松五郎の玉手箱
MASTUGORO'S TAMATEBAKO
ここは我輩の情報保管箱です。(メール、新聞・雑誌の記事、手紙・葉書の投書 等々)

【保管ファイルNo.28】(00.11.17佼成新聞)                老いの風景 21

広がる家族のぬくもり

宅老所「駒どりの家」神戸市長田区

 「ここは、いのちの町やなあ」と森栗茂一さん(46)がつぶやく。大阪外語大助教授。生まれ育った神戸市、とりわけ長田区界隈をフィールドに、都市民俗学の視点から町の変化を見つめてきた。

 JR長田駅から海辺まで、徒歩で10分ほど。地下鉄工事の槌音が消えるころ、神戸湾に面した駒ケ林という浜に出る。かつて豊かな漁村だった。

 ところが、森栗さんの著書『しあわせの都市はありますか』によれば、埋め立てが始まった1957年ころから浜は急変する。効率と大量生産を求める高度成長の到来。目前に見える巨大なガスタンクは、その象徴ともいえる。漁港から工場地帯に様変わり。多くの子どもたちは独立すると、親元を離れ、郊外のニュータウンにマイホームを建てた。残った住民は高齢化し、長屋には空き家が増えた。活気のあった魚河岸もさびれてしまい、漁村の面影は見る影もない。

 しかし、一角を歩くとお稲荷さんの鳥居などが立ち、下町風情が残る。細い路地も人情味あふれている。恵比寿さんか大黒さんか。石仏風の彫り物が、小路の角にデンと座っていた。昔ながらの民家の玄関をのぞくと、「宅老所・駒どりの家」という文字が目に飛び込んできた。

 およそ44坪ほどの和風の家屋のほとんどが畳敷き。台所では中年女性たちがエプロン姿で調理に精を出す。いずれもボランティア。テーブルを囲んで座るのは80代、90代のお年寄りだ。懐メロを口ずさむ。こっちのテーブルではテレビの料理番組に目を凝らすおばあちゃんたちがいた。のんびり、静かな時間が流れる。

 地域で老いを支える運動は、「空き家で昼食会したらどうや」のひと言から始まった。婦人会を中心にした高齢者向けの昼食宅配サービスが宅老所の前身だ。独り暮らしの老人がいれば、そこへ昼食を届け、一緒に食べて再び会社へ出勤する人々がいた。そのような地域の助け合いの心が、宅老所立ち上げには欠かせない土壌であり、今も原動力になっている。

 独居老人も少なくなかった。息子夫婦が共働きの家では、一日中、お年寄りが独りぼっち。家ではプロの介護人がいない。施設へ預けるには忍びない。かといって留守宅で年老いた親を一人にしておくのも不安。初老の夫婦は「明日はわが身」との心配を募らせた。地域で暮らす人々の差し迫った悩みを解消する場として「駒どりの家」が開設されたのは、91年暮れのこと。市電車庫の跡地を利用してのスタートだ。

 当初は水曜のみ、近所のお年寄りたちが通った。「ど素人ばかりで、できるんやろか」と運営委員の杉田実さん(74)は思った。鉄工所勤めを定年退職した杉田さんは医療生協の理事で、高齢者の相談役として「第二の人生」を送っていた。「畑違いの世界に舞い込んでしもうた」と笑いながら当時を振り返る。元気のよい定年退職組の中には元看護婦も何人かいた。ボランティアが一人、二人と集まってきた。現在地に移ったのは94年2月。築100年以上の民家の床や柱は腐り、莫大な費用で修繕した。しかし、コンクリートに囲まれた冷たい建物より、ぬくもりのある和風の民家のほうが、お年寄りたちには、よっぽど居心地がよかった。

 95年2月には一周年記念のささやかな催しをするはずだった。ところが1月17日、阪神淡路大震災に襲われた。屋根瓦が吹き飛んだ。幸いにも、建物は倒壊を免れた。その日から、宅老所は救援基地になった。全壊の家から助け出された老人、避難所にもいられない虚弱な老人の避難所となった。在宅のお年寄リヘの昼食サービスは命の支えになった。

 森栗さんによれば、「郊外の仮設住宅に移った地元出身の高齢者は、昼食会の案内があると、ほのかに口紅をさして遠くから出席するほどであった」という。

「安心」を模索

 ずっと運営を支えてきた加島徐代さんは75歳。ボランティアとして毎週木曜日、宅老所を訪れる。35年前、夫を亡くした。今は長男夫婦と3人暮らし。加島さんも杉田さん同様、医療生協で高齢者の相談に乗ってきた。お年寄りたちの悩みに付き合いながら、日常の暮らしの中で助け合う仕組みを模索してきた一人である。

