松五郎の玉手箱
MASTUGORO'S TAMATEBAKO
ここは我輩の情報保管箱です。(メール、新聞・雑誌の記事、手紙・葉書の投書 等々)

【保管ファイルNo.1】 1999.8.10 受信メール

「雇用における年齢差別禁止法」の制定を

「働き盛りの会」代表 兼松信之

深刻な中高年の雇用状況

 完全失業率が4.9%、失業者数が350万人に達し、倒産やリストラ等による非自発的失業者数も、全国で今や100万人を突破しました。その中でも、とりわけ30代後半から50代前半にかけての、いわゆる働き盛りのお父さんやお母さんは、極めて深刻な再就職状況に直面しています。その主な原因は、多くの企業が求人募集の際、採用条件に年齢制限を設けているからです。やる気や能力が十分あっても、もし採用条件に「30歳未満の人を募集」とあれば、30歳以上の人は応募出来ません。応募が出来なければ、採用される可能性はゼロです。

 一家の大黒柱であるお父さんが、会社の倒産で職を失ったとします。家族のために一日も早く再就職しようと新聞の求人欄を見ると、多くの企業が「30歳までの方」とか、「25歳から35歳まで」といった採用条件を設けています。求人雑誌もほぼ同様です。「ヤル気だけは人に負けない。能力だってないわけじゃない。どうして年齢で足切りされるのか」。お父さんはどれほど口惜しい思いで、求人広告を見つめるでしょうか。

 中高年の再就職の困難さは、数字にも端的に表れています。総務庁の統計によれば、45歳以上の事務系の人の求職倍率は、22倍から23倍といわれています。しかも、運良く再就職出来ても、給料は前職の時よりも半減してしまうケースも珍しくありません。また、労働省のアンケート調査では、「再就職の際に、何が一番障害になったか」という問いに、80%以上の人が「年齢が一番のネックになった」と答えています。

 ところで、4月1日から改正均等法が施行され、求人募集で男性・女性の差別をしてはならないことになりました。この法改正はまだまだ不十分なところがあるとは言え、雇用全般における女性の地位向上や職場環境の改善等についてはそれなりに評価されるものです。しかし、残念ながら、この均等法では男性・女性に共通する年齢による差別を取り締まることは出来ません。

 30歳以上の女性が正社員としてなかなか就職出来にくい理由は何かといえば、それは性差別にあるのではなく、実は年齢差別にあることが多いのです。「不況だから女性の求人は少ない」といっても、若ければ女性でも正社員として採用する企業は数多くあります。つまりは、女性であるから採用されないのではなく、年齢が理由で採用されないということが結構あるのです。このような年齢差別をなくすには、均等法の中に年齢差別禁止の条項を盛り込むか、新しく法律をつくる以外にありません。

あらゆる世代に関わる年齢制限

 ところで、年齢制限の問題は何も働き盛りのお父さんやお母さんだけの問題ではありません。年齢制限・年齢差別の問題は、あらゆる世代の人たちに関係しているのです。これは、「誰もがいずれは中高年になる。だから他人事ではない」という意味で関係していると言っているのではありません。年齢差別は、すべての世代の人たちに直接的に関わっているのです。

 例えば、若い人でも25歳を過ぎると、自分が意識していなくても年齢差別を受けているのです。25歳以上の人が就職・転職をしようとすると、その人の能力やヤル気には関係なく、大企業に入ることは、ほとんど不可能です。それは、多くの大企業が「新卒者あるいは2年遅れまで」といった極めて厳しい年齢制限を設けているからです。

 ここで、若い人からの年齢差別禁止に対する反対意見をご紹介しましょう。「年齢制限がなくなって、中高年が就職戦線に参入してきたら、ただでさえ厳しい就職状況がますます悪化する。機会均等の原則というけれど、中高年の人は若い時に一度就職の機会があったんだから、それで十分ではないか」とか、「中高年は若い人より覚えが悪いし、仕事が出来ないわりには給料が高い。自分が経営者なら、やはり若い人を採用する」というものです。

 前者の意見では、中高年の参入によって就職戦線に多少の影響があるという点は否定しませんが、「中高年の人にも若い時に一度就職の機会があったのだから、それで十分」という意見には納得出来ません。今まさに問題なのは、人生に一度しか良い就職のチャンスがないことなのです。もし、採用条件の年齢制限がなくなって、優秀であれば30歳でも、40歳でも一流企業に転職出来る可能性が出てくれば、新卒者の人も今シャカリキになって一流企業を目指す必要がなくなります。若い内は、そこそこの企業に勤めておいて、30歳を過ぎてから経験を活かしてステップアップ出来るということであれば、逆に就職戦線は今よりももっと緩和されるはずです。

 後者の意見は、より単純です。「中高年は覚えが悪い」とか、「仕事が出来ないわりには給料が高い」とかは、いわゆる偏見です。勿論、中にはそう言われても仕方のない人もいるでしょうが、能力の有る無しは年齢にあまり関係なく、むしろ個人差の方が大きく関係しています。  また、「自分が経営者なら、若い人を採用する」というのは、採用のチャンスを与えることと、採用することを混同した話です。採用条件に年齢制限を設けないというのは、ただ単に年齢に関係なく就労の機会を与えることで、それイコール採用ということではありません。実際に採用されるか、されないかは、各人と企業の間の需給バランスによるのは当然です。

