歌稿〔B〕 大正10年4月 ※ 二見 774 1921(大正10)年4月4日
歌稿〔B〕 大正10年4月 ※ 二見 774
1921(大正10)年4月4日
1921年1月23日、賢治は信仰上の理由で上京し、たった一人での生活が始まります。
賢治の父政次郎は、そんな賢治を説得するべく同年4月上旬に上京し、親子で伊勢・関西方面に旅行することとなります。
その日程を堀尾青史著「宮澤賢治年譜」で見ると、次のようなスケジュールであったことがわかります。
- 第1日目(4月2日)東京発の夜行列車にて出発。(出発日については小倉豊文氏「旅における賢治」による4月4日か5日に東京を出発したと推定する説もありますが、掘尾氏は賢治の歌稿による天候を根拠に2日夜に出発した可能性もあげています。ここでは後者の日程で検討してみました。以下「宮澤賢治年譜」より抜粋。)
- 第2日目(4月3日)夜明けに名古屋で乗りかえ朝山田駅着、伊勢神宮ここも雨であった。外宮参拝後徴古館農業館を見たあと内宮に向かい、宇治橋をわたり、増水した五十鈴川を見、内宮に詣でる。それより二見ヶ浦に出、海辺の旅館入り、父子二人枕を並べて寝た。このときの短歌「伊勢」十二首。(歌稿B763〜774)
- 第3日目(4月4日)二見駅より京都行(草津線経由)にのり、大津駅下車。琵琶湖岸の石場浜から汽船にのり船中食事、下坂本に下船。これより比叡登山約四粁。午後三時ころ根本中堂に詣で、更に進んで大講堂へ。伝教大師1100年遠忌が厳修されていたか、あるいは了ったばかりか。短歌「いつくしき五色の幡につゝまれし大講堂ぞことにわびしき」(歌稿B777)は開祖の悲願とは逆に美しいが空疎な幡に飾られている天台法華宗の衰微をかなしんだのだろう。夕方になり暮れかかる山路を約八粁、白川の里に降り、夜ようやく三条小橋の旅館布袋屋に入る。このときの短歌「比叡」十二首。(歌稿B775〜785)
- 第4日目(4月5日)朝旅館を出て、七条大橋東詰下ル中外日報社を訪ねる。中外日報は父の愛読紙であったが、目的は大阪府南河内郡磯長村叡福寺(聖徳太子の墓所)への道をたずねるためであった。太子1300年忌にあたり、八日から十七日まで、遠忌が行われるのである。社の玄関で教えられ、すぐ京都駅へ出、大阪へむかう。梅田の大阪駅から関西線始発駅へ出て湊町から乗車した。しかるに目的の磯長は関西線柏原駅下車、大阪鉄道にのりかえ太子口喜志に下車、途中約三・五粁というので、不案内、不便さに法隆寺駅まで直行してしまう。法隆寺では一〇拝。短歌四首(歌稿B778〜790)の最後の「法隆寺はやとほざかり雨ぐもはゆふべとともにせまりきたり。」によって時間的経過がわかる。奈良へむかう車中の詠みであろう。この夜、興福寺門前の宿に泊まる。
- 第5日目(4月6日)奈良公園をめぐる。馬酔木林の花を月あかりかと見、ゼンマイじかけのシカの人形を売る少年に心を寄せ、猿沢池の柳に昔をしのび、奈良駅から関西線上り列車にのって名古屋のりかえ、東京ゆき夜行へ。短歌「奈良公園」一〇首。(歌稿B791〜800)
- 第6日目(4月7日)車中に赭ら顔、黒装束の若者を見る。午前東京着。上野駅に父を送る。短歌「旅中草稿」四首(歌稿B801〜804)。父は信仰上の対立が生じたとき、古聖の法論を探り、諸派派生の由来を知り、冷静に研究を怠らぬよういましめた。今回は伊勢まいりの上、日本仏教の始祖ともいうべき聖徳太子、伝教大師の遠忌を幸い、実際に法灯の伝統に触れ、法華経と国柱会にとらわれすぎる点を反省させ、併せて感情の融和をはかろうとしたようである。従ってふたりとも帰正問題は全く口にせず、父としては自然な解決−賢治の帰国−を半ば期待したようであったが、その点では初志をまげず、父を上野駅に送り、丁重に頭を下げた。「あんなことには並はずれて丁寧な男でございました」とは後年の父のことばである。
さて、その旅の途中の作品として、歌稿〔B〕大正10年4月の中に、「二見」として、二見ヶ浦付近での歌があります。
ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽かに日は出んとす
という歌です。
上記の日程をもとにその日を推測すれば、夜明けの月と、日の出前直前の情景ですから、4月4日の早朝であることがわかります。
また、場所が二見ということも明らかですから、夜明けの空をシミュレートしてみました。
画面は午前5時30分の東の空です。
この日の二見における日の出などの時間を計算すると、
月の出 3時00分
薄明開始 4時12分
日の入 5時36分
となります。
このことから、「日は出んとす」としている時間は5時半ごろであったことがわかります。
賢治は早起きして、海辺の浜を散策していたのでしょうか。
月についてみてみると、月齢は25.1(5時30分JST)で、三日月をひっくり返したような形になっています。
空に浮かぶ細い月はとても印象的に見えたことでしょう。
以上のデータが揃うと、小倉豊文氏「旅における賢治」による4月4日か5日に東京を発ったという説では説明が難しい点が出てくることに気づきます。
4日に出ていればこの作品は6日の朝、5日に出ていれば7日の朝となりますが、少なくとも7日の朝には「ありあけの月」として見るのは困難な気がします。
太陽との離角が約18度、日の出直前の空に高度はおよそ10度しかありません。
月齢は28で、かなり細い月です。
従って、古天文学の点から検討すれば、1日でも早い方が「ありあけの月」として空に見えやすいという点から、掘尾氏の推測が支持されやすいような気がします。
なお、この時期、宵の空に見えた惑星としては、木星が-2.3等、土星が0.8等で両方ともにしし座に輝いていました。
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