松五郎の玉手箱
MASTUGORO'S TAMATEBAKO
ここは我輩の情報保管箱です。(メール、新聞・雑誌の記事、手紙・葉書の投書 等々)

【保管ファイルNo.31】             (01.01.07 読売新聞 社説) 新世紀を開く

「共助」の心が支える成熟社会 少子・高齢化の向こうに

 ″日本衰退″が始まる?

 「日本は経済圏の三極に残れない。国内総生産は中国に抜かれる」米中央情報局(CIA)は昨年暮れ、日本人にはいささかショッキングな、2015年の世界情勢を予測したこんな報告書を公表した。

 ″日本衰退″の最大の要因は、少子化による人口減少、とりわけ高齢化に伴う労働力人口の減少にある。一向に回復しない出生率の低下から、わが国の人口は2005年あたりをピークに減少に転じることが確実になった。

 人口の減少が、社会にどんな影響をもたらすかについては様々な議論がある。土地や住宅にゆとりをもたらすといった指摘もあるが、中長期的にみれば、経済力の低下は大きな不安材料だ。生産性の向上で補うしかない。

 そしてもう一つ、21世紀の日本がどうしても乗り越えなければならない課題に「社会保障不安」の解消がある。「4対1」から「2対1」へ。20歳から65歳までの現役世代と65歳以上の高齢世代の人口比率が向こう25年間でこんなにも変わる。現行制度のままでは、現役世代の社会保障費負担は倍に膨れ上がる計算だ。既に、若年層を中心に年金離れや高齢者医療制度に対する不満が噴き出している。中高年層も、制度への不安から消費を手控え、景気が低迷する一方で個人金融資産だけが膨れ上がるという異常な事態を生んでいる。

 社会全体が自分の“殻”の中に閉じこもってしまったかのようだ。そんな例の一つに、自営業者らを対象とする国民年金の未納・未加入者の増加が挙げられる。保険料負担が重いという低所得層も少なくないが、未加入者の半数近くは500万円以上の年収があり、4分の1の人は900万円以上だ。 こうした人たちの多くは、民間保険で自己防衛しており、社会負担逃れといわれても仕方がない。

 新たな共同体目指して

 社会保障は、個人の努力だけでは負担しきれない疾病、失業、貧困、老齢、介護といったリスクを「社会の負担」としてカバーする仕組みだ。 医療費を例にとれば、1人当たりの生涯医療費は2,200万円にのぼるが、このうちのほぼ半分は70歳以上になってから使われる。長生きをすれば、それだけ費用もかかる。それを自助努力だけでカバーするのは困難だろう。年金や介護保険についても同じことだ。間違っても長生きを祝福できないような社会であってはならない。税金や保険料を通じてお互いを支え合う「共助」の精神が社会保障の原点だ。明日は我が身なのだから…。

 そうした助け合いの機能は、かつては家族や地域といった「共同体」が担っていた。高度経済成長に伴う都市化と工業化、核家族化の進展によって共同体の多くが失われた。豊かさと引き換えに″温もり″を失ったともいえる。

 とりわけ家族の問題は重い。昨年10月、高齢者からの介護保険料の半額徴収が始まったが、市町村独自で減免するところが相次いだ。全国平均だと月額7〜800円の保険料を払えない人たちへの措置である。そうした人たちは本来、生活保護の対象だろうが、実は、子供たちが扶養義務を果たしていないケースが少なくない。生活保護を申請すれば「子供たちに迷惑がかかる」としり込みしているのだ。核家族化は、さらに進んで「狐立化」をも生み出している。配偶者に先立たれた高齢者の一人暮らしはもちろん、若年世代でも未婚、晩婚化による独居世帯が増えている。熟年離婚の増加も無視できなくなってきた。社会の変容、家族の変質は今後さらに社会から狐立した人々を生み出しかねない。長期的に維持できる「安心のネットワーク」の確立がどうしても必要だ。