 また60歳、65歳といった定年前後の人たちも年齢差別を受けています。定年制は日本ではごく一般的な制度であり、経営者でもない限り、本人が働きたいと思い、なおかつ能力も体力も十分ある人でも、「はい、定年です」と辞めさせられます。働ける人を無理矢理「年金生活者」にさせるのです。そんな状況を放置しておいて、政府は「年金の財源が足りない」と騒ぎ、その財源確保を理由に消費税を上げようと虎視眈々と狙っています。このまま定年制に手をつけなければ、政府の言う通り、年金の財源確保のために国民負担率を上げるか、あるいは「財源がないので、申し訳ないが年金を支給出来ません」ということになるか、のどちらかしかありません。

 日本を沈没させないためには、そのような小手先の方策ではなく、「年齢に関係なく、働ける人には働いていただく」といった、柔軟かつ効率的な社会に転換していかなくてはなりません。ここ数年は丁度、団塊の世代の子供たちの就職時期であり、一時的に就労人口が増加していますが、今後5年、10年後には就労人口は急速に減少していきます。そうなれば、一層、年齢制限のない雇用システムが不可欠になります。ちなみに、米国では1986年に定年制が廃止されました。

年齢制限は企業にとっても大きなマイナス

 勿論、この厳しい経済状況の中で、生き残りをかけて必死に戦っている企業にとって、使えない人材を雇う余裕など全くありません。しかし、だからこそ企業は求人募集の年齢制限をなくすべきだと言いたいのです。というのは、一般に考えられている程、年齢はやる気や能力にあまり関係ないからです。25歳であろうと45歳であろうと、駄目な人は駄目、有能な人は有能なのです。もし採用年齢を30歳未満に限定すれば、どんなに優秀な人でもその人が35歳、45歳であれば、その求人に応募出来ません。これでは、企業は自ら設けた年齢制限によって、優秀な人材をみすみす逃してしまうことになります。 

 求人募集の採用条件から年齢制限を外せば、応募者が増えて人事担当者の仕事が忙しくなることが予想されます。しかし、これはむしろ喜ぶべきことです。企業はそれだけ沢山の人材の中から選べるのですから、より優秀な人を採用出来る確率が高くなります。今まで30歳までの人しか採用しなかった企業が年齢制限をなくして30歳以上の人も応募させたならば、面接で「この人は40歳だけれどヤル気がありそうだ。一度試しに採ってみようか」ということになり、実際、仕事をやらせてみたら、「なるほど、年齢は関係ないな」ということになるかも知れません。もし一社について1名でも2名でもそういった人が採用されるようになれば、全国規模では、その数が数万、数十万になるのです。

 ここで一つ問題なのは、年齢給の問題です。「40歳の人には40歳の人なりの給料を支払わなければならない。わが社には、そのゆとりがないので、若い人を採る」と経営者が考えるのも一理あります。しかし、40歳の人が必ず40歳の人なりの給料を要求するとは限りません。「このご時世だから、まず再就職を第一に考え、給料はある程度妥協してもいい」と考えている求職者もいるはずです。しかし、そのような人がいても、もし年齢制限があれば応募出来ず、面接で給料の話も出来ないまま、門前払いとなってしまいます。

 このように、若い人から中高年齢者、そして定年前後の人まで、あるいは男性・女性の区別なく、すべての世代の人たちが年齢差別を受けており、そのことで大きな社会的不利益を被っています。また一方で、企業サイドも自ら設けた年齢制限によって、自らの首を絞める結果になっています。採用される側にも採用する側にもメリットがほとんどない、つまりは「百害あって一利なし」の年齢制限・年齢差別は、一日も早くなくさなければなりません。

米国の「年齢差別禁止法」とは

 ところで、「自由主義経済下において、企業がどんな基準で誰を採ろうが勝手ではないか」という経営者の方もおられます。確かに、法律に違反しない限り、どういう基準で誰を採用しようと企業の自由かも知れません。しかし、この自由にも自ずと限度があります。企業も社会の一員なのですから、社会的な道徳規範を守るのは当然でしょう。法律で禁止されていないからといって、何をしてもいいことではありません。

 その良い例が、公害問題です。法律というものは、社会問題化してからかなり後になって出来るものです。法律が無いからといって、公害の垂れ流しという反社会的な行為をしても良いということには決してなりません。年齢差別はまさしく公害の垂れ流しと同様、社会的に許されないことなのです。  

 欧米先進国では、年齢差別は人種差別・性差別・障害者差別などと同様に社会的不公正であると考えられています。なぜなら、年齢というものは肌の色、性別、障害などと同じように、自分の努力では変えられない属性だからです。努力で変えられない属性で社会的に差別してはならない、努力で変えられない属性を求人募集の採用条件にしてはならないというのが、先進国家の常識です。しかも米国、カナダ、ニュージーランド、ヨーロッパの国々では、年齢差別は法律で厳しく禁止されています。

 それでは、ここで米国の「雇用における年齢差別禁止法」を例にとって説明しましょう。

 米国の「雇用における年齢差別禁止法」(ADEA)は1967年、雇用における人種差別・性差別などを禁止した公民権法第7篇を手本として制定されました。その概要は、一定規模(20人以上)の企業では、40歳以上の被用者に対して雇用の全般において、則ち採用から配属、昇進、昇給、異動、環境、定年、解雇に至るまで年齢で差別してはならないことになっています。ですから、採用の時に年齢制限(年齢の上限)を設けることは出来ませんし、また年齢を理由に年長者を解雇することも出来ません。

 しかも、企業は毎年、所轄機関である機会均等委員会(EEOC)に「どの年齢層の人を何人採用したか。あるいはどういった年齢層の人を何人解雇したか」などを報告しなければなりません。日本の企業のように、若い人だけを一度に大量に採用したり、あるいは年長者ばかりを解雇したりすれば、ある一定期間内に提訴されます。そして、もし裁判に負ければ、企業にはバックペイ・慰謝料・懲罰金などの支払い、復職・採用・昇進・昇給の実行など厳しい救済義務が科せられます。      