 30代、セールスの仕事の傍ら義父母の世話をした。痴呆の義母を在宅で介護し、そして看取った。夫を亡くし、細腕一つでわが子を育てあげた。「何べん涙を流したか・・・」と言う加島さんだが、仕事や医療生協活動を通して得た人の輪が人生の支えにもなったという。震災後は「語部」となり、キャラバン隊の一員として遠方にも派遣。駒どりの家に通っていたお年寄りのうち、四人が震災で即死、その後も4人が腸閉塞や肺炎で亡くなった。それだけに、「安心して暮らせる施設を造らねば」との思いは強い。

 敗戦の45年は腸チフスにかかり、40度の高熱が出て20日間意識不明になった。「その年、生まれ変わったんよ。だから差し引いて、いま55歳やな。青春ですよ」。

 加島さんは宅老所の台所にも立ち食事作りをする。「みーんな子どもの時の味を知ってます。この味で元気になるんです」と加島さん。一日100食、材料は20種類。調理ボランティアは男女合わせて毎回10人ほど。年齢は40代から80代までと幅広い。「だれが世話をして、だれが世話をされているのか分かりませんよ」。

 このお弁当がまた個性的だ。たとえば、栗ご飯、煮魚(スズキ、ゴボウ、土しょうが)、おから(おから、ニンジン、ゴボウ、エビ、ネギ)、野菜サラダ(ブロッコリー、ニンジン、ジャガイモ)、ふ、かまぼこ、三つ葉。また、青シソの実の上に焼きたてのアナゴの卵焼き、冬ウリの干しエビくずあんかけなど、レパートリーは無数。食器はプラスチックを使わず、陶器である。唐揚げなども、野菜くずあんをつけて柔らかくするという気配り。しかも温かく、を心掛ける。この値段が300円。新鮮で安いものを仕入れるために市場に出掛けたり、安売りの広告も見逃さない。福祉に理解がある地域の食品会社も協力的だ。

ぴったり寄り添う

 代表の福井初美さん(48)は元訪問看護婦。ボランティアとして配食サービスに加わったのが駒どりの家にかかわるきっかけだった。訪問看護婦から病棟看護婦へ転属。「訪問看護では、お年寄りの生活環境まで配慮できたので、手厚い看護ができたと思う。でも、病棟では部分的にしかつながれなくなり、宅老所の仕事に飛び込みました」と言う。駒どりの家では、福井さんを含め常勤の看護婦が2人。パート4人。ボランティアは約100人近くにのぼる。中には介護を受けるお年寄りと同世代のボランティアも。独り暮らしで元気なお年寄りもボランティアにやってくる。

 今年4月からは介護保険も適用され、月・水・金曜日が介護保険を利用する日。火・土曜日は介護保険を利用できないお年寄りが対象だ。朝9時から夕方5時までで、利用料金は昼食込みで1回あたり1,500円。「介護保険が適用されなくても2日間利用できるというのがここの特徴なんです。どんな人も、困ったら受け入れる」と福井さん。

 「ここには上に立つリーダー的な人がいません。ほったらかしているようで、ボランティアは一人ひとりにぴたっと寄り添っています。これがうまくいっている最大の理由ですね」

 県内外から見学も月に5件ほど。「1日のスケジュールは」との見学者の質問に、「そんなん、ありません。入浴、食事、風呂…と基本的なサービスはありますが、一人ひとりのリズムに合わせて、さあやろか、という感じですね」と福井さんは説明する。「これなら私たちもできそう」と地元に戻り、宅老所を始めたグループもある。

 家の中は混沌とした感じ。お年寄りたちは、それぞれ好きな居場所を陣取り、歌ったり、うつむいたり。と、ビニールのエプロンをつけた男性が、お年寄りを抱えて、風呂場に連れていった。亀山修二さん(36)は働き者だ。愛称カメちゃん。なくてはならない存在である。

