第13章(教育)関連資料 <資料1> ●教育基本法(昭和22年3月31日法律第25号)施行、昭和22年3月31日 朕は、枢密顧問の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここにこれを公布せしめる。 教育基本法
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
第1条(教育の目的)
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第2条(教育の方針)
教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
第3条(教育の機会均等)
第4条(義務教育)
第5条(男女共学)
男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。
第6条(学校教育)
第7条(社会教育)
第8条(政治教育)
第9条(宗教教育)
第10条(教育行政)
第11条(補則)
この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。
教 育 勅 語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ輩ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ
此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ惇ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶願フ
明治二十三年十月三十日 御名御璽
教育勅語等排除に関する決議
昭和23年6月19日 衆議院可決
民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の改新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。右決議する。
「教育改革国民会議(江崎玲於奈座長)」の教育基本法の改正論議への声のうち賛成反対を問わず「なるほど」と思うものをとりあげてみた。
(00.9.17 産経新聞)
大人にこそ「奉仕基本法」を 評論家 石川 好教育改革国民会議が、中間報告の原案をまとめた。論議されていた「教育基本法」の改正については深く言及せず、教育改革のための財源や年限、数値的な目標を掲げる「教育振興基本計画」などが中心になるらしいと新聞が伝えている。今回の教育改革の最大の狙いは「教育の森」を自負する森内閣存命中に、憲法改正と並んで戦後のタブーである「教育基本法」の見直しを図ることであるようだ。公教育、徳目教育といった古めかしい言葉が並ぶのがその証拠である。少年による殺人事件、中高年の自殺者増加。こうした時代の潮流もあって、多くの国民も支持するとの判断があったかと思われる。しかし、中間原案では「教育基本法」の改正にまでには踏み込めていない。とりわけ「奉仕活動」を義務としてカリキュラムに入れるかどうかに賛否両論があったからだという。徴兵制のないわが国で、それに代わって一定期間、社会奉仕の時間を課して子供に犠牲の精神を教えよう。子供らの精神が荒廃しているのは、広い意味での教育のせいだ。そこで彼らを鍛え直すには、昔懐かしい「勤労奉仕」を復活させようというわけである。
日本の大人は、本気でそんなことを考えているのだろうか。子供は家族の鏡、大人社会の鏡ではないのか。被写体を直さず、鏡を直してどうするのだ。修復すべきは、子供に写る被写体ではないのか。大人にこそ一定期間の「勤労奉仕」を義務として課すべきなのだ。「少年法改正」「教育基本法改正」と子供がらみの法律改正案が声高に叫ばれているが、それよりも「大人法」や「大人教育基本法」を新しく作って、日本の大人が自ら立ち直る姿勢を子供らに見せるべきなのだ。子供に関する法律をこねくり回すよりも、奉仕の精神を忘れている戦後50年を生きた日本の大人にこそ、これを課した方が子供の教育にも役に立つだろう。奉仕の精神を忘れた大人が、教育現場でどんな面をして、子供に奉仕の精神を説くのか。悪い冗談である。
<資料5・投書> 00.9.9 産経新聞
高校生
安田達朗 18(東京都武蔵野市)ゆとり教育を進める議論が活発になっている。今の学校教育は詰め込み過ぎであるというのだ。だが私の経験ではそうは思えない。
勉強のできる子供の親は子供を塾に行かせるものである」それは、学校で教えることよりもはるかに高度である。それなのに、ゆとり教育によって、学校のレベルを落せば差は広がる一方ではないだろうか。
さらに問題なのは理科や算数などのレベルを落して英語を加えることである。
多くの人は小学校で、生物の観察や理科の実験で生物や科学への興味が生まれ、身近な社会を学ぶことによって社会への興味が増し、算数によって現代科学を支える数学への興味が生まれる。すべて小学校のうちにしか学ぶ機会はない。それは柔軟な発想を生む大切な基礎力であり、これがなければあらゆる学問は成り立たない。
これこそが日本を支えてきた原動力であり、英語は外国語の一つであるから全部の人に求められるべき学問ではない。基本的に日本語ができれば不便はない。
学級崩壊が増えたのはゆとり教育導入後であるという。その失敗は明白ではなかろうか。
小学校が学問への興味を与える重要な場であることを再認識してほしい。
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<資料6・投書> 00.9.12 産経新聞
もっと自由な平和教育を!
