葛飾区再生計画案行政編


FATA REGUNT ORBEM ! CERTA STANT OMNIA LEGE

(不確かなことは運命の支配する領域。確かなことは法という人間の技の領域)

―― ローマの格言 ――

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第13章(教育)関連資料

<資料27>

有害TV番組スポンサー「不買運動やればいい」          (01.02.11 読売新聞)

 町村文部科学相は10日、茨城県土浦市でPTA関係者に行った講演で、青少年の健全育成に有害なテレビ番組について、「スポンサーをやっている会社の製品は、日本PTA全国協議会でボイコット運動をやればいい」と述べ、有害番組のスポンサーに対する不買運動を呼びかけた。この日の講演は、教育改革の推進に向けて、自ら先頭に立ってアピールに回る全国行脚の第一弾。町村氏は一部のコンビニエンスストアなどが成人向け雑誌を野放しにしているとして、「PTAの皆さんがよってたかって、その店の不買運動を起こせばいい」とも述べた。


<資料28>

英首相 中等教育改革を提言                   (01.02.18 読売新聞)

1500校を専門校に再編 優秀生徒向け教育機関創設

【ロンドン17日=原野喜一郎】イギリスのブレア英首相が、「英国が最も困っている11歳から16歳までの中等教育」(英エコノミスト誌)の大改革を打ち出した。1997年の首相就任以来、「教育、教育、教育」と三唱して改革の柱に据えてきたが、この4年で初等教育の向上は軌道に乗ったとして、次の目標を中等教育改革に定めたもので、画一的な中等教育から、個人の能力や適性に応じた教育を提供する「多様性に富む中等教育システム」作りを提唱した。

 この改革は、最近発表された政府「緑書」(政策目標などを示す文書)で打ち出された。英国の中等教育は40年代から教育の格差を解消する改革が始まり、特に労働党政権が「すべての人に中等教育を」を合言葉に、無試験で多様な子供を平等に受け入れる「総合中学校」を普及させた。しかし、90年代に入ると、「平等」が逆に教育レベル低下を促し、個人の資質に応じた教育の機会を奪っているとの不満が高まった。

 「中等教育の多様化」はこの不満に対するブレア政権の回答で、@各中等学校の専門化推進A優秀な生徒のための特別教育機関の設置―を柱にしている。

 @はそれぞれの学校が得意とする科目を作り、それを学びたい生徒を集めるようにするもので、技術、科学、経済、経営に関連する科目の専門化を進める方針。向こう5年間で、全国の中等学校の約半分にあたる1500校をこうした専門校に変えるとしている。Aでは、各分野で才能を示した優秀な生徒のための国立センターを創設、夏季休暇中の特別授業を行うことなどを計画している。

 このほか、実績を上げている学校には、運営や予算決定でより自由な裁量を認め、また、「遅れている学校」の運営をまかせることも打ち出している。ブレア首相は「それぞれの学校が特色を持つのが当たり前になるべきだ」と改革を訴えるが、中等学校校長連盟からは「専門化は結局、中等教育を2つのコースに分けることになる」などの批判も出ている。ブレア首相は5月にも総選挙に打って出るとの見方が強いが、この教育改革も選挙戦の焦点になるのは確実だ。


<資料29>

「教育再生」私の提言                     (文藝春秋2001年3月号)

 アメリカの学校教育を見習うな

音楽プロデューサー 松井 和(まつい かず)

育児と教育の欧米化が日本の親子をダメにする

 1984年ですから、すでに17年前になります。アメリカ政府は子供達の教育の問題を「国家の存続にかかわる、緊急かつ最重要問題」と定義し1年間大騒ぎしました。この年、子供達の教育レベルが親達のそれを下回るという、国の歴史始まって以来の調査結果が報告されたのです。

 学校教育の普及を民主主義の根幹と考え、義務教育を充実させ、35年前50%だった高校の卒業率が72%になっていたにもかかわらず、学力が下がったという報告はショッキングでした。

 加えて私が耳を疑ったのは、社会で通用するだけの読み書きが出来ない子供が高卒で20%を超えたという報告でした。大学へ進学出来なかった、就職が思うように行かなかった、ということではない。読み書きが出来ないのです。当時も、私はアメリカで音楽プロデューサーをしていたのですが、数字の向こうに家庭の崩壊が見えました。

 幼稚園・保育園も含めた教育システムが普及すると、親子の人間関係が希薄になる。子供に無関心な親が増え、家庭が崩壊していきます。すると画一教育が出来なくなり、学校が崩壊していきます。