 近所の知的障害者共同作業所で働いていた。だが、震災で関連会社が倒壊、作業所の仕事もなくなり閉鎖。ケミカルシューズ工場てしばらく働いたが、慣れない仕事のため、まもなくやめた。そして駒どりの家にやってきた。父を亡くしたカメちゃんは、杉田さんを「じいちゃん」と呼び身内のように慕う。頑強な体でどんなお年寄りも、軽々風呂に運び入浴を介助する。「じいちゃん、ばあちゃんの喜ぶ笑顔が、うれしい」。入浴が終わると近所の独居老人宅へ昼食を配達するのもカメちゃんの役割だ。風呂からあがった人に、ボランティアはさっと冷水を差し出し、手と足のつめ切り、整髪をする。カメちゃんからバトンタッチ。ごく自然の連携が小気味よい。

生がすべて

 K子さん(53)は4年前、93歳の義母を看取った。その5年前から痴呆が出始めた。どこにでもある嫁姑の摩擦も経験した。けれど、震災後は脳梗塞になり、言葉が出なくなった。その時、なぜか無性に、義母のことがいとおしくなった。介護の大変さを見かねた知人が、駒どりの家を紹介してくれた。いつにもない笑顔に変わった。宅老所で仲間に出会えることがうれしかったのだろうか。ある日、義母の姿が家から消えた。駒どりの家に行っていたのだ。

 宅老所でははつらつとしていた。きっと施設の中で、決められたスケジュールでリハビリをし、食事をし、入浴をしというのと違って、素人集団ならではのぬくもりの中で、家族的なものを感じ取っていたのだろう。

 「家族みたいに、みんな言いたいことを言い合うんです。だれがどこに寝とるか分からん状態やね。それが家族とちゃいますか?おばあちゃん、白髪の中に黒髪が目立って増えてきたんですよ」

 K子さんの家は震災で倒壊。新築まで約1年かかった。新しい家で暮らし始めて3日後、義母は他界した。正子さんは、お礼奉公のつもりでボランティアとして駒どりの家に通った。2カ月間のつもりが、もう4年が過ぎた。「最初はお年寄りの世話をするつもりでした。気がついたら、私自身が楽しくなっていた」。ヘルパー2級の資格も取得。「おばあちゃんの置きみやげと思うとります」。

 スタッフの一人、神生昭夫さん(70)も定年退職後、ボランティアとしてかかわってきた。

 「ここには決まりというものがほとんどありません。ボランティアは都合のよいときに来てもらう。自由、利用者本位がモットー。自分の思いのままに動けば衝突が起こります。人さまのために。この心で支え合っている地域家族が、駒どりの家やな」

 森栗さんは言う。「底抜けの明るさやろ。駒どりの家は、長田的プラグマティズム(実利主義)のシンボルみたいなもんやな。人生を肯定して生きる。生がすべてなんです」。元気な高齢者が少し不自由な高齢者の世話をする助け合いの町。駒どりの家を軸に、「いのち」を支える人の輪が広がる。(文 須田 治)


【保管ファイルNo.29】                        (01.01.05 産経新聞)

参院選が政界一変の契機との予感                  屋山 太郎

自民党永久政権はない

 2001年7月に予定される参院選は、日本の政界を一変させるきっかけになる可能性がある。青木幹雄氏は自公保合わせると「64議席が勝敗ラインだ」と述べているが、これを割ると与党が参院で過半数を割ることになる。自民党は過半数割れを恐れて非拘束名簿式の併用を強行したが、それでも過半数割れの可能性は大きい。

 割れた場合、自民党は無所属や他会派からの引き抜きをやって当面を凌ぐかもしれない。しかし、それは勝負の時を先に延ばしたというに過ぎない。へたをすると、即、衆院解散という場面もあるだろう。

 自民党は最早、参院でも衆院でも、「単独で過半数をとる」などということはいわなくなった。94年の選挙制度改革をきっかけに、自民党の得票数は漸減を続けており、無党派層が常に50%前後を占めるようになっている。自民党には解党派層を呼び戻す力はなく、無党派は主として野党に流れつつある。

 こういう政界の変動は選挙制度を、小選挙区比例代表並立制に切り替えた時から予期されていたことで、いずれ政権は交代するだろう。自民党が健闘すれば、交代の時期は遅くなるし、民主党が頼りないとなれば、自民党政権が生き延びるだろう。それにしても、小選挙区制度である以上、自民党の永久政権ということは有り得ない。