菊地 千夏
33(茨城県つくば市)私の故郷・長崎の学校では、夏になると平和教育なる名目の授業があった。被爆体験手記を読み、感想文を書くというもので、それだけに終始していた。
体験談の内容は被爆都市の惨状と壮絶な肉体的苦痛を伝えるもので、生徒たちは一様に「このような悲惨な出来事は二度と起こしてはいけない」と書くのにとどまり、それだけだった。
地方テレビ局も毎年8月になると、被爆者の体験や遺品を伝えるシリーズをニュースで流し、8月9日が過ぎると、また来年まで、何事もなかったかのよう。ほとんど年中行事のようだった。
中学1年のとき、とうとう、「原爆の犠牲者は本当に気の毒だし、今後絶対にこのような惨事は起こしてはならない。しかし、被爆体験の伝承のみに終始することが真の平和教育とは認められない。私たちはなぜそこに至らなければならなかったのかを検証し、今後の国際関係の中で二度と戦争を起こさないためにどのような姿勢をとっていくべきかを追求することが平和への道ではないか」という内容の感想文を提出し、こっぴどく怒られた。
現在、長崎において、どのように平和教育が進められているのか知らぬが、自由な発言を拒む体質からは何も生まれないと思う。(主婦)
投書子は長崎、私は広島。似たような「平和教育」とやらを受けてきたのであろう。
「叔母は原爆ドーム内で爆死、母は被爆者、自分も被爆二世。その上、村や親戚を見回せば、親を失った子供たち、子に死なれた親、何らかの形で原爆の被害を被った者だらけである。おれにリトル・ボーイをくれたらホワイトハウスに投げ込んでやる。平和を念仏のように唱えておれば平和になるのか、悲惨さを売り物にして被爆者は救われるのか、二度と原爆を落されない保障はあるのか。被爆者の犠牲を無駄にしないためには我が国に対し原爆を使おうとする勢力に対する抑止力を持たねばならない。武力こそが最大の“矛”を“止”める“力”なのである。」
期末試験の答案にこう書いて、「平和教育」の推進教員と罵り合ったのは高校3年生だった。(しかし、この教員は成績で嫌がらせはしなかった。次の授業の時に返された答案に「近視眼的なバカ者の意見ではあるが、ある意味で感動した。」とのメッセージを添えて100点満点の×だらけの答案に120点をつけていた。――が、「バカ者呼ばわりするお前に評価されたくない。」とばかり、答案用紙は紙飛行機になって窓から飛んだ。この件以来この教員とは親しくもならなかったが特別にらみ合うこともせず、授業ボイコットも試験拒否もせず、ごく普通の教員と生徒で終わった。「可愛くないガキ」と映ったろうが、こと「被爆」に関して悲惨さや安っぽい平和主義を吐かれると過剰反応する。)
投書子は中学1年のときというから早熟だねぇ。
00.10.4 メールによる紹介/新聞の投書欄からであるという。(掲載紙、掲載日ともに不詳) 効果あるのか平和の呼びかけ
「8月15日」が近づくと、日本各地に戦争を語り伝える催しが多くなる。しかし、これらはどれくらい世界平和に貢献してきたのだろうか。第二次大戦後、半世紀がたつが、地上で戦争が絶えたことがない。平和の呼びかけの効果は疑問に思える。訴え方、やり方を改善すべきである。外国で起きている局地戦争には無関心であり、外国に行って訴えることもあまりしない。
われわれの先輩たちが、なぜ戦いの道を選んだのか。外国の指導者たちが、いまなお戦い続けているのはなぜか。そのあたりの掘り下げが、全く欠如している。原因を調べることなくして、原因を取り除くことはできない。
催しではもっぱら、戦争の悲惨さや被害が語り伝えられるが、いま戦争をしている人たちにそれを伝えて、戦争をやめるだろうか。まず、聞く耳は持たぬであろう。原因が解決するまでは、死を覚悟してやっているのだ。
今、急ぐべきは「戦いの原因展」を繰り広げ、諸外国にまず戦争をストップしてもらうことから始めるべきではあるまいか。鎖国的なやり方で日本人だけが自己満足していても、世界平和は実現しない。
<資料7・参考記事> 00.9.16 産経新聞
「学力低下をどうみるか」
格差のある学習可能な教育を考えよ作家
三浦朱門教育学会の沈黙はなぜ?
