歌稿〔A〕 大正5年7月 小鹿野 350 1916(大正5)年9月4日
歌稿〔A〕 大正5年7月 小鹿野 350
1916(大正5)年9月4日
この時期賢治は、秩父方面に 土性・地質調査見学に出かけています。
その日程を堀尾青史著「年譜宮澤賢治伝」や原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」、また詳細に調査された文献として「宮澤賢治『修羅』への旅」萩原昌好著により調べると次のとおりでした。
- 9月1日盛岡発(午後7時)の列車にて出発。
- 9月2日午後12時53分上野着。賢治は午前中帝室博物館。
関教授指導の秩父、長瀞、三峰地方土性地質調査一行(農学二部、林科生)と上野駅で合流。
午後1時20分の列車で上野発。
熊谷へは午後3時20分に到着。
「蓮生坊」の歌を詠む。
熊谷に一泊したと推定。
(その後、熊谷、寄居、小鹿野、三峰山に行く)
- 9月3日熊谷より寄居、寄居から末野を経て国神まで。
立が瀬、象ケ鼻、荒川河岸の観察、親鼻橋近くの紅簾片岩(こうれんへんがん)等を調査。
梅乃屋に一泊したと推定。
- 9月4日国神より馬車で小鹿野まで。
途中、随時調査を重ねて「ようばけ」調査。
その夜は寿旅館に一泊と推定。
- 9月5日小鹿野より三峯山まで。
林学科との合同調査を重ね、三峯神社宿坊で一泊。
- 9月6日三峯山より秩父大宮まで。
三峯山を降り、影森の石灰洞を見学して、角屋で一泊と推定。
- 9月7日秩父大宮より本野上を経て、盛岡へ帰郷。
列車は午後11時と推定。
そんな旅の様子が、歌稿〔A〕大正5年7月の中に、「小鹿野」として詠まれている作品があります。
さはやかに半月かかる薄明の秩父の峡のかへり道かな
という短歌です。
研究成果により、この作品の詠まれた日付は9月4日の「ようばけ」調査後の宿への帰路であることが判明しています。
また、場所も埼玉県小鹿野と判明していますから、この日の宵の星空を再現させてみることが可能です。
まず、この日の小鹿野における日没などの時間を計算すると、
日の入 18時10分
薄明終了 19時37分
月の入 21時31分
となります。
このことから、宵の薄明時間として、18時10分〜19時37分と考えることができます。
但し、賢治が宿への帰路としている時間ですから、まだ歩くには十分な明るさが必要であることを勘案すれば、市民薄明の時間(太陽高度-6.0度)を目安に、だいたい18時半ごろまでに詠まれたものでしょうか。
シミュレーション画面は18時30分の空です。
月についてみてみると、月齢は6.7(18時30分JST)で、ほぼ半月、賢治の表記とよく一致しています。
また、この晩見えた惑星としては、木星が-2.7等でおひつじ座に輝いていました。
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