「日本型社会主義」の終焉

 政治状況が冷戦時代と決定的に違うのは、自民党政権が引っくり返っても、社会主義政権にはなりっこないということである。保革の対立、自社2大政党制という冷戦時代の幻影を引きずって政界を見ると現状認識を誤ることになる。与党が保守であって野党が革新と見るのも間違いだ。自民党は官僚政治の守護神であるがゆえに、官僚体制にメスを入れられない。

 さきに自民党の行革大網が発表されたが、その大方は15年も前から叫ばれていた事柄で、今度こそ実現されると考える人がいたとしたらおめでたいかぎりだ。自民党への支持が減っているのは、国民が自民党と官僚のなれ合いのからくりを悟ってしまったからだろう。

 日本の経済が硬直し、再起が難しいのも、社会・経済の隅々にまで、官の行政指導やら介入、過干渉が入り込んで活性化しないからだ。銀行の護送船団方式は実は金融社会主義であったから、国際的な競争の中で一気に破壊されたのは当然だ。あらゆる業種に行政指導が行われており、ゴルバチョフはこれを「日本型社会主義」と呼んでいたそうである。

 あらゆる事業を官が運営しようとしている。特殊法人78、認可法人84、公益法人26,000。自由主義国でこれほど官が事業をやっている国はない。加えて自民党は2003年に郵政事業公社を発足させ、金融、流通分野に余計に官を進出させようというのである。これは民業を圧迫して新規企業の誕生を阻害するという効果しか生まないだろう。自民党と官僚は国家経営の失敗について、全く反省していない。

 KSDに見られるように、官が天下り先を作り上げ、そのうまみを政治家が吸う。このからくりが続く限り、行政改革も規制緩和も進むわけがない。自民党政治はあっせん利得政治そのものだ。

 「きれいな手」の大合唱

 野党はこの隠微な政・官の関係、あっせん利得体質を糾すことこそ、日本の活性化につながると考えるべきだ。従来、保革対立といえば、必ずイデオロギーが対立するものと考えられてきたが、どこの先進国で、保革が憲法や安全保障問題をめぐって対立しているか。民主党の横路孝弘副代表は鳩山代表が憲法改正に言及することに強く反対しているが、これはアナクロニズム(時代錯誤)そのものだ。憲法改正は新時代に向けて当然であり与野党で、その一致点を見つけてこそ、ようやく一人前の国家である。

 日本の政界を占う場合、イタリアの政界を見ると、従来から日本と類似していて極めて参考になる。イタリアの選挙制度は94年まで大選挙区比例制で多党乱立していた。94年に日本同様の小選挙区比例代表並立制(比例部分が25%)に切り替えて、94、96年の二回の選挙を経た。初回は右派連合が勝ち、2回目は左派連合が勝った。与野党の対立は冷戦中のイデオロギーの対立が消滅した結果、争点は財政再建のやり方、選挙制度の改正(比例部分の廃止)、地方分権、大統領選出の方法など内政問題に絞られてきた。

 現政権の左翼連合の中心には旧共産党が座っているが、この旧共産党は10年前に民主集中制を放棄し、党名も左翼民主党に変えたから日本共産党とは本質的に異なるが、日本共産党が変わる可能性もある。

 同じ選挙制度を採用したのに日本の政界再編が遅いのは、比例部分がイタリア(25%)に比べて多い(37%)せいだろう。しかし、小選挙区が主体である以上、時間はかかっても二大グループに収赦していくはずだ。その兆候はすでに出ており、一方の極が自・公、他方の極が民主・自由ということになる。

 イタリアの2回自の選挙は「とにかくきれいた人達に政治をやってもらおう」という機運が盛り上がって「マーニ・プリーテ」(きれいな手)の大合唱となった。その結果、半数の国会議員が入れ替わり、50年にわたって政権を担当してきたキリスト教民主党が、何とゼロになったのである。自民党もこの調子でいくといずれイタリアの轍を踏む可能性がある。   (ややま たろう)


【保管ファイルNo.30】                    (01.01.06 産経新聞 正論)