 一方、日本では各種の労働法に年齢差別の禁止は明記されていませんが、年齢差別は国の最高規範である憲法の第27条「勤労の権利」及び第22条の「職業選択の自由」に抵触する恐れがあります。また、雇用における大原則である「機会均等の原則」にも反します。日本も先進国の一員であるならば、社会正義に反する年齢差別は早急になくすべきであり、そのためには、憲法だけではなく、労働法の一つとしてハッキリと雇用における年齢差別を禁止する法律が必要です。

公務員採用試験の年齢制限もおかしい

 ところで、年齢制限といえば、もう一つ大きな問題があります。それは、公務員採用試験の年齢制限です。国家公務員の採用試験では、第1種は33歳まで、第2種は29歳まで、そして第3種は21歳までといった年齢制限があり、また地方公務員の採用試験でもそれぞれ年齢制限が設けられています。そのため、民間企業に何年か勤めていた人が、「市民のために直接的に働きたいから、公務員になりたい」と決心しても、年齢制限に引っ掛かって試験が受けられないのです。

 人事院にこの件に関する見解を問い合わせたところ、「公務員採用試験の受験資格にある年齢幅の根拠について」という表題のついた次のような解答がありました。
 1. 国家公務員採用試験の受験資格については、国家公務員法第44条において「受験者に必要な資格として官職に応じ、その職務の遂行に欠くことのできない最小限度の客観的且つ画一的な要件を定めることができる」とされており、これを受けて人事院規則において、各採用試験ごとに受験資格を定めている。
 2. この受験資格は、原則として年齢のみによっており、年齢幅は、学校教育体系、対象官職への採用の実態等を考慮して定めている。

 年齢制限をすることが、「職務の遂行に欠くことのできない最小限度の客観的且つ画一的な要件」であるかは、大変疑わしい限りです。また、「学校教育体系、対象官職への採用の実態等を考慮して」とありますが、これは、学校を卒業して数年以内で大方は就職するであろう、あるいは今まで若い人しか採らなかったから今後も若い人しか採らないということでしょうか。もしそうであるならば、これらは、年齢制限を設ける正当な理由とはとても言えません。人事院はまた、「中途採用も行っている」と言っていますが、これは全く次元の違う話です。公の試験である公務員採用試験に、社会的差別の一つである年齢制限を設けること自体が問題なのです。

エイジフリーの時代へ

 日本でも、終身雇用制が崩壊する日が近づいています。すでに中小企業では雇用の流動化が進み、定年前の離職・転職は当たり前であり、それに対応して年齢に関係ない採用なども行われています。しかし、大企業では年俸制の導入、派遣社員の活用などは進められてはいるものの、採用に関してはまだまだ年齢に固執する企業も多く、雇用の流動化に十分対応しているとは言えません。

 雇用の流動化とは、「雇用の出口」が広がることを意味します。「雇用の出口」が広がれば当然、「雇用の入口」も広げなければ、雇用の需給バランスが崩れ、日本は隅から隅まで失業者で溢れてしまいます。このような雇用不安・社会不安は、企業とて決して望んではいないでしょうから、企業も社会的責任として「雇用の入口」を広げる努力をしなければいけません。  この「雇用の入口」を広げるということは、求人の際に余計な採用条件を設けない、則ち年齢制限をしないということに他なりません。

 21世紀は、年齢差別がなくなる時代、エイジフリーの時代です。それは年齢に関係なく、働きたい人が働ける世の中にしないと、小子化・高齢化の日本はやっていけないからです。そして、やる気と能力のある人たちの就労の機会を奪っている求人募集の採用条件の年齢制限・年齢差別をなくすために、一日も早く日本版の「雇用における年齢差別禁止法」を制定しなければなりません。

 「年齢に関係なく、働きたい人が働ける世の中をつくりたい」、「真面目な人が報われる社会にしたい」という願いは、「社会的差別や社会的不公正は絶対に許せない」という良識派の方には、利害や立場を越えて、必ず理解されるものと信じます。


【保管ファイルNo.2】 1999.8.15 メールによる紹介

地方自治法施行50年記念

「分権時代における地方自治体および自治体職員の課題と提言」 入選論文

「行政の民主化」と自治体職員

桑原 隆太郎 (風連町)

はじめに

 明治維新・戦後改革に次ぐ「第三の改革」とされる地方分権が、21世紀を目前にしたこの時期に大きな政治課題となり一つの社会的潮流になろうとしていることに、歴史の妙味を覚える。戦後50年の自治の歩みがもたらした蓄積の上に立って今こうして「分権の時代」に向き合うとき、同時代を生きる自治体職員の一人として、自分の住むまちと職場としての役場をフィールドにして自己表現できる立場にあることは幸せである。地方自治法施行50年を記念しての「分権時代における地方自治体および自治体職員の課題と提言」をテーマとした本論文募集に応じた動機もそこにある。

 地方分権推進委員会が担っている全国レベルの分権改革の骨格が、機関委任事務の原則廃止に裏付けされた「国と自治体の関係の再構築」とするなら、個々の自治体レベルにおける分権改革の目標設定は「行政と住民の関係の再構築」に置くべきである、というのが私の問題意識であり、それを「行政の民主化」という視点で考察しようとするのは、再構築に向けては「行政機構は、住民にとっては権力機構でもある」という認識から出発すべきと考えるからである。