新しい教育課程によると、日本の生徒の学力が低下することが問題になっている。先日の産経新聞によると、文部省は来年度に、その実体を調べるために学力テストを行うという。その少し後の社説でも、昭和41年以来、日教組の反対によって、学力テストが行えなかったことも述べて、学力テストの必要性を論じていた。それというのも、日本の教育問題について、色々のことが言われているが、その実体となるデータの類はほとんど存在しない。学力に加えて、国家観、道徳観、社会や家庭、などの問題についての子供の意識調査も必要であろう。
この種の調査は継続的に行わないかぎり、時代による傾向など判るはずもない。そういった基礎データなしに、改革を論じようと、改革案に反対をしようと、机上の空論になる。
教育問題になると、文部省と日教組の対立、いや、実は両者はなれあいなのだ、といったことか言われるが、中立的立場をとりうる日本の教育学会が、日本の学校教育の実体について、ほとんど何も発言していないことも問題にすべきである。
私は東京都の教育委員をしている時に、委員の間では、1クラスの生徒数が少ないほうがよい、といった意見が圧倒的だったが、1クラス最適人数は、授業科目によって相違があるだろう。音楽の楽器の演奏を教育するなら、個人レッスンが好ましいだろうし、体育でサッカーをするなら、1クラス22人は必要だ、といった発言をしたことが二、三度あった。東京都は教育研究所なるものを持っているにもかかわらず、その答えが返ってきたことはなかった。
教育の実体把握が先決
だから教育について発育する人は関係者なら自分の限定された体験、そうでない人は理念や専門外の知見からする意見に基づいて発言するより仕方がなかった。教育学会の従来の怠慢を思うと、文部省で行うテストは、原則として教育学関係者を除外したほうが望ましいのではないかと思う。
イリノイ州にはシカゴという大都市があり、シカゴ大学は日本でもよく知られたデューイをはじめとする先進的な教育学者がでて、日本にも大きな影響を与えたが、この州の公立学校は、各学年における各科目の成績を州の成績と共に、偏差値で公表する義務がある。同時に父兄の人種構成、経済状況をパーセントで公表する。
これは差別につながらないか、と質問したところ、教育について改革を考えるなら、まず現状を把握しなければならない、という答えであった。日本の現状ではまず実行不可能な調査であろう。
日本で学力テストを行うなら、継続的に行うだけでなく、このような学校間格差、地域格差をも含めて実体を継続的に調べ、学力差のできた理由も公表する必要がある。そして義務教育である以上、父兄は自分の子弟、子女の教育を託す学校を選択する自由も認めてもよかろう。
前回の教育課程審議会の結果、必修科目内容の低下は、学力低下につながるという意見が多い。この審議会に関係した者として、弁明する必要があろう。
できる生徒退屈させるな
果たして以前の高い内容を必修として学習した子供たちは、高い学力をもっていたのだろうか。戦前の大学卒業者でも、文科系なら代数は二次方程式になると、もうお手上げといった人がかなりいたのではないだろうか。外国文学専攻で卒業論文はすべて翻訳ですませた人のことも耳にした。しかし、彼らの中にも社会人として、また日本の知性の代表としての責務を、立派にはたしてきた人も多い。 同年代の95パーセントが高校に行き、ほぼ半分の人が高等教育機関に学ぶ時代である。大学というものを、昔の知的エリートのための教育機関、という先入観を捨てなければならない。今日かなりの大学は、旧制の公立中学でいえば2、3年生の学力者を受け入れなければならないのだ。
共通最低学力は低くとも、人によって、その上に高度の学力をつけることを可能にする。それが近来評判の悪いユトリではないか。たとえば中学の3年間の課程を半年でマスターする子には、進んだ学習を可能にすればよい。
