松五郎の玉手箱
MASTUGORO'S TAMATEBAKO
ここは我輩の情報保管箱です。(メール、新聞・雑誌の記事、手紙・葉書の投書 等々)

【保管ファイルNo.39】

  時代の風 (98.07.26 産経新聞)

     指導者に求められるもの

岩手県立大学長 西澤 潤一

 深い思索と果敢な改革

 もう50年にもなろうか、東京大学法学部教授だった川島武宜先生が、日本社会の原動力が立身出世にあることを指摘した明快な分析を「潮流」という雑誌に発表された。儒教を基本とする道徳が当時の日本社会の規範となっていたから、当然だったかもしれないが、ドップリ漬かって育ってきた私たちにとってみれば、改めて指摘されるとかなりのショックを受けたのである。

 それまでの規範は修身斉家治国平天下、そして名を上げ親を顕わすはこれ孝のおわりなり、と言った。まず自分の身を修め、家庭の秩序をしっかりさせ、国を平安にし、天下もすべて穏やかに、そしてその功績の故に名声をほしいままにし、親まで有名になる、これが親孝行という意味でも最高のものだとされた。

 これでは、キリスト教にある地の塩となって多くの人たちの幸福に貢献しよう、名を上げずとも他の人たちが幸福になればよいとする厳しい自己満足の思想とは、必ずしも合致しない。特に修養の不十分なうちは、相当な相違が出ることになる。

 特に効率中心の現代は、宣伝をしながらでなくてはせっかくのよいこともやらなくなってしまった。言い換えれば、名を上げるということに注意が行ってしまって、肝心な前段が欠落してしまう。実質よりも高い評価を受けて名を上げようとする。行き過ぎて、実質とは無関係に名を上げようとする者も甚だ多くなった。

 かつて、某大手電気会社の半導体工場で汚染のために急に不合格品が出始めた。途端に将来の幹部予定者だった工場長は他の工場に移り、ノンキャリアの次長が急に格上げとなって工場長を命ぜられた。その新工場長が最初に受け取った書状は、集積回路を受け取って組み立てていた工場長に就任した前工場長からの被害に対するしっ責の手紙だったのである。

 利益や損害に敏感で、厳しい評価を受ける企業でも、このようなことがある。企業以外では、こんなことがもっと数多くあることであろう。

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 うまくいった途端に多くの人間が現れて、さも自分の功績であるかのように言い、失敗すれば途端に皆で逃げ出すから、のんきに出来ている人間が逃げもせずにボーッとしていたり、後始末に行って手伝ったりしている方が犯人にされてしまうことが少なくない。

 こんな時、かばい合う相手がいれば、お互いに大変重宝だから貸し借り関係が出来たり、次第に派閥が形成されてしまう。最近でも、原因を作った人が処罰を受ける例は非常に少なく、事故発生の時にたまたま座っていた人が責任をとらされたという報道もかなり見られるが、これが報道されなくなってしまうだけで、修復力は全くといっていい程に少なくなってしまうのではないか。それが重なって、恐ろしい特権階級時代になりつつある。

 もし修正されたとしても、昔からやっているのと同じことさえチャントやっていれば、事故は起こらないだろうし、もし起こったとしても責任はないのだから、となってしまったのでは、これもまた進歩がなくなって、今や未曽有の変革の時代に対応して行かなければならないのに、転落してしまうことは間違いあるまい。

 つまり、今や私たちは、私たち自体の考え方、さらには感性まで変えてゆかなければならなくなっている。しかし、これは何も難しく変えていかなければならないということではない。本来の姿に戻していかなければならないだけのことである。

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 ノブレス・オブリージュと木村尚三郎先生は私たちに紹介してくださったが、フランスでは大学を出た人間は社会全体のことを考えて生活していなければならないが、大学を出ていない人は自分のことだけを考えていればよい、という表現で紹介されたこともあった。

 いずれにしても、平等を基本理念とするフランス人でも、人間それぞれの特徴を生かして多様な生活態度を持つような分業が行われているので、無論、収入や労働時間などには、かなりはっきりした格差がある。

 すでに米国は定年制を廃止した。日本の社会はまだまだ思い詰めていないから、いつまでも勤められると思ううかつ者が多い。事実は逆で、元々辞めさせられることに対し身分保障などない国だから、能力が足りないということなら、すぐにもかく首されることは変わらないが、能力があると見られれば、いつまでも働けるということなのである。それだけ、個人の持っている能力は、トコトンまで使っていこうという極めて厳しい話なのである。能力のある老人によって、若者が職を奪われることになるからである。

 個人個人の持っている能力を大切にする時代がいよいよやって来る。一律は続々と排除されるだろうし、そのためにも、個人の能力や成功は無論、失敗も厳正に評価されることが不可欠になる。一律が前提なら、個人のことはキャリアとノンキャリアといった大雑把な分け方で、偏差値に顔色を変える社会となっていこうが、個々の評価となれば、そうは言っていられなくなる。特に社会を活性化して世界の変革に遅れなくするためには、たとえ失敗して罰を受ける可能性があっても、社会の進歩のためにやってみようという気持ちを何らかの方法で持たしておくことが必要である。