 負担なくして給付なし 

 反面、″甘え″も許されない。高齢者だからといってすべての人が弱者ではない。むしろ現役世代より豊かな人が大勢いる。要は、自立可能な人は自立し、真に助けを求めている人にきちんと救いの手を差し伸べるシステムだ。その財源を何に求めるのか。北欧型の税方式か現行の社会保険方式かで議論が分かれている。国民が重い税負担を受け入れるためには、政府に対する信頼感がなければならないが、わが国ではそうした土壌に乏しい。負担と給付の関係が明確な社会保険方式を当面は維持すべきだろう。お互いが負担すべきものを負担し、いざという時にはちゃんと給付が受けられる。そんな安心できる公正な成熟社会を目指したい。


【保管ファイルNo.32】  (01.01.09 産経新聞 主張)            人口減少時代

少子化は国の土台を崩す 社会保障のスリム化が急務

 いまの出生率が続けば、日本の人口は今世紀未に4,000万人余りと3分の1に減り、1,000年後は83人になってしまう。そこまではともかく、21世紀は人口減少の時代である。少子化対策を強化し、持続可能な社会保障制度と経済財政構造に改革しなければならない。

 昨年の出生数はやや増えたが、出生率はほぼ横ばいである。国立社会保障・人口問題研究所は、7年後から人口が減少すると推計しているが、実際は2年程度早まりそうだ。生産年齢人口(15〜64歳)は、すでに5年前から減少しており、今年は38万人減る見通しだ。

 国連経済社会局は昨年、日本の労働力人口が今後50年間に3,000万人減り、毎年60万人ずつ外国人を受け入れなければ労働力を維持できないと指摘した。しかし、移民を増やせば摩襟が大きくなり、今世紀末には外国人が日本人より多くなりかねない。人口が減少すると大都市の過密が解消して住みやすくなるという希望的観測もあるが、急激な人口減少は国内需要の減退、経済の失速、財政破たん、国民の負担増、国際的地位の低下など、国力の衰退と社会の混乱を招く。

 未来を託すメッセージ

 問題は人口減少社会にソフトランディング(軟着陸)できるかどうかである。ジャンプ競技のように、安定したテレマーク姿勢で着地できるか、空中で失速するかの違いといえよう。対応策は、まず出生率低下に歯止めをかけることである。今世紀末の人口は、女性の平均出産数が1.85人と多くなれば約9,000万人だから、平成11年の1.34人が続く場合の4,300万人に比べ2倍以上だ。

 本来なら、核家族化や女性の社会進出に応じて育児支援策を充実するのが社会保障政策の役割である。ところが政府も国民も周辺諸国の顔色をうかがったり、男女平等をはきちがえたり、長期的な見通しを欠いたりして、結果的に国の土台を崩してきた。

 少子化対策の目的は、子育ての障害を減らすことである。日本の社会保障制度は、長年にわたり与党の選挙対策を優先してきた結果、給付費の大半が高齢者に向けられ、年金、医療、介護とも国際的にみて高水準だ。

 先進国に共通の現象だが、社会保障が充実すると少子化が進む。子育てに苦労するより人生を楽しみながら貯蓄し、老後は他人の子が支える社会保障もあるという安易な考えが強まるからだ。いつまでも親に寄生する“パラサイトシングル”もその一種だろう。

 むろん、子供を育てる喜びや楽しみは大きい。しかし、身体的経済的な負担、仕事と子育てを両立しにくい職場環境などが少子化を加速している。

 介護に続き育児の社会化が必要だ。次世代のための費用だから、つけを残すという批判は的外れで、日本の未来に希望を託す明るいメッセージにもなる。その意味でも、今月から育児休業給付が給料の25%から40%へ引き上げられた意義は大きい。また、厚生労働省の発足で役所の縄張りがなくたり、育児支援政策が一体的に展開されるようになった。たとえば、ファミリー・サポート・センターは、保育所の時間外や小学校の放課後に子供を預かったり、保育所へ送迎する相互援助組織で、援助を受けたい人と援助したい人が登録し、報酬は一時間600〜700円程度である。

 官民一体で総合対策を

 現在は支援対象を雇用労働者に制限しているが、来年度から自営業や専業主婦にも拡大することになった。保育所に支部を置き、育児相談や保育サービスと連携してきめ細かいサービスも提供できる。