音楽や美術の才能のある人は、学科は最低でもよいから余った時間を自分の才能を伸ばすことに使う。音楽に優れた人で、理系の科目や社会・人文関係の科目に興味を持つ子は、彼らにはその興味を満たす機会を与えたらよい。
従来のように落ちこぼれを救うためと称して、能力のある生徒を退屈させることをやめて、必要最低限の共通学力の上に、個性的な学力をつける時代ではないだろうか。今や教育の平準化という悪平等をやめ、教育の実体を調査した上で、個々の生徒が質と分野の広がりにおいて、格差の大きな学習が可能な学校教育を、考える時代であろう。(みうら しゅもん)
<資料8・参考記事> 00.9.20 産経新聞 大人たちの思い違い
外信部
佐渡勝美「大学生なのに分数の計算ができない」「国立大の理工系の学生で、中学レベルの簡単な確率の問題が解けない」と、大学生の学力低下が盛んに指摘されている。これでは科学技術大国日本もお先真っ暗といった印象だが、学生ばかり責めるのは酷だろう。 何しろ過去20年余、文部省は学習指導要領の改訂のたびに「ゆとり教育」の名の下、小中高校の学習カリキュラムの「精選」を繰り返してきた。日本の官僚の日本語にはいちいち注釈が必要で、「精選」もこの場合、理数系科目を中心にした教科書の内容の削除、容易化を意味している。
大人たちの多くはいまだに、今の子供たちは自分たちの時代よりも高度な内容の教育を受けており、年々難しくなっていると錯覚している。 時間の経過とともに世の中は進歩するに違いないという単線的な進歩主義のイメージは、戦後の復興から高度成長期を経てバブル経済に至る時代を経験した日本人には皮膚感覚のようにこびりついてしまっているが、少なくとも教育に関していえば、これは全く逆である。 しかも、文部省は平成14年度から始まる次の学習指導要領で、さらに小学校の算数と中学校の数学の学習内容のほぼ3割の削除を決めている。
夏の間、小学校4年の長男に算数を教える機会がしばしばあった。7月に2年間の単身赴任を終え、少しは父親らしい存在感を示しておきたいといった気持ちもあったからなのだが、教科書の薄さには正直に言って驚いた。
4年生の上・下2冊のうち「上」にあたるその教科書は103ページ。たまたま私が小学校で使ったのと同じシリーズの教科書(東京書籍刊「新しい算数」)だったので、確認のために東京都江東区にある財団法人教科書研究センター付属教科書図書館を訪ね、昔はどうだったのかを調べてみた。
教科書図書館は、文部省の検定を受けて戦後発刊された小中高校の全教科の全教科書を常設展示し、一般に公開している。また、戦前の教科書も一部、含まれている。 おかげで、私が30年以上も前に使った「新しい算数」(4年・上)が136ページだったことはすぐに分かった。ついでに書くと、中学校の数学の教科書も薄型化が進んでいる。私が中学校で使用した昭和43年検定済みの「新しい数学」(東京書籍刊)は1年284ページ、2年246ページ、3年270ページ。三冊で800ページあった。同じ「新しい数学」の最新版(平成8年検定済み)は1年179ページ、2年200ページ、3年196ページ。合計575ページで、三年間の合計では225ページ(約28%)も減っている。
学習内容の理解を深め、思考力、認識力を定着させるのに不可欠な練習問題が大幅に削られ、内容的にも、三角関数、連立一次不等式などといった項目が姿を消していた。ゆとり教育による学力低下批判を受け文部省は教育課程見直しの基礎データにするため、来年度に小中学生48万人を対象にした学力調査を実施する方針を決めた。さらに、戦後ほぼ10年に一度のペースで実施してきた学習指導要領の改訂を、今後は数年単位で必要に応じて随時行う方針だという。
国際競争力を高めるため、国をあげて理数教育に力を入れているのが世界の潮流なのに、なぜ日本ではゆとり教育なのか。知識重視の教育を批判し、授業についていけない子供たちが、いじめや不登校、暴力などの問題行動を起こしやすいといった指摘がしばしばされてきた。本当にそうならこの20年、いじめや不登校は減っているはずだが、事実はむしろ逆で、ゆとり教育が進むにつれて増えているのではないか。