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 従来、よく言われるように、失敗をしないという前提で生きていくこと自体が失敗であることを、まず自覚することが必要である。先輩にもらったノートを読みながら講義を聞いていたら、冗談まで去年と同じだったという話があった。無論、大切な教訓を含んだ冗談だったら、去年のと同じであることが当然と言えるが、その場合でも毎年、少しでもよい講義をしてやろうという意気込みが感じられなければならない。

 万事、罰点で採点する日本の評価の在り方に問題がある。そして、ただ、元気よく改革をやろうというだけでは駄目で、失敗をしないという慎重さが必要である。司馬遼太郎先生の作品で、土佐の長宗我部元親が、嗣子の信親が憶病なのを見て、本当に勇気のある者は憶病でなければ駄目で、もしそうでなければ匹夫の勇で頼りにならぬ、と言ったという下りがある。史実なのか、司馬文学の創作かは分からないが、大いに味わうべきことである。大きな責任を預かったことを考えれば、匹夫の勇であってはならず、絶対に失敗しないという深い思索の結果を、しかも時を逃さず断行しなければならない。

 自分の国のことが、他国の人に聞いて見なければ断行できないのは間違っているし、何よりもまず、いつでも、こういう時にはどうするかという仮想設問をして、措置を練っておかなければならない。大統領になりたいと考えていて、選ばれた時にどうしていいかわからないのでは、地位にあこがれていて、責任感を持たないのだから子供と同じである。

 戦後一貫して科学技術を敵視し、健全な育成を怠ってきた国が、科学技術立国も、財政回復もすぐには出来ないのは当然である。トンプクを飲むのなら副作用を予想し、また、長期療養も手を抜かないことである。

【保管ファイルNo.40】 情報公開法施行でどう変わる? (01.04.02 読売新聞)

芽生える参加者意識 官僚による占有に風穴

 開かれた行政の実現に大きな役割を果たすと期待される情報公開法が1日、施行された。

  編集委員 鶴岡憲一

 「情報公開法は、憲法の付属法典の一つといえるほど画期的な法律ではないか」1996年に同法の素案をまとめた政府の行政情報公開部会で部会長を務めた角田礼次郎・元最高裁判事は、同法についてそう語った。「開かれた行政、国民の行政に対する監視や参加を真に実効あるものにするには第一に必要な法律」という意味での評価だった。

 日本の行政は戦後、国民主権体制が確立されてからも官僚主導で行われてきた。その前提となっていたのが、行政情報の官僚による占有だった。官僚は国民から情報公開を求められても応じる義務はなかったのだ。

 規制をテコとする護送船団方式を基調とした官僚主導行政も敗戦後の効率的な復興に寄与した面があった。しかし、その陰で顕著になった官僚本位の行政は「省益あって国民益なし」の姿勢を生み、500兆円を超えた膨大な国の借金と戦後末曽有の経済の混乱に象徴される、負の遺産を21世紀に残した。

 情報公開法の制定段階で焦点となっていた薬害エイズや住宅金融専門会社の破たん処理などの問題は、閉ざされた行政が国民の生命や財産を損なうことにつながることを示した。また、今年クローズアップされた元外務官僚による機密費流用事件は、閉ざされたなかでの予算執行がどれほどの腐敗を生むかを改めて印象付けた。

 同法の施行により、官僚は国民から情報の公開を請求されれば、特別な支障の恐れがない限り公開に応じることが義務付けられた。角田氏の言う「開かれた行政」を実現するための条件整備が進展したことになる。

 情報公開が発揮し得る効果は国に19年先立って制度をスタートさせた自治体のなかでも、前向きに取り組んでいるところで示されつつある。

 三重県では、約700件の道路整備計画の必要性を関係者の理解を得つつ煮詰め、約270件に減らした。北海道・ニセコ町では、住民に嫌われがちな廃棄物処分場計画に「絶対反対」と言っていた住民も「よりよい施設に」と変わってきたという。

 これらの自治体の対応は「情報の共有による住民との協働」という新しい行政理念をも生んだ。北川正恭・三重県知事は、情報公開で豊富な行政情報を得られるようになる住民は″行政の観客″にとどまらず行政参加者として責任を担うべきことを指摘しているが、民主主義の進化の在り方を示したといえる。

 21世紀を迎えた日本には20世紀最後の「失われた10年」で露呈された制度疲労を克服し、日本再生のため構造改革を進めることが求められている。その方向をゆがめないためにも閉ざされた官僚主導体制の内で肥大化した省益意識に根差す行政を転換する必要がある。

 情報公開法は、官僚の力を支えてきた行政情報を公開するかどうかの最終判断を、官僚ではなく、中立的な第三者である裁判官に任せるという点でその有力な手段になり得る。

 それは、政治の行政に対する指導力を強化するのにも、様々な分野で進められている規制緩和に伴って国民や企業に求められる、安全や財産を保つための「自己責任」を果たす上でも役立つはずである。

 古代ローマの歴史家スエトニウスによれば、カエサルは元老院の議事内容を公開する制度を創設したことで民衆の支持を広げた。時代は異なっても、情報公開が行政への信頼を生む実例は、自治体の間で目立ってきている。中央省庁も、国民の信頼を回復するためにも、前向きに公開に臨むよう求めたい。


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