自民党は終焉の時を迎えたか 土建国家的な発想からの脱却不可欠

                              慶応義塾大学教授    榊原 英資

「化石化の道」を予言

 今から14年前、故佐藤誠三郎と松崎哲久は名著「自民党政権」のなかで次のように述べている。「このように巨大な社会変動が生じようとしている時、自民党は個人後援会から派閥そして党機構にいたるまで、制度化が著しく進行し、人事における年功序列主義と派閥均衡の原則の確立、後援会組織の世襲制による『二世議員』の増加、政策決定権限の分散化による調整能力の減衰等の現象が生じている。…これらは自民党長期政権安定化の要因であり帰結である。自民党はこれらの制度化を通して、フロンティアを開拓し、その基盤を拡大してきたとさえいえる。しかし制度化があまり進行すると、それは変化する状況への的確・機敏な対応を制約する要因となりうる。…現在のような大きな転換期には、過去の栄光は未来の成功を保証するものではいささかもなく、遂に輝かしい成功が失敗の第一歩となる危険は小さくない。30年にわたった自民党長期政権が今後もフロンティアを開設し永続するか、化石化の道をたどって徐々に衰退するか、または急激に没落するかは、自民党および野党の決断にかかっているのである。」

 21世紀が幕を開けたばかりの今、佐藤・松崎が指摘した問題はまだ解決されず、自民党の「化石化」はその最後の段階を捉えたようである。ここ20数年の間、1976年の新自由クラブに始まり、1993年の小沢一郎の新生党、細川護熙の日本新党、そしてごく最近の加藤紘一の乱等自民党改革の動きは継続的に存在したし、そのなかで少なくとも短期的には成功したものもあった。

あのしなやかさはどこへ?

 しかし、いずれの場合も自民党主流派の巧みかつ執拗な反撃に最終的には封じ込められ、結果として、制度化した自民党の硬直性は、むしろ、悪化したとさえ言うことができるのだろう。かつて存在した自民党の多様性としなやかもさは、剥き出しの権力的支配によって次第に失われてきたようなのである。93年に一党支配が終焉し、自民党がかつての余裕を失ったことがその最大の理由であろうが、政治的にも政策的にも何でもありという状況は短期的な権力維持のためには有効であっても、中期的には自民党の「化石化」を早めることになった。

 自民党が絶対多数を失った1993年からの8年は、日本経済の不況が長期的に続いた時期でもあった。ロッキード事件以来のあいつぐ政治がらみの汚職の摘発で、政・官・財の鉄の三角同盟が批判の対象になりながら、不況対策の名目で巨額の財政資金が公共事業につぎ込まれ、農水産業、中小企業に対する補助金や税制優遇措置は決して減少しなかった。

 例えば、列島改造計画以来の土建国家的支出の対象として批判され続けてきた土地改良事業の農水省の今年度予算は1兆1,000億円。これに国営直轄事業、地方単独事業を加えると年間約3兆円が土地改良事業に費やされている。減反と輸入自由化の進むなかでこれ程の公共事業が必要ないということは多くの関係者にわかっていながら、全国の土地改良組合、族議員、農水省構造改善局の利権のしがらみのなかで動きがとれないのだ。

広がる都市住民の反乱

 そして、自民党にとって致命的なのは、事業費の1割程度を負担しなければならない、本来の受益者である農家にも不満がたまってきたことである。都市から農村へ、大企業から零細企業への財政を通ずる所得移転がスムーズに行われているならば都市サラリーマンに批判されることはあっても、全国的にはこうした政策は支持されるはずである。しかし、今や、長野、栃木といった保守の地盤でも池すべり的変化が起こりつつある。都市のサラリーマンの反乱が農漁村を含めた粗方にも拡がりつつあるのだ。

 マッキンゼーは最近のレポートで、日本経済は年産性の高い輸出がらみの大企業セクターと競争が著しく制限されているドメスティックな製造業とサービス業の二元構造を持ち、後者の絶対的生産性はアメリカの約3分の2だと分析している。しかも、雇用でみると後者のシェアは全体の90%もあり、このセクターの改革なしには日本経済の力強い再生はありえないと結論づけている。

 後者の典型は、不動産、卸小売、医療サービス、食品加工等、政治及び行政の介入が極めて高いセクターでまさに鉄の三角同盟で保護され続けてきた業種なのである。しかも、多くの場合、不況対策や自民党の制度的硬直化の結果、規制や保養は増加していることが多い。日本経済再生のためにはこうしたセクターでの凝争の促進、規制の緩和が必要なのだが、これが極めて、政治的に困難なのである。

 経済の構造改革は、実は、政治改革なしには出来ないところまできてしまっている。そして、留意されなくてはならないのは、受益者である農民や零細企業の側からも、選挙を通じて、そうした改革への意欲が示されている点である。土建国家的発想に基づく、自民党政治は終焉した。自民党が終焉するかどうかは、自民党及び野党が変われるかどうかにかかっている。 (さかきばら えいすけ)


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