塾通いが増えたのも、ゆとり教育の皮肉な結果といえる。易しい教科書と入試問題のギャップを埋めるのに学校はあてにならない。塾へ行くゆとりを学校がきちんと保証して今日に至ったという図式である。
学力低下と同様に、日本で最近、顕在化しつつあるのが若年層の体力低下だ。学力低下と同様、体力低下も根は「ゆとり教育」にあると私には思える。
文部省が毎年10月に発表する全国の小中高校生の体力・運動能力テストの平均値を見ても、50メートル走、ソフトボール投げ、走り幅跳び、1,500メートル走、握力、背筋力など、例外なく能力はこの10数年、低下の傾向にある。例えば持久力(スタミナ)のバロメーターとなる1,500メートル走の結果でみると、平成10年度の中学1年男子の全国平均は6分33秒、高校l年男子は6分18秒。15年前(昭和58年度)は、中学1年男子が6分10秒、高校1年男子が6分0秒だった。
この結果からすると、平成10年度の高校1年男子は持久力において、昭和58年度の中学1年男子にも劣るということになる。
テレビを見る時間やテレビゲームで遊ぶ時間が増えた▽子供が外で遊ばなくなった▽塾に忙しい――と、原因はいろいろ指摘されているが、要は体を動かす時間が格段に減っているのだ。ゆとりは人を育てない。運動能力テストの結果は、若者たちが体でこう訴えているようでもある。 (さわたり・かつみ)
<資料9・参考記事> 00.10.3 産経新聞 正論
「教育改革」中間報告を読んで思う
学校も説明責任を果たせ武庫川女子大学教授
新堀 通也教育にはカネがかかる
教育改革国民会議の中間報告が発表された。中間報告だから、今後さらに審議が行われるはずである。また中間報告では教育基本法見直しについての国民的議論を期待している。そこで今後、国民会議や国民的議論で、取り上げてほしい問題点を指摘したい。
その一つはアカウンタビリティーの視点だ。アカウンタビリティーとは、会計責任とも説明責任とも訳される通り、対投資効果と情報公開の原則を示す概念である。中間報告では教育財政問題にも触れ、教育に対する公財政支出を増やすよう提唱している。たしかに教育にはカネが要る。すぐれた教員の確保、施設設備の充実など、教育が高度化し大規模化するはど、カネはいくらあっても足りない。
教育は「国家百年の計」だし、教育によって作り出される「人材」は最大の資源とされ、個人や家族にとっても教育は最も有利な投資とされてきたので、教育は一種の聖域とされた。教育という崇高で精神的な活動で、カネのことをいうのはもってのほかという考え方も強く、教育経済学や教育財政学などの研究も発達しなかった。
しかし教育とさえいえば、惜しみなくカネを注ぎ得る、少なくとも注ぐべきだと考えられる時代は終わった。右肩上がりの経済成長、それに伴う税収入の増大は望めなくなり、国にせよ地方自治体にせよ、深刻な財政難に襲われている。納税者たる国民も税の使われ方に敏感になっている。
公立(国立も含め)の学校はもちろん公費、すなわち税によって主としてまかなわれている。私立の学校も私学助成を受けてはいるが、授業料や納付金など、保護者(納税者)の負担は公立より、はるかに大きい。公立の学校に子どもを通わせる親には、税金がそれだけ還元されていることになるが、私学に子どもを通わせる親は、税金によって公立をも支えているのだから、いわば二重負担をしていることになる。
「悪貨」が出現した現場
また子どものいない家族は、自分と直接関係のない教育に税を使われている。教育に対する税の行方について、納税者は今のところ、幸か不幸か、それほど関心をもたず、学校がどんな教育をし、どんな人間を作っているかについて、公然たるクレイムやリコールを行っておらず、学校には「製造物責任法」も適用されていない。