 人口減少時代に備えるもう一つの対応策は、年金や高齢者医療など社会保障制度のスリム化である。首相の私的諮問機関「社会保障構造の在り方について考える有識者会議」は昨年、@高齢者と女性の就労を促進し、支え手を増やすA子供を産み育てやすい環境を整備するB高齢者も応分の負担を分かち合うC年金、医療などの給付見直しと効率化で持続可能な社会保障制度を構築する―と提言した。

 社会保障給付費は今年度の78兆円から平成37年度の207兆円へ約3倍に増えていく。この間に生産年齢人口は1,400万人減るのだから、負担増と給付抑制は避けて通れない。

 新たな高齢者医療保険の創設を柱とする医療制度の抜本改革は今年末がタイムリミットで、政府与党の責任が問われている。基礎年金の国庫負担を3分の1から2分の1へ引き上げるにも安定した財源が必要だ。

 経済も財政も人口構造の変化に合わせてスリム化しなければ破たんする。首相が主宰する「経済財政諮問会議」は現実を見据えて日本の将来像と総合的な対策を打ち出し、官民一体で強力に改革を実行すべきだ。


【保管ファイルNo.33】  (00.12.5 産経新聞)

投票意識の変化 具体策 有権者に示せるか

産経新聞地方部編集委員 縣 忠明

 組織VS.草の根の対決となった長野、新潟、栃木の「知事選秋の陣」。結果は長野に続いて栃木も“草の根派”が勝ち、各政党の「相乗り方程式」が崩れた。

 選挙分析が専門の慶応大学法学部の小林良彰教授は「衆院選もそうだったが、有権者の投票行動は政治や行政を変えてくれそうな市民感覚の若い人材を選ぶ傾向にある。長野、栃木もその例にもれない」と有権者の投票意識の変化を指摘する。

 これが単なる地方選挙だけの現象なのか、国政選挙にも及ぶのか。来年夏の参院選が気になる。

 "栃木ショック"は長野以上に強烈だった。875票差で勝った福田昭夫氏(52)は63,000人の小さな今市市の市長。全県的な知名度はあまりないゆえ、選挙戦術としては支持政党を持たないいわゆる無党派層を頼りにした草の根選挙を展開するしかなかった。合言葉も「長野に続け」だったという。対する現職の渡辺一夫氏(71)は五期目を目指しており、知名度は抜群。「有権者の中には『もう長いよなあ』という多選批判もあった。しかし、その組織力からも負ける要素はなかった」(県議)。確かに、自民、民主など6党が相乗りしたうえ、県内各層の推薦も得て従来型の組織選挙をした。以前なら、福田氏は"泡まつ候補"の存在だったかもしれない。それが勝ってしまった。自治省の二橋正弘事務次官も「多選、相乗り批判など複数の要因があったろうが、率直にいって意外だった」と感想を漏らす。長野で勝った田中康夫知事(44)も相手候補より14歳若かった。小林教授が指摘するように、若いフレッシュな人材が勝利したのは時代の流れといえる。小林教授は「長野や栃木の出口調査を分析すると、有権者の投票行動に同じ傾向が出た。自民、公明の支持者の約80%が相手方に投票したが、支持政党なしの投票者は60%が田中、福田両氏に投票、相手方には20%しかいかなかった。これは」6月の衆院選でも全選挙区で同じで、無党派層の投票行動は都市も地方も関係ないというパターンは続いている」と分析する。つまり、無党派層がどれだけ多く投票に行ったかで結果が変わるわけだ。「恐るべし草の根派」である。同時に、保守王国の長野、栃木で無党派が勝ったことは参院選に与える影響も大きい。

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 有権者のもう一つの投票判断は、「箱物行政」に代表される公共事業に対する評価だった。国の借金が645兆円の巨額にのぼるが、これには地方の借金も入っており、自治省のパンフレットによると、平成12年度末の都道府県、市町村の借入金は184兆円にも達する見込みだ。この数字は対GDP(国内総生産)比37.5%になる計算。しかも、過去に乱発した地方債の償還が重くのしかかるため、雪だるま式に増え続けるのは確実である。3県の地方債残高も事情は同じ。栃木は8,666億円で県民一人当たり43万円の"借金"を背負っていることになる。新潟は1兆6,985億円で同68万円。長野も1兆6,241億円で同74万円(いずれも平成11年度末、一般会計ベース)に達している。

