ドラマ『白線流し』の世界を訪ねて

小川天文台の歴史(4)


岐阜金華山天文台・坂井義雄の思い出

坂井 義人
 

4.実業の世界と多少の政治活動のころ

 昭和33年、とうとう岐阜市との交渉も不成立となり、市長の交代劇という政争の愚に供された金華山岐阜天文台は、廃台の途を辿ることとなりました。筆者の7才の頃の事です。当時の岐阜日日新開であったと言いますが、「・・・星は何でも知っている・・・」と当時の有名な流行歌の歌詞をもじり、コラムの漫画の題材にも揶揄され、ために怒り心頭でもあった父のようでしたが、しかし冷静に考えてみると、決して坂井義雄の行動は誤ってはいなかった、その志は星のみが知るとの、多分編集子のエールとも言えるものではなかったかと感じて感謝の念すら覚えます。
 岐阜市は中部の中核の都市として、現在こうした文化の誉れも高く、また歴史的遺産と山紫水明にも未だ恵まれ、結局の所、時代は多分、坂井義雄をして20年早かったのではないかと、感慨深く振り返るべきこと考えております。
 その後の父は、鉄工業の経験と知識を生かし、前出のアナナイ教天文台の望遠鏡の受注と製造、また各地の学校施設と教育施設への望遠鏡納入、またアマチュア一任様の望遠鏡の販売と、天体観測ドーム製造等を手がけて、これも初期のこの国の天文への実業からの貢献と言うと、少し言葉が走りすぎるでしょうか。お陰で、家族一同も糊口をしのぐ程度の暮らしも成り立ち、感射の念に堪えません。
 その後、昭和40年代に住居地の議会議員の経験と政治活動、及び、多少の実業の挫折なども鼓験はしますが、何とか志を得て生きてきたようです。唐突な思い出ではありますが、朝鮮系の在日住民の方たちに、健康保険の加入に道を開き、当時の金日成首相より、真っ赤な色の感謝状を送られたことも、最近の両国の話題から記憶が蘇ってきます。しかしながら政治の世界というものは、金華山での経験を払拭したとしてもなお、余りあるものが在り、また生来の不養生もたたって病を得、一切の公職からも身を引いて、再度、天文の世界に足を踏み入れることとなります。肺をやられて、息せき切ってきた自分を振り返るという、閑話休題の時節であったのかも知れません。
 ある日の夜の事と言います。やにわに枕元にささやく声が聞こえたと、言っておりましたが「坂井君・・・何をしているのだ・・」、山本一清先生の叱咤の声であったと言います。病癒えず、多分寝空言と言うべき事ではあったと患います。しかしながら、カルバー望遠鏡と東亜天文学会と言う、故人の今生への遺志と執着というものがあるのだとすれば、考えられない事とは言えないかも知れません。再び金華山の幻影から15年の歳月を鼓て、天文への郷愁、「星忘じ難く侯・・」と、独自の世界へと分け入って行くという事となっていったのでした。父50代の半ばを過ぎた頃の事です。多少の蓄えと、古くなってしまった天文器材の挨を払い、青雲の志には程遠い初老の天文人生を歩みはじめたというのが、本当のところでした。既に恩師もこの世になく、また、旧知の天文人脈とも間が開きすぎ、結局、不肖の息子二人を引き連れての孤軍奮闘が開始されます。しかし今にして思えば、肺の病の処置も完冷させず、それを引きづりながら、結果79才の人生の幕引きがこの先待っているのでした。

 
  
 

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