書簡40  大正6(1917)年9月3日『保阪嘉内あて』の葉書 1917(大正6)年9月3日
   

書簡40  大正6(1917)年9月3日『保阪嘉内あて』の葉書
1917(大正6)年9月3日


この年、賢治は盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の3年に進級し、弟清六が盛岡中学校に入学しています。 この年7月1日には友人らと同人雑誌「アザリア」を発刊するなど、盛んに創作を始めています。 手紙の宛先はそんな友人保阪嘉内です。 賢治の年表によればこの手紙は、8月28日から9月8日にかけて、江刺郡方面に地質調査に出かけ羽田村、伊手村、米里村、種山ヶ原などを回った時に書かれたようです。 葉書にも「人首(現在の江刺市人首)ニテ 賢治拝」とありますから間違いないでしょう。
9月3日の消印の葉書に

(1) うす月にかゞやきいでし踊り子の異形のすがた見れば泣かゆも。
(2) 剣まひの紅ひたゝれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる。
(3) 更けて井手に入りたる剣まひの異形のすがたこゝろみだるゝ。
(4) うす月の天をも仰ぎ大鼓うつ井手の剣まひわれ見てなかゆ。  

と、月などが詠まれた短歌が4首書き込まれています。
シミュレートするためには日時の情報が必要になりますが、この葉書には、賢治がその日付を書き込んでいません。 従って、葉書の消印の9月3日以前、つまり9月2日の宵以前に詠んだ短歌であることがわかります。 また、この地質調査には8月28日から出かけていることを勘案すれば、8月28日〜9月2日までの間の様子と推測できます。 江刺における数日分の月の出の時間を調べてみると、

9月 2日月齢(15.7) 月の出18時11分
9月 1日月齢(14.7) 月の出17時39分
8月31日月齢(13.7) 月の出17時06分

となります。
賢治はいつの月を見ていたのでしょうか?  消印の前日、9月2日に、賢治は保阪嘉内あてに葉書(書簡40)を出しています。 この葉書には、「井手ニテ 賢治」とありますから、短歌中の地名とも一致します。 (但し、地名「井手」は、正しくは「伊手」と表記。また(4)の「大鼓」も「太鼓」の誤り) 月の出も日没(18時7分)後、数分後、暗くなり始めた頃とも一致し、東の空に出たばかりの丸い月が薄明の中に見え、絶好のお月見日和です。 参考までにこの日(9月2日)の江刺における日没などの時間を計算すると、

日の入  18時 7分    
月の出  18時11分    
薄明終了 19時40分    

となります。
いずれにせよ、ほぼ満月に近い丸い月が昇り、闇夜を明るくを照らしていたようです。 シミュレーションした画面は9月2日江刺における19時30分のものです。 まさに賢治の短歌を引き立たせるような情景です。 月齢15.7(19時30分)の月が東の空に出ています。
短歌(1)、(2)、(4)には「うす月」という表現が用いられています。 「うす月」とは「薄月」と書き、うす雲を通して見た月という意味です。 月齢2や3などの細い月の姿を表わすものではありません。


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