 栃木では福田氏が「公債費負担率や経常収支比率は危機的」として、県庁舎の建て替え見直しなどを迫った。渡辺氏は「財政の健全度は全国でトップクラス」と反論したが、有権者は福田氏に軍配を上げた。「公共事業の見直し」を公約した田中知事も、当選後1ヵ月で現場を視察した結果、ダム工事などの中止や再検討を矢継ぎばやに指示した。長野県庁の役人はもちろん、県議会も戸惑いを隠せないが、住民がどう評価するかはしばらく時間がかかりそうだ。

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 8日に閉会する長野県議会に"異変"が起きている。これまでは一般県民が議会を傍聴することはほとんどなかった。しかし、田中知事になったとたん、「どうしたら傍聴できるか,という問い合わせが多い日で4、5件はきている。希望者が多ければ、整理券を出すことも考えなければ…」(議会事務局)という事態になったのだ。長野市に住む主婦は「今まで県庁というところが何をしているかまったく知らなかった。でも田中知事のおかげで、新聞やテレビが毎日報道するから、職員が名刺を折り曲げても許されることも知ったし、とにかく県庁が身近になりました」と笑う。その意味で、田中知事の政治スタンスは県民に受け入れられているといえよう。福田知事も、14日からの県議会でどのような手法に出てくるかを注視したい。

 こうした有権者の意識変化は一つの流れになってきたようだ。これに政治は対応できているか―を考えると、はなはだ心もとない。さきの"政変劇"では自民党の加藤紘一元幹事長が「おやっ」と思わせたものの、結局は自民党内の抗争に終わった事実を見ればよくわかる。こうした政治の閉塞(へいそく)状況を打開するには「外向きの政治をすることだ」と指摘する小林教授。より具体策を有権者(国民)に提示することが大事というわけだ。これを実践し、有権者も支持している田中、福田両知事の方がよほど進化しているように映る。  (あがた・ただあき)


【保管ファイルNo.34】

(01.01.29 産経新聞『天下不穏』)  山手線事故と機密費問題

「懸命」の気概欠く政治家

 年明け早々、KSD(中小企業経営者福祉事業団)事件、外交機密費横領問題と醜悪(しゅうあく)極まるニュースが続く中、東京都新宿区のJR新大久保駅の山手線ホームで26日夜、酒によってふらつき線路に転落した見知らぬ男性をとっさに救おうと飛び降り、電車にはねられて死んだカメラマン・関根史郎さんと韓国人の留学生・李秀賢さんのニュースほど、痛ましいが、しかし、それにもまして重く心の奥底まで響きわたる深い感動を呼び起こしたものはなかった。

 「人は、ときに命にかかわることさえ顧みず、やらねばならない大事なものがある」―。戦後の日本人の間で“死語”になっていたこの古典的な美徳(勇気、名誉、自己犠牲などの市民的徳目)を、二人は文字どおり「命をかけて」思い出させてくれた。

 本来なら「国家のために死ぬ覚悟はあるか」と、常に自問自答しているべき政治家が、自らの懐を肥やす不正な金集めに狂奔(きょうほん)し「国家を背負って立つべき外務省」の機密費が、こともあろうに愛人の名前をつけた競走馬購入費に化けている。

 二人の死は、そのただ中で日本に打たれた「頂門の一針」である。

 森喜朗首相は、だれかれ構わずばらまかないで、いの一番に国民栄誉賞を関根史郎さんと李秀賢さんに贈るべきである。韓国人の李さんは賞の性格上、無理というなら外務省の機密費を感謝の印に差し出したらどうか? その方がはるかに機密費は生きるし、国民も納得するだろう。

 ところで「命をかける」という行為は、もっと平たく言うと「一所(生)懸命」という言葉が「生命を懸けて」と同義で語られるように、言葉(行動)の表現の究極は「死」と競合させられる、という意味である。「死ぬほど愛して」とか「死ぬほど頑張れ」という表現のように…。

