ドラマ『白線流し』の世界を訪ねて

小川天文台の歴史(5)


岐阜金華山天文台・坂井義雄の思い出

坂井 義人
 

5.飛騨へ、そして私設天文施設構想と実現のころ・・・・・斐太彦天文処

 岐阜市に一つの生活の根拠は残しつつも、この頃各地に続いた学校統廃合の現場を尋ね廃校跡の転用を模索し天文台作りを開始した時期が、この飛騨地方への転身でした。小中学校の相当数の廃校跡を巡り、最終的に岐阜県大野郡清見村夏厩に残されていた学校建物を、当局との交渉の未、ようやくその利用の途が開かれることとなったのでした。地区の統廃合の未、未来を担う子供たちの歓声が開かれなくなるという現実は、そこを住まいとする住民にとっては、過疎に咲く黄色い花が繁茂する以上に、心寂しいことと言われます。この夏厩の地区にとっても、それは耐え難い実状だったに相違ありません。
 新しく個人的な天文趣味の施設の建設と言えばそのとうりですが、岐阜金華山の夢をもう一度と言うのが、本心であったことでしょう。4メートル程度のドームの新調と、古びた赤道儀、その不釣り合いの中であっても、多少好奇の眼差しとNHK放送等のメディアの協力は父をして、心楽しい日々だったに違いありません。週末とかその他の時間を使っての、建物の清掃などにも何度も筆者も往復し、何とか地元民を交えた開所の式を迎える事が出来たのでした。幸いなことに、こうした木造の形体の校舎は、少なからずその脇に住み込み可能なように、教職員の一時的な宿舎も完備されており、それほどオンポロの印象を抱かず利用可能な設備も整えられておりました。さあ、これらを使っての活動が開始されようとしていました。施設の名前は、飛騨に生きる、また飛騨人の古い呼称「斐太彦」を使い、一風変わった斐太彦天文処(ひだひこてんもんしょ)。旧知の名古屋在住の刀剣鑑定家、豊場重信氏とご子息の豊場喬氏による命名でした。既にお二方とも他界され、かの世界で父と談笑を交えおられるものと借じます。
なお思い出深いメディア取材としては、主にローカル向けではありますがNHK岐阜放送局のテレビによる「澄んだ空見つけた・・」という番組、これは父と長男の筆者が出演をさせて頂き、そのころ流行したフィーリングという曲にのせて、夏厩の他の自然の豊かさと、地元民との天文台設置の交流の紹介、また、中日新聞社による、人物紹介の新聞紙約二分の一にも及ぶ好意あふれる記事化など、発足の当時は順風満帆の勢いでした。これは、意識するしないに関らず、その後に15年を経て各地に展開をされる、現代版の宿泊型公開天文台の走りそのものであったと、今にしてその意義を感じざるを得ません。民宿にも劣ると言えばそのような寝具、夕方ともなると、8月の中旬ですら、窓のガラスには結晶化した霜が張りつき、夜の帳が下りる境目には、黄道光と天文薄明が交差をせんばかりに輝きを競い、漆黒の闇という表現以外にしようの無い星空が降り注いでくる毎夜でした。筆者は、その後に東京天文台(現国立天文台)、測光部の田鍋浩義助教授のお世話になりながら、内地留学を経験するのですが、テーマは「対日照」の写実観測という、この飛騨の空の暗黒さにふさわしい惑星間塵現象を選んでいたのでした。
 そのような活動の拠点を得て、父は次々アイデアーを張り巡らせて行きます。大阪市にて天体望遠の製作と販売を始めたばかりの、日本特殊光機社主・中村和幸氏との共同で始めた反射望遠鏡主鏡の研磨講習会。これは、主として、学校の夏季休暇始めに天文アマチュアーを集め、毎年20名軽度の募集で三泊四日程度を使い、口径15センチを標準にとして放物面の良鏡を自作すると言うもので、生活環境の多少の悪さを除いては、結構好評でした。氏名は公表いたしませんが、現在国立の天文の組織で助教授をされている現役の方なども、学生時代に参加をされておりました。また、中学生くらいの天文少年の多数は、既に現在各界にて活躍をされている年代ともなり、生物学で学位を得たS君、また、岐阜県内の高校で教職としてとりわけユニークな評価をされ将来を嘱望されているU君、また、企業の研究室で開発を担当するF君やT君そしてH君等、本当に良く育ってくれたものと思い、父も心より満足をしてくれているものと
思います。また、Dご一家様、とりわけ奥様には有形無形のご支援に預かりました。心より、紙上を拝し御礼を申しあげます。
 そうした活動は、こののち平成2年度まで続きますが、その間には次第に喧伝をされたこの天文処を使って、高校の天文サークルを始め、大学の教職過程に学ぶ天文コースの単位実修という、願ってもない展開などを見せました。特に三重大学の為永辰郎教授のグループは数度に亘って活用を頂き、天文教育かく在るべしといった実績を残して頂きました。本年6月の父の本葬には、同教授に葬儀委員長をお務めいただき、きっと亡父は喜んでいるものに違いありません。清見の清流のせせらぎ、川遊びそしてアマゴの魚とり、夜ともなると蛍の薄黄色い輝き、夜陰を走るベルセウス流星群の観測のどよめき・・・、西にはこと座のベガ、全て為永先生と学生とそして父・坂井義雄の帰らざる思い出となりました・・・。