 ある新聞の寄稿文で、「国民の安全を守り、暮らしを豊かにする上で国家が果たす役割を否定する人はいない。しかし、『霞が関』が『国家』であるかのように振る舞う官僚に不快感を持つ国民は多いはずだ。国家は霞が関や永田町にあるのではない。────」との指摘を目にして、我が意を得た気がした。そして同時に、ここにある「国民」を「住民」に、「国家」を「自治体」に、「霞が関」を「市町村役場」に、「官僚」を「役場職員」にそれぞれ置き換えて読めるのではないか、とも思った。「役場が自治体であるかのように振る舞う職員に不快感をもつ住民は多いはずだ。自治体は役場にあるのではない」と読み替えてもおかしくない現実があるのではないか、と。 思うに、住民の自治機構としての行政(その実質としての役場ないし職員)に与えられている権限が、住民に対する「権力」の意味合いを強めるのは、今日の自治体における行政の体質とそのスタイルがいまだ自治的に成熟していないことの反映であろう。その意味において、住民との関係を自治的に整備できる行政スタイルの革新と、それを支える民主的なルールと自治的な行政技術の開発が、分権型社会における「行政の民主化」に切り込んでいくために必要とされる作業になるであろう。そして、そこにこそ、自治体職員の出番があるはずだ。

 戦後自治の歴史において一つのメルクマールになった1960年代の自治体革新が、革新自治体の輩出が物語るように、保革の政治的枠組みに規定された「保守政治に対する行政の民主化」であったとすれば、分権型会の到来に備える今日的な「行政の民主化」を基本的に規定するのは、政治ではなく「住民との関係」であろう。保革の政治的文脈とは別の次元で、行政の側の主体性において住民との関係をどう自治的に築き上げていけるかが問われている。行政スタイルの自己革新と自治的行政技術の開発・習熟に媒介された「行政と住民の関係の再構築」が急がれる。

 以上の問題意識のもとに、本稿では、前段で「行政の民主化」が求められる自治体の現実の分析を試み、後段において行政スタイルの自己革新と自治的行政技術の開発・習熟に向けての自治体職員の課題について考察する。

1 自治体における「行政」の位置

(1)「行政」は「自治」を代替できない

 言うまでもなく「自治」と「行政」とは別々の概念である。両者は極めて関係が深く、互いに分かちがたく結びついている側面があることは事実だが、だからといって両者を混同ないし同一視することは強く戒めなければならない。「自治」は価値目標たり得ても、「行政」それ自体は価値目標にはなり得ない以上、自治行政が住民自治を代替することはできないのである。自治体における行政機構は、「市民にとって必要な道具としての代行機構」として存在する。自治体が目指すべきは「住民による自治」であり、「行政による自治」ではない。このことを肝に命じたいと思う。

 地方分権推進委員会の中心的存在として知られる西尾勝東大教授は、その著「行政学の基礎概念」で「政府」とは何かを考察し、「自治体が『政府』とよぶべき自律的な政治単位である以上、地方行政は地方政治に従属すべき侍女である。また、自治体の独自行政が個性豊かなものになるためには自治立法権が広範でなければならない。いいかえれば、『地方自治』を『地方行政』と同視するような観念と用語を徹底的に払拭する必要がある」と指摘している。

 西尾氏が「政府」概念を考察する中で自治と行政の関係に言及したことに注目するならば、「自治体は政府である」という認識の欠如あるいは希薄さが、「自治と行政の同視」を許す要因として作用しているように思われる。

 地方分権推進委員会は、「分権改革」を明治維新・戦後改革に次ぐ「第三の改革」と位置づけ、国と自治体との関係を「現行の上下・主従の関係から新しい対等・協力の関係に改めなければならない」との基本認識を示した。ここにおいて、現憲法が、第8章に「地方自治」の章目を設け、国レベルの中央政府のほかに「もう一つの政府」として都道府県と市町村が存在すること、すなわち「自治体は政府である」ことをあらかじめ国の政治制度に明確に位置づけていることの意味が、改めて重みを持って思い起こされる。

 西尾氏が注意深く「自治体の独自行政」という言い方をしていることに着目して言えば、日本における自治体行政は中央省庁の包括的な指揮監督のもとに作動していることに触れねばならない。国の行政も自治体の行政も「行政は一体である」とする観念がまかり通っているからだ。そのことを端的に物語るのが「末端行政」や「上級官庁(指導機関)」なる“行政用語”の流布である。この言葉をなんの違和感もなく平気で使う市町村長・助役や自治体職員が珍しくない現実がある。

 確かに分権推進委員会が指摘したように「上下・主従の関係」が厳然として存在している以上、事態の正直な反映として自治体の側に自らを「末端行政」とする意識が働いたとしても、ことさらに責められるべきではないのかもしれない。しかし、「住民のための行政」という立場に立ち切ろうとすれば、まさに「末端行政」なる観念と用語を徹底的に払拭することは、自治体行政の当事者たる者の責務であろう。住民生活に直接かかわる「現場の行政」は、「末端」ではなく「先端」に位置するものでなければならない。自ら気概をもってそう意識することが、職業として自治に携わる者の全うな在り方であろう。

 そもそもこの国における行政の構造に対しては、よほど自覚的であらねばならない。国家観念から出発する伝統的行政観が今なお支配的に通用している現実を直視するとき、「行政」それ自体、無色透明で中立的ではあり得ない。絶えず中央=地方関係に引きずられて観念される恐れを内包しているのである。「ですから、自治体は、地域住民の政府ではあっても、けっして中央政府の地方行政機関なのではありません」(新藤宗幸著「市民のための自治体学入門」)という指摘を、われわれ自治行政に携わる者は心して受けとめなければならない。行政機構が「市民にとって必要な道具としての代行機構」ではあっても、「行政」に「自治」を代行させてはならないのである。