 この「死と競合する」覚悟を示す言葉や行動が、いまや“死語”同然なのは、1996年のオリンピックで「楽しんでくるといって何が悪い?」と開き直り、物議をかもした女子水泳選手と、64年の東京オリンピックで銅メダルを取り「次は金メダルを」と期待された自衛隊員のマラソン選手・円谷幸吉が猛練習の未に「幸吉はもう疲れ切って走れません」と遺書を残して自殺した事件との“落差”をみれば、一目瞭然だろう。

 不真面目さに価値があり、ニュース番組まで“お笑いタレント”が仕切っている昨今、冗談ならともかく、真面目に「国家」とか「死ぬまで頑張れ」と言うのは何か、とんでもない恥ずかしいことと感じる“美学”みたいなものが支配的風潮になっている。

 かつて自民党の若手政治家は、こぞって事務所の壁に、J・F・ケネディの大統領就任演説の、有名な「国家が諸君のために何をすることができるかを問うてはいけない。諸君が国家に何ができるかを問いたまえ」という一節(And so, my fellow Americans : ask not what your country can do for you ask what you can do for your country. My fellow citizens of the world : ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.)を、張っていたものだった。

 いま、額賀福志郎議員の事務所の壁には「諸君はボクのために、どれだけの金が出せるかを問いたまえ」とでも張り出してあるのかな?

 政治家だけではない。いま“無党派”を誇らしげに名乗る市民主義者たちの中で、「国家に何ができるか」を自問自答できる人が、ひとりでもいるだろうか?

 「国家(統治者)が市民に向かって『お前の死ぬことが国家に役立つのだ』というとき、市民は祖国のために死ななければならない」(ルソー『社会契約論』)。

 ルソーの示した、この共同防衛の「市民」概念は欧米各国の憲法条項をみればわかるとおり、ヨーロッパの精神史を刺し貫いている。それに対して、日本では憲法第9条「戦争放棄」条項によって「祖国のために死ぬ」という観念が罪悪視され、時間の経過とともに死語化して「国家のために義務を負わない国民という奇妙なものができあがった」(佐伯啓思『「市民」とは誰か』PHP新書)。

 仮に「国家のために死ぬ」という烈々(れつれつ)たる気概が「国を背負って立つ」外務省官僚にみなぎっていれば、55億円を超す外交機密費全体の使い道に対する疑いの目は、もっと違ったものになっていたことだろう。 職員同士ゴルフ、飲み食いの付け回し、果ては外交官夫人らの海外での優雅な生活ぶりまで俎上(そじょう)にあがる、「組織ぐるみ」をにおわせるうわさが、まるで“パンドラの箱”でも開けたように出て来るのは、外務官僚にそうした気概のない、何よりの証拠だろう。

 ギリシャ神話のパンドラは、すばやくフタをしたので「希望」だけは残った。ところが、外務省からもれ聞こえて来るのは、機密費の実態調査を進めれば“日本の聖域”の部分に及ぶ、といった「袞竜(こんりょう)の袖に隠れる」たぐいの牽制である。

 もちろん、野党側は「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて、これを行使しなければならない」(憲法第83条)を常にとって、「国民から預かっている税金を国民に隠して勝手に使っていい、という理屈はどこからも出てこない」と、徹底追及の構えである。

 それは、現行の日本国憲法からルソーのいう「国のために死ぬ」徳目が導き出せないのと同様、戦前の軍部の機密費と同じ体裁をもつ現行の機密費もまた、憲法の“民主主義”理念からいえば、野党側の批判こそ筋が通っているというべきだろう。

 しかしながら、欧米の政治理念を刺し貫く“密教”部分に目を凝(こ)らせば、次の国家観が浮かび上がってくるはずである。

 たとえば、プラトンは「国家の政治的原理としては『偽善』がなければならねい」(『プロタゴラス』)と鋭く。田中美知太郎(ギリシャ哲学)訳によれば、「高貴なる嘘」(同『国家』)。つまり「政治はある偽善を必要とする、高貴なる嘘はつかなければならぬ」というわけだ。

 この欧米の政治理念に刺し貫かれる“密教(ホンネ)としての政治の知恵”から見れば「(日本国憲法の“顕教=けんぎょう=タテマエ”としての)民主主義を、熱狂的に信じる人々こそが民主主義制度を存続不可能にする」という結論に到達するだろう。

 この真理を“悟達(ごたつ)”したリーダーでなければ、プラトンのいう「哲人・王」とはいえまい。ところで、スイスのダボスで開かれた「賢人会議」には森首相のほか鳩山由紀夫民主党代表、石原慎太郎都知事らが“われこそは日本の賢人”と競い合った、と特派員電にある。

 さて、このパンドラの箱には、どんな「希望」が残るのやら?

