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ブルデュー社会学と日本

石井洋二郎 東京大学教授
1999年6月21日(月曜日)

 コレージュ・ド・フランス教授のピエール・ブルデュー(1930~ )は、単なる社会学者としての枠を越えた一個の思考者としてポスト構造主義の時代をリードしてきたが、日本ではまだ、その仕事がじゅうぶんな関心と理解をもって受容されてきたとは言いがたい。では日本社会の諸問題を考えるうえで、彼の著作から汲み取れるものは何か?

 彼の著作を貫く軸は、私たちの知覚や判断や行動をさまざまな形で拘束し誘導している不可視の権力作用、すなわち「象徴支配」のメカニズムを解明することにある。まず教育社会学の分野で、彼は『遺産相続者たち』(1964)において高等教育レベルでの文化的不平等をとりあげ、それがたんに経済的不平等や個人的才能の差に起因するだけではなく、家庭において両親から文化的蓄積を継承する機会に恵まれた「遺産相続者たち」と、そうした相続遺産をもたない学生たちとを隔てる社会構造的な差異に由来することを論証した。続いて『再生産』(1970)では、教育行為が及ぼす「文化的恣意」(それ自体が真理である客観的根拠は存在しないにもかかわらず、あたかもアプリオリに真理であるかのごとく意味を画定されたもろもろの知識や教養)によって支配的価値が押しつけられ、その結果として既成の階級構造が再生産されてゆくプロセスが分析される。この議論は、日本において近年顕著になってきた職業再生産のメカニズムを考えるさいにも參考になろう。

 次に文化社会学の分野では、『ディスタンクシオン』(1979)において趣味一般の階級性が論じられる。私たちは「文化資本」と「経済資本」の2要素によって「社会空間」の中に配置されているが、個々人の占める社会的位置と趣味行動は強い規定関係によって結ばれており、全面的な自由にゆだねられているかに見える主観的な領域にも、客観的な階級構造が濃厚に投影されている。この認識は当然ながら社会的決定論の色彩を帯びるが、それを乗り越えるためにブルデューは「ハビトゥス」という概念を提唱する。これは私たちの日常生活を方向づける知覚・判断・行動図式の体系であるが、単なる習慣と異なり、種々の局面において絶えずみずからを再構築しながら実践や表象の生産原理としても機能する「強力な生成母胎」である点に特徴がある。  社会空間の中に位置づけられた私たちは、誰もが本能的に自分の位置を上昇させることを志向するので、絶えずおのれのハビトゥスを組み替えながら、文化資本・経済資本の両面において差別化=卓越化(ディスタンクシオン)のゲームに走っている。日本で極端な形をとっている学歴競争は、その最たるものであろう。しかし何が価値あるものとして正統化され「卓越化」されるかは、じつはその時々の力関係で決まるにすぎない。ブルデューは、現代社会で進行している闘争を経済資本をめぐる実体論的な「階級闘争」ではなく、文化資本をめぐる関係論的な「象徴闘争」として再定義する。

 日本では中流意識を持った人々が90%に及び、しばしば一億総中流と言われるが、確かに戦前のような顕著な階級区別は消滅したとしても、その裏側では学歴をはじめとする熾烈な「象徴闘争」が進行している。その意味で、ブルデューの議論は日本のような中流平等社会にもかなりの程度適用可能なのではないか。

(文責・石井洋二郎)


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