しかし投資に見合った効果を上げているかどうかという測定、評価は避けて通ることができなくなる。同じカネを使うなら、今よりもっと効果が上がるはずだという世論も大きくなるだろう。公立でなければできない教育、公立でこそ引き受けるべき教育とは何かが問われることになろう。
折角、多くのカネ、時間、エネルギーを使いながら、今日の学校には、「グレシャムの法則」が当てはまると思われるような状況が見られる。まじめな子は「マジ」と、すなおな子は「ブリっ子」と呼ばれ、授業で活発に発言する子は「目立ちたがり屋」と呼ばれ、できる子は「ガリ勉」と呼ばれて、いじめの対象となる。いじめっ子が教室を牛耳る。「学級崩壊」とは悪貨が良貨を駆逐した学級にほかならない。選択の幅の拡大、子どもの自主性や自由の尊重も、下手をすると易きにつくばかりで、基礎学力の低下を招きかねない。
少子化のため上級学校は、どんな子どもも入学させ卒業させる。教育の自由や独立の名目で、「偏向」教育を行う学校、「不適格」教員も擁護される。「悪貨」の出現、支配を黙認するばかりか、それを弁護、時には扇動するという風潮、論調が多い。
眉をひそめさせる光景
こうした教育や風潮を改革する必要があるし、その実態を情報開示する必要がある。その必要を実感してもらうため、国民会議の委員や国民的議論の旗ふり役に、是非、観察、見学してもらいたい光景がある。それはPTAの会合や教員の研修会でも、単なる講演より、よほど考えさせる材料になるだろう。大都会の盛り場、ターミナル周辺に集まる若者たちの群れがそれだ。それもウィークデーの昼日中がよい。過激になる一方の、警戒色ともいえる異装、茶髪、ガングロ、厚底靴、ピアスなどで飾り立てた男女が、我がもの顔、これ見よがしに歩きまわっている。当世若者風俗だといえばいえるし、自己表現、個性発揮、趣味の問題だと弁護することもできる。
しかしその大部分は大学や高校あるいは中学校に在学中か、卒業後間もない無業者やフリーターだ。こうした若者を送り出したり、かかえているのが今日の学校だ。
いやさらに眉をひそめさせる光景がある。暴走族がたむろし、その暴走行為を見物し応援する「期待族」が集まってくる場所がそれだ。周囲の住民や通行人にとって迷惑と恐怖の的だが、彼らの服装や行動も異常である。警官が規制しようものなら、衆を頼んで反抗する。規制のため万一、負傷者でも出れば、警官が告訴される。
こうした野放図な若者を生み出した責任を学校にだけ追及するのはもちろん酷だが、公私の別を体認させるべき学校という公教育機関の在り方を反省することがアカウンタビリティーの視点から必要だ。 (しんぼり みちや)
グレシャムの法則[英Gresham's Law] グレシャム(Sir T.Gresham,1519-1579)がはじめて唱えたとして,マクラウド(H.D.Macleod,1821-1902)によって命名された, 「悪貨は良貨を駆逐する」という法則。素材価値の異なる2種以上の貨幣が同一の名目価値で流通させられるばあい,素材価値の劣る貨幣は優良な貨幣よりも過大評価されるから過小評価される後者は鋳つぶされて地金に戻ったり,輸出されたり,退蔵されたりして流通より去る。貨幣改鋳の歴史の上でこの法則はしばしばあらわれた。(都留重人編『岩波小辞典 経済学[第3版]』1960,p.52) |
<資料10> 00.10.7 教育論はブッシュに聞こう
産経新聞編集委員
高山政行昨年9月、ノースカロライナ州シャーロットの米連邦地裁で「バシングを禁止する」という判決が出て、全米のメディアは「これで30年、米教育界を混乱させた元凶がすべて消えた」と大騒ぎして伝えた。ここでいう「バシング」とはジャパン・バシング(日本たたき)のバシング(bashing)ではなく、乗り物のバスに「ing」をつけたもので、それも例の黄色いスクールバスをいう。で、バシングの意味だが、これは公立校の学区を超えて白人、黒人地区の生徒を相互にスクールバスで送り込み、どの学校も白人の子供と黒人の子供の混合状態にする構想をいう。