 その年の調査で教師の半数が7年以内に教職を去ることがわかりました。「子供達が私の話に耳を傾け、親達が私の仕事を少しでも尊敬してくれたら、給料が低くてもこの仕事がやりたかったんです」と涙を流しながら辞めていくのです。真剣な先生ほどノイローゼになり、疲れ果てて辞めていきます。画一教育が出来ないと教師の精神的健康が保てないのです。

 子育てに一番大切なのが母親の精神的健康であるように、学校教育で一番大切なのが教師の精神的健康です。いまアメリカの子供達の20人に1人が学校から奨められ精神安定剤を使用しています。薬物で画一教育を成り立たせ教師の精神的健康を保とうとしているわけですが、この仕組みが将来どう発展していくかを想像すると、SF映画に出てくる政府のマインドコントロールがすぐそこまで釆ているようで恐ろしくなります。

 5年後の1989年、ワシントン市が「プロジェクト2000」という試みを始めました。公立小学校を使って子供達に父親像を教えようというものでした。ボランティアの男性に学校に来てもらい、子供達に大人の男性に接する機会を与えるのです。首都ワシントンやデトロイト市で、半数以上の家庭に大人の男性がいないという情況が背景にありました。

 男の子は父親像を持たないと、5、6歳からギャング化するという研究発表がニュース番組で流されました。

生活保護より孤児院

 そして1995年、連邦議会に提出された「タレント・フェアクロス法案」は、「21歳以下の未婚の女性が子供を産んだ場合に生活保護費を出さず、その予算で孤児院を作り育てよう」というものでした。

 犯罪を取締まる費用、刑務所の建設費を考えれば、その方が安上がりだという議員達が現れたのです。崩壊した家庭で母親が育てるより、政府が育てたほうが社会のため、子供のためにはいい、という考え方は画期的であり、理にかなっているようで不気味でした。

 この法案は否決されました。母子家庭や里親制度で虐待されている子供達を収容しようとすると、200万人収容する孤児院を作らなければならないという試算が出たからです。しかし、当時この法案に賛成していたギングリッジ下院議長が、「孤児院と考えずに24時間の託児所と考えればいいのだ」と言ったのを私はハッキリ覚えています。子供を政府が育てれば一時的に犯罪は減るでしょう。しかし、その先に決定的な家庭崩壊の波がやってくる。「幼児を育てること」を親が体験することの重要さがわかっていない。親が子育てをしないことの社会的損失が見えていないのです。

 こうした人権無視ともいえる考え方が、民主主義の手本といわれるアメリカで支持され始めている。これが先進国社会の現実です。親らしい親が減り幼児虐待が増え、日本も欧米並の家庭崩壊・学校崩壊に直面しようとしている時に、エンゼルプランや延長保育でますます親子を引き離そうとする日本の政治家や行政は、このアメリカの下院議長の発言の恐さを理解しているのでしょうか。

 福祉に名を借りた子育て支援施策エンゼルプランを「虐殺プラン」という保育者達がいます。0〜2歳の低年齢児保育の促進、延長保育や休日・祝日保育を増やすなど、賛成すればより自分の仕事が確固としたものになるのに、これ以上子供達を預かったら親が親でなくなってしまう、それでは親子共々不幸になると言い切るのです。

 政治家や行政は、親子を一番身近で見ている保育の現場からの声をどう聞くのでしょうか。制度の改革や充実をすすめるだけでは解決しない問題もあるのです。

 時には「改革しないこと」「何もしないこと」の方が良い場合もあるのです。欧米を見て「福祉」の危険性を認識してほしい。今、大切なのは、少々痛みが伴っても、どうやって親達に子育てを返していくかということなのです。子育てに親達は幸福感を見つけられる、という人間本来の資質に賭けること。それがまだ可能なぎりぎりの線上に日本の社会は立っているのです。

 日本の少子化対策は経済論が根幹にあり、欧米並に女性を働かせれば税収が増え、少子化で減る分を補うことができる。「女性の意識改革」と言っておけば、女性のオピニオンリーダー連も「権利だ」「権利だ」と喜んで乗ってくるにちがいないという行政の策略です。そこに幸福論はありません。

 子育て支援、女性の地位向上のための施策の本質は、労働者の数を増やすことに主眼をおいた増税対策です。それにやすやすとダマされるわけにはいかない。

 アメリカでは、子供の3人に1人が未婚の母親から産まれます。イギリスで3割、スエーデンでは6割、日本はまだ2%です。先進国社会の中で日本だけ異常に情況がいい。

 私はなぜ日本の状況が良いのかを本に書き、また東洋英和女学院短大・保育科で8年間、保育者になろうとする学生を教えました。日本にとって一番重要なのが保育者の果たす役割だと思ったからです。

 並行して、危機感を持つ保育者や子育てに不安を抱く親達を対象に、全国各地で講演をするようになりました。そして一昨年、親自身による子育ての重要性に主眼を置いた3冊目の本『家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊』(エイデル研究所)を出しました。