  (久保紘之 編集特別委員) =毎週月曜日に掲載

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【保管ファイルNo.35】

(00.01.30 産経新聞 主張)

山手線事故  教えてくれた「自己犠牲」

 東京のJR新大久保駅で、ホームから転落した人を助けようと線路に飛び降りて亡くなった2人の男性の勇気をたたえる声が広がっている。産経新聞社には読者から「2人にこそ勲章を」といった意見や、遺族あての多くの見舞金が寄せられつつある。

 結果的には転落した人を救えないまま2人とも犠牲になったわけで、家族や友人たちの悲しみはそうした言葉だけでいやされるものではない。「わが身のことを第一に考えてほしかった」というのも、偽らざる気持ちかもしれない。しかし、それが決して「無駄な死」ではなかったことも強調しなければならない。「勇気」だとか「自己犠牲」の専さを身をもって国民に教えてくれたからである。

 とりわけ、韓国から留学していて事故に遭遇した李秀賢さん(26)の場合、異国の地でまったく見も知らぬ日本人を助けようと、ちゅうちょなく線路に飛び降りている。韓国で育った李さんのこのとっさの行動こそ、戦後多くの日本人が失ったものだった。

 友人たちによれば李さんは「人が困っているとき助ける勇気をもった人だった」という。しかし、そうした「勇気」は一朝一夕に身につくものではない。子供のときから家庭や学校、社会ではぐくまれていくものなのである。戦前までの日本の教育も、家庭であろうと学校であろうと、わが身を犠牲にして弱い人や困った人を助けるという勇敢さを育てることをひとつの眼目としてきた。

 犠牲といっても、必ずしも命を捨てるということではない。家族や社会のため、時としては国のために奉仕する気持ちを養うということだった。また社会もそうした行動をたたえてきた。そうであってこそ、とっさの場合の勇気も生まれてくるのである。しかし、戦後の教育においては、こうした勇気だとか自己犠牲を「国家主義につながる」として廃棄してきた。その結果、自分のことしか考えられず、社会のことをかえりみない若者や大人を育ててきたのである。

 先ごろ森喜朗首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」が学校教育への奉仕活動の導入を打ち出したのも、遅ればせながら、こうした教育の原点に返ろうとしているのである。森首相は29日の李さんの葬儀に列席し哀悼の意を表した。このうえは2人の崇高な死に十分に報いる措置をとってほしい。また国会での施政方針演説でもその勇気に敬意を表明し、国民にこうした精神の復活のための教育改革を呼びかけるべきである。


【保管ファイルNo.36】

恐るべき「甘え」の暴走                 (01.01.30 産経新聞 正論)

青少年犯罪から国際関係へ広がり

評論家 佐伯彰一

至る所にはびこる現象

 “甘え”という着眼による土居健郎氏の日本人論は、ひろく知られたところだが、この頃相次いで起こったいくつもの殺傷、少女監禁などの事件にもこの分析、相当当てはまるのではあるまいか。

 家庭で両親から個の「しつけ」も受けなかった少年が、いったん外に出て「挫折」を味わわされると、思いもかけない暴力沙汰を引き起こす。また学校の教室でも、たかだか数十分の集中、「強制」に耐え切れず、ちょっと注意でも受けると、教師に殴りかかったり、ナイフをふり廻したりする。

 もともと日本では、外国に比べて幼少年に「甘すぎた」というのは、『菊と刀』の文化人類学者の指摘だったが、わが国を訪れたこともなかったアメリカの女流学者による頭ごなしの「裁断」ぶりはともかくとして、社会的にも「甘さ」がいろんな場所にまではびこり、のさばってきたことは、まず疑問の余地がないだろう。