(2)総合計画は「行政計画」であってはならない

 本来、「住民による自治」でなければならないにもかかわらず、いつの間にか「行政による自治」にすり変わってしまっていることを象徴的に示すものとして、市町村総合計画の形骸化を挙げることができる。計画策定の手順に始まり、策定された計画内容ついで計画内容の具現化・実践における進行管理から評価に至る一連のプロセス全体において、その内実は「行政計画」の域にとどまっている、と言わざるを得ない実態があるからだ。どこの市町村にもある総合計画は、我がまちの将来像と戦略構想を描き、住民生活や地域の課題などまちづくり全般に関して我が自治体はこうする、という目標を設定し、その実現に向けての様々な方策・手だてを体系的にまとめ上げたものである。まさに「自ら治める」べき対象となる事柄が総合的に集約されて出来上がっているのが総合計画なのだから、この総合計画の具現化・実践こそ各市町村における「自治」の具体的表現である、と言えるはずである。まちづくりや行政の運営は、この総合計画を基本にしてなされなければならない。そういうものとして、市町村総合計画はある。この認識が大前提になる。

 問題は、現実の姿である。策定の手法、計画の構成と内容、計画の推進において自治の精神が貫かれているかどうかである。策定の手法については、さすがに近年は住民参加による自前方式が一般化するようになったし、先駆自治体の事例に学びながら住民参加を前面に打ち出して自前の策定手法を開発する自治体が生まれるようにもなった。この点は明らかに前進している。

 しかし、「住民参加」もそこまでである。ひとたび計画が出来上がってしまうと、あとはすべて行政まかせになり、担当セクションが“縦割り行政”の中で当該年度の予算査定に縛られながら個別バラバラに事業化して執行していく。これが全道市町村に共通する実態であろう。住民の代表で構成する策定審議会も答申を行った段階で、お役御免となり、その後の出番はない。あとはすべて行政頼みということになる。

 要するに、計画の策定段階はともかく、計画の実行段階では住民が直接関与できる仕組みになっていないのである。確かに計画の進行管理に関して議会がチェックすることは可能だ。3年スパンで毎年見直す実施計画の内容を議会に報告する市町村が多いであろうから、その限りでは間接的な住民参加が担保されている、という言い方もできないわけではない。

 だが、ほとんどの市町村で自治省モデルを画一的に採用している現行の基本構想・基本計画・実施計画の3点セットそれ自体が、もはや時代にそぐわなくなっている。とりわけ実施計画の在り方に関しては問題が多いだけに、議会の関与といっても形式的であり、事後的な議論の域を出ない構造になっている。つまり、計画は自治的につくられても、計画の実施及び進行管理そして評価に関しては自治的でないところに現状の総合計画の根本的欠陥があるように思われる。総合計画は、行政によっていわば骨抜きにされた状態にある、と言えば言い過ぎだろうか。

 こうした認識に基づいて自治の原則を総合計画に反映させようとするなら、論点は明確になる。それは、計画の推進にあたって住民参加が可能となる具体的な仕組みを計画書そのものの中にきちんと盛り込むことである。「住民参加」を原則論に祭り上げるのではなく、方法・装置としての住民参加を貫くことである。総論的理念と各論レベルの個別政策とをつなぐパブリックなルール、すなわち住民の積極的関与を保障する制度やシステムを開発して運用していくことを、総合計画そのものの中に明示する必要がある。

 その意味で総合計画の形骸化を防ぐ最大のシステムは情報公開である。総合計画に盛り込まれたどの部分が当該年度予算のどの部分に反映されているのか、いかなる施策として目に見える形にしたのかを住民にわかりやすく整理して知らせることは、やろうと思えばできないことではない。あるいは、この1年間に総合計画がどれだけ進んだのか、その実績についてわかりやすい指標を開発し、市町村広報誌などを利用して住民に知らせるべきである。企画課など総合計画の担当セクションは業務として実施計画の進行管理を現にやっており、関連資料を作成して行政内部や議会にも資料提供しているはずだから、それをもとに住民向けによりわかりやすい形に加工して情報公開することは、できない相談ではなかろう。行政がいわば独占的に所有している情報をオープンにして住民に知らせることによって、総合計画の管理と評価を自治的に行う道も開かれてくるものと思う。すでにある情報ですら行政の内部情報の形でしか使われず、肝心の住民参加のために十分に活用されていないところに問題がある。そうした問題意識を含めて行政技術が立ち遅れているのである。

 このように、総合計画の在り方を住民参加を原則とする自治の視点で点検し検証していけば、具体的な改善点がいくつも浮かび上がってくるにちがいない。繰り返しになるが、「総合計画」を「行政計画」にとどめてはならない。現状の総合計画の在り方に不都合を感じないとしたら、それは惰性による“行政の奢り”と言うべきであり、われわれ自治体職員の怠慢を意味すると言わざるを得ない。

(3)それでも「行政」の存在は大きく重い

 ここまで、自治と行政の関係について考える中で、自治体に占める「行政」の位置をもっと相対化すべきである、という持論を述べてきたが、裏を返せば、それほどまでに自治体における「行政」の力は圧倒的に大きい、ということでもある。行政の質が、住民参加のまちづくり、すなわち住民自治のありようを実質的に規定している点において、とりわけ小規模自治体にあっては、現実の「行政」の存在は、逆説的な意味合いを含めて、いかにも大きく重たいのである。

