務所との共催で開催するところとなっております。こうした活動を軸に、友の会と図書室(フランス事務所)の関係をよりよい方向にもっていければと考えていますので、会員皆様の一層のご協力をお願いいたします。波多野宏之(友の会世話人、会館評議員)
- 日仏会館フランス学長が交代しました。前学長