 その他の事跡としては、運輸省の海技大学校教授、小林義生氏の開発にかかる、広視野のメニスカス式「K1420カメラ」の試作最終テストに、同氏は同志社大学の宮島一彦氏とともに、夏の天の川の撮影にお越しになり、そのすばらしい性能の完成に同席させていただいたり、また、これがご縁で、ハレー彗星を目的として、別途に既に一応の完成を見ていた同型のKF2550カメラを、斐太彦天文処用にご融通いただくなど、有形無形のご厚志に預かりました。因みに、CCDカメラが天文用に開発されるまで、この種の光学系は天文には欠くべからざる存在であり、因みに小林先生の独立開発にかかるK型カメラは、マクストフカメラと混同されがちですが、太平洋戦争の終結の間際、海軍在籍の同氏により完全独立に発見された、兵器を目的とした光学システムとして銘記をすべきものです。なお2550といったった無名数は、25は口径比の2.5を表わし、また50は焦点距離の50センチメートルという性能の実数を表わして、このカメラの場合は約9センチメートルのエマルジョンに、8度という円形写野が確保されます。前述のK1420カメラでは、何と20度にも及ぶ写野が周辺まで見事に描写され、これを用いての京都大学から出版されたエイッチアルファー天の川掃天星図は、その美しさは既にご承知のとうりの事と思います。既に前時代的な印象は否めませんが、現在でもたとえばカラーのエマルジョンを使っての掃天写真などは、十分に教材的価値が見出し得るものと考えられます。余談ながら、KF2550カメラは、その後のハレー彗星のイオンテール観潮に十分の性能を発揮し、NASAの唱導により全世界に呼びかけられた、IHW(InternationalHally恥tch)の大規模現象観測ネットに参加して、150枚程度の観測写真を報告致しました。その一都は、日本天文学会の出版図書「ハレー彗星を捕らえた・・・に所載をされ、何よりのご恩返しができたようです。ただ、残念なことに、オリジナルの観測資料を提供したためか、現在に至ってもその資料は未返還のままで、NASAに留めせかれたままとなっているようです。返してもらうべく、交渉したいと思います。しかしながらKFカメラは、多少の不安材料を残したままに当方に譲渡をされたたこともあって、ハレー尾観潮の見事な描写力に小林義生先生もお喜びになっていただいたのは、なによりの事と思っております。その後、南天天の川の観測にオーストラリアにお誘いもいただいたのですが、長期滞在の計画のため参加実現を見ず、加えてその準備等をなされていた時期と相前後して、小林先生も病魔に犯されて、残念にもご他界をされてしまい、大変に心残りな思い出となってしまいました。
 また、天文関係の諸先生とのご交誼ご指導も数々頂き、岐阜大学の若松謙一先生、京都大学の故・今川文彦先生、及び旧知の方々の活躍される東亜天文学会からも各位皆様のご鞭捷を頂き、時折の天文講座の開催など交えて、ご厚情を頂きました。
 雪深く水清き、岐阜県の清見村での私的天文台、斐太彦天文処の思い出については、未だ少しを語らなくてはなりません。この事は後年に、長野県での本格的な公開施設型の天文台の建設計画を担うことにも繋がり、父子三人にとっては、大変大きな転換点となるべきものでした。
 まず、第一には中規模ながらプラネタリウムの設置計画がもたらされました。これは私的な天文施設をベースに、公的な立場からの施設拡張がなされて、古い木造の校舎を始め、総合的に天文施設を新しくしようとする、清見村との合意事業でした。多少中古ながら、プラネタリウム投映機は坂井義雄所有のものを転貸して、またその運用も私共子息2名があたるという構想の下、ハレー彗星出現の時期を境として着手されました。これはその後の平成2年まで、よく機能した施設となりました。稚拙ながら、投映に使用する天文番組は、完全な自主製作のものをあて、たとえば、パ−シバル・ロークェルを題材とした「火星にとりつかれた男」、鎖国時代と合衆国ペリー提督の日本遠征紀をベースとした天文の逸話「ジョーンズと黄道光」など、興味深い内容を提供することも出来ました。
 次に、いよいよ60センチ反射望遠鏡実現に向けての取り組みが開始されようと言う時期も到来しつつありました。これは、前出の鏡面研磨講習会の活動を延長したような計画となり、父にとっても人生で初めての大仕事となった出来事でした。すなわち、少なくとも主鏡の研磨完成は、この施設でのオリジナルの仕事とし、ベストの精度を追求した結果としての望遠鏡完成を夢に見るということてを意味したのでした。但し、勿論資金の目処もいまだ立たず、かなり絵空事に近い状況であったことは事実です。日本特殊光機製作所の中村和幸氏の協力の下に、材料のガラス鏡材の選定から始まりました。よく使用するパイレックス材というのは、本来の選択でもありましたが、ここでは、徐々に供給されつつあった比較的低膨張率の材料の入手の視野に入れ、当時としては優良なE6材という小原光学製のものとなりました。ただ、アマチュアーのお遊びとも思われたためか、実は整形の非常に劣悪な材料を最初に提供され、これに抗議を唱えた結果、新たに白色の美しい素材がもう一度おくられてくるなどというハプニングもありました。
結果、最初の鏡材は返還を求められる事も無く、実は今でも余剰の取得物のような存在として、手元に保管されたままとなってもおります。こういう事もあるのだと言うエピソードとして、あえて紹介いたしておきます。 さて、これらを使って、薪たな取り組みを開始し、確かに親子3名としての大きな天文の道、いいえ、新たな大海原へ漕ぎ出していくこととなって行くのですが、二度ある事は三度の例え宜しく、大転換の時節の到来をも意味していくものであったのでした。

 
  
 

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