 人口が6,000人弱の私の町を例にとって言えば、こういうことである。平成8年度の予算規模は、一般会計で約60億、特別会計等を合わせた総額は約77億円にのぼる。純農村の当町におけるいわゆる農業粗生産額は平均的な年で約50億円であり、商業統計による商店等の年間売上額は約60億円であることを考え合わせると、「役場の予算」がいかに大きいかが実感できる。「うちのまちの最大の地場産業は行政だ」と口にした町民がいた。それでいけば、職場、雇用の面では「役場はナンバー1の大企業」と言えるかもしれない。正職員で約百八十人、長期の臨時職員を含めると200人を超す。人件費は臨時職員賃金を含めると15億円近くになる。金の面でも人の面でも、そして情報量においても圧倒的な組織の力を持つのが、小規模自治体における「行政・役場」なのである。

 これだけの資源を誇る「行政・役場」が、その本来的役割に基づいて組織的、専門的、職業的に「まちづくり」を行うのであるから、、行政の質や役場総体の力量によって「まちづくり」の質と水準が左右されることは当然の帰結である。その意味において自治体間格差と呼ばれるものの核心部分は行政水準の格差にある、と言えるだろう。その存在が圧倒的に大きく重いがゆえに、行政・役場そして自治体職員は絶えざる自己検証と住民監視のもとに住民との自治的な関係を築いていかねばならないと考える。

 とりわけ小規模自治体における「行政・役場」が自治の原則に鈍感になるとき、「まちを管理しているのは役場だ。まちづくりは行政にまかせてほしい」という感覚に陥りやすい。また、住民も行政まかせ・役場頼みに流れがちになる。ただし、「行政による管理」それ自体が悪なのではない。都市型社会になって住民生活のすみずみにまで公共政策の発動が必要になる以上、行政による管理は必然であり、そのことをもって「管理社会の弊害」とするのは短絡的に過ぎるであろう。「行政による管理」と「自治」は矛盾しない。問題は、「行政による管理」の正当性が、自治の原則に照らしてどれだけ住民の支持を調達しているかであり、ここにおいても行政と住民との関係が問われることになる。

 どこの市町村でも、今では「住民参加のまちづくり」、「開かれた行政」、「行政と住民とのパートーナーシップ」といった考え方が支持を得ているように思われる。しかし、こうした考え方が一般的な「基本姿勢」にとどまり、切実な地域課題の解決に向けて現実に力を発揮していないのも事実であろう。自治の理念や原則が現実に照らして有効に働くためには、方法と技術を必要とする。そこを職業的に担うのが自治体職員である。自治の原則に依拠して行政と住民との関係を再構築していくために、自治体職員は何ができるのか、そのことを次の章で考えていく。

2 行政スタイルの自己革新と自治的行政技術の開発

 自治体における行政の体質と職員の行動様式を、ひとまず「行政スタイル」と規定し、日々の仕事を通して職員が身につけた実務上の知識や経験を「住民のために」自覚的に使いこなすことができる職業的力量のことを「自治的行政技術」とした上で、行政スタイルの自己革新および自治的行政技術の開発と習熟に向けて、その両方の当事者である自治体職員はどうあるべきか、そのうえで何ができるのかを考える。

(1)「実務」は「想像力」を必要とする

 自治体職員の行動様式は、「公務」たる実務のありように当然ながらに深くかかわる。私自身は自治体職員になって10年足らずと行政経験が浅く、しかも配属先が社会教育係と現在の町史編さん係の二つということで、一般的な行政知識と実務経験が極めて乏しい。だから実務に言及することへのためらいもあるが、「実務をこなす力は必要条件ではあるが、十分条件ではない。“こなす”力だけでなく、事態を変えうる力量を備えたい。“こなす”実務に裏付けされた『現場の理論』を身につけることを目指したい」と、昨年の「地方自治土曜講座」受講者の一人としてメッセージを送った立場から、私なりの実務観を披瀝してみたい。

 自治体職員の実務内容は、所属する部署によって質的にも量的にも随分と違う。扱う仕事や対象となる事務によっても違うし、年齢や職制上の立場によっても実務の中身は大きく異なる。だから、一口に「実務」といっても、様々なとらえ方ができるのは当然である。そのことを前提にして、なお言えることは、自治体職員として一人前になるには、実務をこなす過程で身につける経験の蓄積が不可欠なことであり、実務経験の幅を広げることなしにはプロの行政マンたり得ない。

 しかし、そうした実務能力は、自治体職員に最優先される必要条件ではあるが、それだけをもって十分条件とは言えないところに、「行政スタイルの自己革新」につながる実務問題の核心がある。優れた自治体職員は優れた実務家を意味しても、その逆は必ずしも真ならず、なのである。「実務能力」と言い、「優れた実務家」と言う場合の「実務」とはいかなる質のものかが問われてくるからだ。

 実務とは「目先の仕事」や「決まりきった事務作業」を言うのではない。差し迫った問題に対処する具体的手だてを考え出したり、新しいプランを練ったり、他のセクションとの内部協議や調整、住民との話し合いや折衝にあたるなど、多種多様な実務の姿がある。たとえ無味乾燥な日常業務であったとしても、ルーチン・ワークそのものの中から地域課題を発見してその解決方策を模索したり、現場の実務に精通することで、制度上の矛盾に気がついたり前例・慣行の不都合を見抜いて改革の実を上げることもできよう。あるいはまた、仕事を通じて積極的に住民と交流したり、職場を離れ住民の一人として地域の諸活動にかかわることを通してまちづくりへの関心を高め、そこから汲み取った問題意識を自分の実務に生かすこともできるだろう。

