歌稿〔B〕 大正10年4月 ※ 二見 774 1921(大正10)年4月4日
   

歌稿〔B〕 大正10年4月 ※ 二見 774
1921(大正10)年4月4日


1921年1月23日、賢治は信仰上の理由で上京し、たった一人での生活が始まります。 賢治の父政次郎は、そんな賢治を説得するべく同年4月上旬に上京し、親子で伊勢・関西方面に旅行することとなります。 その日程を堀尾青史著「宮澤賢治年譜」で見ると、次のようなスケジュールであったことがわかります。

さて、その旅の途中の作品として、歌稿〔B〕大正10年4月の中に、「二見」として、二見ヶ浦付近での歌があります。

ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽かに日は出んとす

という歌です。 上記の日程をもとにその日を推測すれば、夜明けの月と、日の出前直前の情景ですから、4月4日の早朝であることがわかります。 また、場所が二見ということも明らかですから、夜明けの空をシミュレートしてみました。 画面は午前5時30分の東の空です。
この日の二見における日の出などの時間を計算すると、

月の出   3時00分    
薄明開始  4時12分    
日の入   5時36分    

となります。 このことから、「日は出んとす」としている時間は5時半ごろであったことがわかります。 賢治は早起きして、海辺の浜を散策していたのでしょうか。
月についてみてみると、月齢は25.1(5時30分JST)で、三日月をひっくり返したような形になっています。 空に浮かぶ細い月はとても印象的に見えたことでしょう。
以上のデータが揃うと、小倉豊文氏「旅における賢治」による4月4日か5日に東京を発ったという説では説明が難しい点が出てくることに気づきます。 4日に出ていればこの作品は6日の朝、5日に出ていれば7日の朝となりますが、少なくとも7日の朝には「ありあけの月」として見るのは困難な気がします。 太陽との離角が約18度、日の出直前の空に高度はおよそ10度しかありません。 月齢は28で、かなり細い月です。 従って、古天文学の点から検討すれば、1日でも早い方が「ありあけの月」として空に見えやすいという点から、掘尾氏の推測が支持されやすいような気がします。 なお、この時期、宵の空に見えた惑星としては、木星が-2.3等、土星が0.8等で両方ともにしし座に輝いていました。


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