「宮沢賢治 星の図誌」から
「宮沢賢治第6号」から
賢治の研究者にはなじみの深いこの本「宮沢賢治」の第6号(2)には、「ハレー彗星と宮沢賢治」という記事が須川力氏により寄せられていて、ハレー彗星の観測の歴史、1910年回帰時の混乱の様子がまとめられています。
賢治の実弟、宮沢清六氏の話として
『私は明治三十七年四月一日の生まれで、ハレー彗星は両親と一緒に西北の空に肉眼で大きく、はっきりと見て感激しました。
しかし、賢治は盛岡中学校の寄宿舎のなかになにかの事件だったか、なにかの理由でハレー彗星を見なかったように思います。
あれだけのはっきりした彗星の出現の大事件をちょっとも書いていないというのは不思議です。』
と書かれています。
「図説 宮沢賢治」から
最近刊行された「図説 宮沢賢治」(3)では、盛岡天文同好会の池野正樹氏による「賢治の出会った情景」として、当時の岩手での新聞記事を掲載し、賢治が知りうるには十分な情報が提供されていたことを示しています。
シミュレーション画面へ(1910年5月27日盛岡)
果たして見たのか?
さまざまな記録や証言によると、知識としては確実に知っていたが、どうも見ていないように思われます。
賢治が1918年8月に、最初に創作したと見られる童話の一つ、「双子の星」の中で「空の暴れ者」として描かれた「彗星」の話が出てきます。
つい先日「百武彗星」が現われ、久々の肉眼彗星としその不思議な姿を目のあたりにする機会に恵まれました。
空に大きくのびた尾や、日を追って動いてゆく様子、自然の不思議であり、恐怖の対象として申し分ない貫祿の持ち主(星)でした。
ひょっとすると、賢治が盛岡の寄宿で宵の空に出たハレー彗星をそっと眺めていて、そんなイメージが、「空の暴れ者」のモデルとなったのでしょうか?
「双子の星」に描かれた彗星像で一つ気になる点がありました。賢治は「彗星の色」の表現について「青白い光の霧」としていることです。
空の暗い場所で彗星を見た人なら、その透き通った青い色に誰しもが気付くはずです。
当時の彗星の記事には、尾の形や長さ、明るさについて書かれたものぐらいで、色にまで言及していた文献があったのでしょうか?
そう考えると実体験に基づくものとも想像できるのでは... と淡い期待を抱いてみたりもします。
(1)斎藤文一・藤井旭著「宮澤賢治 星の図誌」平凡社
(2)「宮沢賢治」洋々社
(3)上田哲・関山房兵・大矢邦宣・池野正樹著「図説 宮沢賢治」河出書房新社
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