 それにしても、実務は経験に結びついて力を発揮するから、往々にして前例踏襲の弊害を誘い込む。それが「縦割り行政」にすくい取られると、無意識のセクショナリズムにつながりやすく、結果として特定領域の実務能力を発揮することに自足してしまいかねない。「○○課(○○係)の職員である前に、○○市町村の職員たれ」とは、よく言われるところである。つまりは、修辞的に響くかもしれないが、道職員が「道庁の職員」であってはならないのと同様に、市町村職員は自治体の職員なのであり「役所の職員」であってはならない、ということであろう。

 実務は、その性格上、現実を重視し、堅実な仕事ぶりを要請する。「実務は理屈通りにはいかない」ことはその通りであろう。だが、現実の条件を無視した空理空論は論外にしても、理論や思想を締め出した所で成立する実務は、レベルの低い実務と言わなくてはなるまい。たとえば「地方分権」がそうだ。職場や日常業務において地方分権との具体的関わりを意識する場面が少ないからといって、「地方分権など自分には関係ない。差し当たって地方分権など知らなくても実務はこなせるし、いい仕事はできる」というのが本音だとしたら、それは想像力の貧困を意味する。地方分権に想像力が伸びていかない実務は本物ではない。分権型地域社会における自治体職員に求められる実務は、自治の価値に結びつけて住民参加、情報公開、行政手続き、政策開発、職員研修、自治体法務等々の自治的システムの開発とその運用の習熟に切り込んでいけるものでなければならない、と思うのである。

(2)すべては議論することから始まる

 役所に限らずどこの世界でも、物事を上手に取り運ぶには手順が大切であり、その過程でいわゆる根回しが必要となることは誰もが経験する。また、組織は秩序を必要とするから、組織内部の明示的な独自ルールや不文律としての慣習が出来上がっていることも当然である。そうした組織運営に関する一般法則が役所にもあてはまることは否定すべくもないが、行政という公の仕事に携わる役所には、組織一般の法則とは別に、パブリックなルールに則って物事を取り運び、そのことを外部に対してもきちんと説明できる行動様式(アカウンタビリティー)が、要求される。

 しかし、乏しい経験ながら、行政運営の現実と役所の現状を直視するとき、パブリックなルールやアカウンタビリティーは影を潜め、姑息な根回しや牢固な慣習が幅を利かせる組織風土と職員のメンタリティーが支配的であるように思えてならない。ここに的を絞って「行政スタイルの自己革新」に切り込んでいかねばならない。その役割を担う自治体職員にとって有効な武器になり得るものとして、「議論の力」を強調したい。行政内部で、そしてまた住民とのかかわりの中で、議論して議論して議論し抜くことによって、事態を打開する道筋が見えてくるにちがいない──というのが、自治体職員としての私の信条である。

 意見の違いが「人格の評価」に結びつきやすい、この国の国民性は、組織社会においては無言の圧力として作用するから、行政内部で自由闊達な議論を行うことは「言うは易く行うは難し」ではある。気心の知れた者同士の間なら相互批判を含めての率直な議論が可能だが、会議の場では無難にして穏当を旨とした発言が善しとされる。“議論好き”や理屈屋”が嫌われるのは経験則が教えるところだ。

 しかし現状追随では事態は変わらない。そうと気づいた者が実践するしかない。議論不足あるいは議論軽視の風潮が根強い背景には、「議論のための議論」への反発ないし反動があり、「議論下手」が災いしているように見える。議論は独りよがりではいけないし、言いっぱなしですませることとは違うのだから、それなりのルールと技術の習熟を必要とする。事態認識の深化や課題解決に向けた建設的にして生産的な議論が奨励されなければならない。正確な情報の共有化に基づいて事実関係や前提条件、判断材料などを吟味した上できちんと場面設定して論点整理を行い、その共通の土俵の上で各自の意見を率直に開陳しあうことによって、議論は深まる。そうした議論の深まりの中で物事が決まっていく。それが、公の仕事にかかわる合意形成や意思決定に参画する自治体職員のパブリックな行動様式であり行政スタイルでなければならない。もちろん住民参加による政策形成過程においても同じことが言える。

 議論をつくすことを厭わない自治体職員、議論を恐れない自治体職員でありたい。自治の営みと地域民主主義の実践においては、一人ひとりが自分の意見を持ち、相手の意見に耳を傾けることがなによりも大切なことだ。すべてはおおらかに議論することから始まる。そのことを行政・役場内部で、住民とのかかわりの中で実践していきたい。

(3)行政技術としての情報公開

 結論的な言い方になるが、「行政の民主化」には、住民のための情報公開を徹底できるかどうかが死命を制すると考えている。制度としての情報公開条例の制定は無論のこと、その前提となる行政情報の管理や住民への提供手法の開発を含めた全体政策を早急に整備する必要がある。条例をつくって開示請求に応じることで善しとする受け身の情報公開ではなく、開示請求の有無にかかわらず住民が必要とする行政情報や政策情報をわかりやすく整理・加工して行政の方から積極的に送り届ける、いわば攻めの情報公開に勇気を持って踏み込まなけばならない。そこにこそ“行政のプロ”たる自治体職員の腕の見せ所がある。説明責任(アカウンタビリティー)は本来、自治体職員の得意とするところのはずなのだ。

 アカウンタビリティーが求められる最たるものとして、予算あるいは財政に関する情報提供を挙げることができるであろう。よく言われるように、自治体の予算書は極めてわかりにくくできている。これほどわかりにくい予算書ですませているのは世界中で日本だけだろう。款項目節による仕分けを分解して、住民がピンとくる事務事業別に組み立て直した「もう一つの予算書」を作成して、住民に知らせるべきである。これは、職員数の少ない自治体でも組織を挙げての行政技術を駆使すれば実行可能な一つであろう。