 そうした「甘え」浸潤の風潮が、敗戦後はまた「権威」の喪失、消滅と相まって、小学校などでも、授業中にさわいだり、勝手に教室から抜け出す生徒など、手のつけられぬような状態が、学校によってはかなり広がってしまった。その上、左翼系の教員組合の強い学校など、「平等指向」をたて前として生徒、学生たちをアジり、あおり立ててきたものだから、「校長土下座」事件とかいった、とんでもない事態まで発生するようになった。

暴力政治の旧ソ連賛美

 だから、諸悪の根源をもっぱら「甘え」に求めるのは行き過ぎだが、規制や「きびしさ」をなるべく少なくし、出来れば消し去ろうという戦後教育一般の傾向は、まず否めないところだろう。家庭における親の「権威」の喪失、希薄化も、こうした風潮に拍車をかけたに違いない。そしてアンチ権威の「平等」あおり立ての左翼的教員組合の主張と運動が、戦後の日本ではほぼ一貫して奇妙なほどの影響力をふるいつづけた。

 この際一層奇妙な話なのに、大方の日本人が見落としてきたことは、世界の左翼運動の総本山だった旧ソ連は、もともと恐ろしいほどの「恐怖政治」の国柄で、かつての旧同志たちを雁首そろえて裁判の座に引きずり出し、しゃにむに「自白」を強要して、一斉に「粛正」してしまったり、さらにおどろくべき数の「同志」たちを、強制収容所に放り込んで、何ともいえない「苦難」の歳月を強制したりした。その間の死者たちの数は、現在でも正確には判っていないのではあるまいか。

 そうした驚くべき権威主義、暴力政治の旧ソ連を、何と「平和」の守り神、階級の平等また人権の守り神のように賛美、またあがめ奉ってきた左翼政治家、日教組のリーダーたちなど、なんとソ連崩壊後ですら、ただの一言だって、公的な釈明、謝罪の発言は耳にした覚えがないのだ。これをしかし指摘、摘発した新聞というのも、当「産経」を例外とすると、ほとんどなかった。しかも、それで事もなくすんできたというのは、これまた何とも奇怪、驚くに耐えぬ言論界の「甘え」現象の遍満というほかない。

 いや、いまは主として青少年犯罪における、大きな病原としての「甘え」というテーマであるから、左翼進歩派人種における、身勝手すぎる「甘え」の遍満現象については、これ以上はふれまい。

批判、検証急務なり

 しばらく前、大学の教室での「私語」、ひそひそ話の横行が話題になった。ほんの一時聞かそこらの「沈黙」という規律にも耐え切れない。退屈なコーギというのも多いから、「学生の気持ちも判る」と言いたくもなるけれど、「私語」となるとはた迷惑であり、つまりは「少しぐらいの私語は大目にみてもらえる」という甘え心理に他なるまい。そして、注意、叱責に馴れていないから、顔ごなしにやられると、「トサカにくる」とばかりに反撥、反抗しがちなのだ。

 最近、高松市の「成人の集い」で、市長の講演中、「かんしゃく玉」をとばした若者たちが話題をよんだが、これまた典型的な「甘え」症状という他なかった。

 友人に冷たくされたから、女友達にすげなく扱われたからといって、たちまちストーカー、さらには傷害、暴行といった事件にまで立ち至ったりするのも、やはりもとは「甘え」根性ではあるまいか。自分に誰でも「やさしく」して、「甘え」させてくれるはずと信じ込んで、これが裏切られると、忽ち暴発して凶行に走りかねない。

 わが国の場合、とくに困ったことは、これが国際関係にまで及んで、ほかの諸国が「わが国の平和、安全を尊重し、守ってくれるはず」などという「思いこみ」を大前提として、外交方針をたてようとする政党まで出てくるのには呆れずにはいられない。「憲法」でそう重々しく謳っているのだから、国際的にこれを尊重し、どこの国の「テポドン」も素通りしてくれるはず―と思い込んでおられるのだろうか。「甘さ」オンチも極まれりという他あるまい。

 さまざまな形で現下のわが国にはびこっている「甘え」現象の検証、批判こそ現下の急務だろう。  (さえき しょういち)


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