これが生まれたきっかけは1968年、黒人解放運動家マーティン・ルサー・キング牧師の暗殺だった。「私には夢がある。奴隷だった黒人の子供と、奴隷を使っていた白人の子供がいっしょのテーブルにつく」というキング牧師の言葉は有名だが、その彼の遺志を教育現場でやればこうなるというのがこのバシングだった。
市や学区の教育委員会が白人地区の子供と黒人地区の子供をシャッフルして、入学してきた子供たちに「お前はあっちの学校」「君はこっちの学校」と振り分けていった。その先鞭をつけたのが今度の裁判地となったシャーロットの教育委員会だった。おかげで目の前に学校がある子供でも朝早くスクールバスに乗せられて遠くの学校に持っていかれた。
この「融和」を「学力」に置きかえれば、その少し前に小尾乕雄が東京で始めた学校群制度と同じことになる。みんな、行きたくもない学校に行かされた。
その結果、「バシング」も「学校群」も同じように愛校心を失った生徒が落ちこぼれ、学力低下、教育現場の荒廃を生んだ。そして多くの生徒は学費の高い私立学校に流れるか、不登校症候群にかかるか、引きこもるか。
おかげで米国の学力はどんどん下がった。それが如実に出てきたのがシリコンバレーで、ここは今、インド系、中国系の輸入頭脳に半分ぐらい取って代わられてきた。ハリウッドも同じでジョン・ウーや「シックス・センス」のM・シャラマンなどインド、中国に席巻されてきた。
これではいけない、という反省が80年代未に生まれ、テキサス州などがバシングを廃止して学区制を復活していった。生徒はもはや一時間もスクールバスに乗って遠い学校にいかせられることもなく、自分の学区の好きな学校にいける。冒頭に掲げた判決は全米で最後のバンング訴訟だったわけだ。そして、そのあとに米国で起きたのが徹底した競争原理の導入だった。その先駆けが実は共和党の大統領候補のジョージ・W・ブッシュで、彼はテキサス州の公立学校に共通テストを実施し、いい学校には補助金を、だめな学校の先生は昇給もなし。生徒も希望する学校に転校できる、といった具合に教育成果を競わせた。
その結果、全米共通テストでテキサスは7年連続して最優秀州に輝いた。争点がないといわれる大統領選で、ブッシュが当初から高い人気を維持してきたのはこうした公教育の改善を期待する声が高いため、という分析もある。
そのテストで万年びりから2番目がカリフォルニア州だ。それで、同州も全公立校を対象に共通テストをやって、その結果を公表するようになった。
元時事通信記者で、今はロサンゼルスに住む佐藤成文氏は「トーランスのようにいい学校の学区の不動産の値が上がった。子供のためにいい学区に引っ越す親が多いためだ」と、成績公表が社会に及ぼす影響の大きさを語る。
同州では、このテスト結果をもとにテキサスと同じに「いい学校」の教員の給与を上げ、補助金をつぎ込み始めた。いい学校にするにはいい教師が必要になる。サンフランシスコ市では特別住宅手当の特典をつけて、いい教員の引き抜きにかかってもいる。
いい学校を目指す動きはチャータースクールも生み出した。日本でいえば日能研みたいな民間教育機関と公立校がタイアップして独自のカリキュラムを組む。授業日数が一般校より10%も多く、教科も高度になるが、成績は上がり、非行は減少した、といった報告が出ている。
◇
学校群という、世にもアホな制度は米国のバシングより早く80年代半ばには消滅した。しかし、日本にとって不幸なことは第2、第3の小尾乕雄がいたことだった。米国が教育に健康な競争制度を取り入れ始めた90年代初め、埼玉県の教育長が民間の模擬テストを禁止した。これに文部省の寺脇研・現政策課長が飛びつき、当時の文相鳩山邦夫がOKを出した。これ以降、日本では共通テストというのがなくなってしまった。寺脇はその後、広島県教育長に出て、高校入試を事実上、廃止し広島の公教育を壊滅させた。そして文部省に戻るや「競争の時代は終わった」とする世界に逆行した新指導要領を作成して、今、その実施に向けて動いている。
後世の歴史書は小尾、鳩山、寺脇が日本の教育を破壊した3悪人と書くだろう。