 あるいは、我が自治体が抱える大きな政策課題について、その論点を整理して住民の政策判断に役立つように広報誌などを活用してわかりやすく伝える政策情報の提供も、その気になりさえすればできることであろう。現に恵庭市や厚岸町のように読者である住民本位の立派な政策広報誌を出している自治体がある。このことに関連して、町史編さんの仕事をしていて気づいたことだが、各課各係は自分の担当領域にかかわる現状と課題に対する「役に立つ資料」を意外と持っていない。問題の所在は十分に把握しているし、それなりに対応策も用意しているが、それを整理して第三者にわかりやすく説明ができるように情報管理をしていないのである。「役所の仕事は文書主義」といわれるが、アカウンタビリティーの視点にたった文書管理や資料づくりのマネジメント技術については未開発の状態にあるのではなかろうか。

 住民参加を形骸化させている卑近な例として、会議運営に見る「住民不在」とそれを許す行政側の技術的未熟の現実を指摘したい。まず会議資料について言いたいことは、論点整理の発想が極めて乏しい点である。事務的な報告資料は多すぎるくらいに出るが、中心的議論の深まりに役立つように、事務局が事前に主要な論点を整理してペーパーにまとめたものが出席者に供されることは滅多にない。継続協議などの場合は、前回の会議での議論経過や貴重な発言内容に関する要点メモなどがあれば、随分と役に立つ。会議の開催や打合せは、役所内での日常不断の合意形成や政策決定に不可欠のプロセスだけに、そこでの議論をより生産的にさせる資料作成の技術的習熟が行政マンには要求される。

 次に、住民参加が行われる各種審議会や協議会等の開催にあたっては、数日前に会議資料を配付するのが会議招集者たる行政側として当然のマナーであろう。加えて、配付する資料の中には、当日の議論の焦点になると予測される事項の予備知識や判断材料として役立ち、委員がより積極的に発言することに貢献できる「事前情報」を提供するくらいの親切さがあってもよいのではなかろうか。会議の場で資料を渡され、事務局から長々と説明を聞かされてから形式的な議論をしてそれで会議終了というのでは、住民参加による会議開催の積極的意味が薄れてしまう。スケジュール消化のアリバイ的会議の開催は論外として、議論を通して住民同士の理解が深まり、かつ行政側との共通理解も進むように、自治体職員は会議運営に関する行政技術にもっと習熟する必要があろう。

 最後に、情報公開にかかわって、自治体職員はもっと住民を信頼すべきことを主張したい。たとえばこういうことである。「これこれの情報をこの段階でオープンにしたら住民は誤解して事態の混乱をもたらす」とか「結論が出たことは表に出せるが、途中経過については新聞記事にしてもらっては困る」とか「議会に説明する前に住民に知らせるわけにはいかない」等々の考え方をする職員が多い。では、なぜ住民は誤解しやすいと思うのか。なぜ途中経過を知らせたくないのか。なぜ住民が議員よりも先に知ってはいけないのか。たぶん、それに対する有力な答えは、そうすることで過去に問題を生じたという「行政経験」に基づいて、経験的に「住民にはこの程度の情報公開でいい」と思い込んでいるからであろう。つまりは根本のところで、住民の反応を信頼しきれていないからであろう。「よらしむべし。知らしむべからず」の意識が見え隠れする。

 だが、住民を信ずるのであれば、誤解が生じたなら誤解を晴らすべくとことん説明をすればよいことであろう。その覚悟があれば、途中経過も明らかにできるし、「議会軽視」なる批判を恐れることもない。行政に対する住民の信頼を得たいのであれば、まず行政の側が、自治体職員自らが住民を信頼しきることだと思う。自治体の「情報公開」は、行政に対する住民の信頼をつなぎとめる最大の方法であると同時に、その取り組み姿勢を通して行政の側が本当に住民を信頼しているのかどうかが試されるものとしてある。

 以上、「行政の民主化」を目指す上で不可欠にして不可避の課題と考える行政スタイルの自己革新と自治的行政技術の開発・習熟について、自治体職員の在り方に引き寄せて持論を述べてきた。このうえは実践あるのみ、と自分に言い聞かせている。

おわりに

 本稿全体を通じて、論考の方法として「行政」と「住民」を対置させる形で書き進めてきた。そのことによって、「住民」を無批判にとらえて「行政」を批判の対象とする一面的な見方に終始している印象を与えたかもしれない。論考の未熟さを差し引いた上での筆者の思いは、「住民あっての行政」という一事につきる。「市民の不在」、「住民エゴ」、「民度の低さ」といった議論があることは承知しているつもりである。住民自治の現状にしても行政と住民の関係にしても、きれいごとではすまされない、とも思う。留保したいことはいっぱいある。

 それでもなお、「だが、しかし」というのが、私の立場である。「自治」であり、「行政」である限り、「住民」を信じることなしには、すべては虚妄に終わる。その信念は動かない。「行政」と「住民」の間に横たわる相互不信の現実は、行政マンであり住民である自治体職員の奮闘努力によって突き崩していくしかない。その気概を持って取り組んでいきたい。過疎化の現実も、「まちづくりで飯は食えない」とのつぶやきも、このまちで暮らし地域に生きる人々一人ひとりの自律的な営み中に答えを見つけ出していくほかはない。地域の人々を信じて自治の理念に向かって愚直に歩き続けようと思う。


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