 3人に1人のアメリカ人男性が、父親としての役割を最初から果たそうとしない。幸福の選択肢から「家庭」が消え始めている。子供が18歳になるまでに4割の親が離婚し、実の両親揃って育てられる子供のほうが少ない人間社会を見てしまった私の危機感は日本の保育者達の思いとピタリと重なりました。「子育て」という幸福感の土台となるべき選択肢を簡単に放棄してもいいのか。欧米社会を見ていると、答えは「否」です。保育園や幼稚園を使って親子を出会わせる。親が初心者のうちに子供への関心をつなぎ止める。そこしかないと思いました。園長先生達と語り合いました。

 子育ては特殊な事情がないかぎり夫婦でやるものです。子供を一番身近かで見ている二人が、違った人生体験をもとにして、相談しながら取り組めば夫婦の人間関係が育ちます。子供がどう育つかではないのです。親がどう成長するか。子供のまわりでどんな人間関係が育つか、が大切なのです。子供を育てることで人間が心をひとつにする。「親らしい気持」が社会を覆って初めて人間は幸福に向かって進化できるのです。

日本の奇跡

 私はアメリカに住んで25年になります。毎年、妻と二人で60回程のコンサートを全米各地で行い、1枚ずつCDを発表します。

 6年前、上の娘が学齢に達した時、私達は生活の場を日本に移しました。働く場所はアメリカです。毎月の渡米は体力的にも辛いのですが、学校だけは日本で行かせたかった。子供を育てるなら日本は世界一環境の整った素晴らしい国だからです。欧米との決定的な違いは、悪くなってきたとはいえ、家庭がまだしっかりしているということです。高校を卒業すると読み書きが出来るようになる。「個性を大切に」「自由にのびのび」などという得体の知れない間抜けな言葉遊びより、やっぱり学校は読み書きです。

 イジメは確かに問題ですが、子供が2時間に1人銃で撃たれ、誘拐を心配する幼稚園から指紋の登録をすすめられる国に比べれば日本は天国です。戦争も徴兵もない。子供が親に殺される確率もアメリカに比べれば50分の1です。

 先進国社会の中では奇跡的に子供達を囲む環境がいい。この国で子育てをしている親達は、自分の幸運に感謝すべきです。感謝することによって笑顔が戻ってきます。「欧米に比べ日本の教育はダメだ、日本の親はダメだ」と批判する文化人、知識人、学者、タレントはたくさんいますが、騙されてはいけません。みんなテレビやマスコミで食べてゆくためにいい加減なことを言っている大嘘つき達です。

 先進国の中で日本ほど、社会が安定していて、親が親らしく、子供が子供らしく、教師がまあまあ熱心で、犯罪が少なく、幸せそうな人が多い国はありません。

 こんないい国が、次第に欧米のまねをしながら悪くなっていく。それが歯がゆい。「子供の自主性」なんてことを平気で口にする親は、「子供に無関心でいられる親」の予備軍です。「自分の自主性」を認めてもらいたいだけなのです。

 諸悪の根源のようにいわれる「受験戦争」、私はこれは良いものだと直感的に思いました。「受験戦争」は親子でする苦労です。親子で苦労することが親子関係に良いのです。苦しめては子供の性格が歪む、というのはどう考えても嘘です。苦しめるにも程度がありますが、適当な苦労、とくに親子で体験する苦労は家族の絆を深める絶対条件です。いい親子関係を保ちたかったら受験戦争くらいはしっかりと参加しなければいけません。なによりも親が子育てに具体的な目標を持てることが肝心です。学ぶ内容はどうでもいい。私は社会人になってから分数を使ったことがありません。役に立たないことをたくさん習って「苦労する」のが良いのです。子供はちゃんと鍛えなければ将来ろくな親になりません。

 受験を経験し、子供に困難に立ち向かうことを教え、世の中はなかなか思うようにならないことを、時間をかけて理解させる。その努力を家族が応援し見守る。日本独特の受験戦争や塾、予備校があったことが、日本が欧米並に崩れなかった大きな原因だと思います。

 アメリカでは毎年、60万人の子供が親による虐待で重傷を負う。自分が頼りにし、愛したくてしかたがない相手から虐待される。これほどの絶望感はありません。

 この悲しみを減らすためなら大人達の権利なんて少々犠牲になってもかまわない。もともと子育ては、大人が自分の自由や権利を犠牲にすることに幸福を感じなければ成り立たないのです。

 毎年60万人の子供が親による虐待で重傷を負うということは、自分の国に毎年60万個の地雷を埋めているようなものです。

日本型社会は未来型

 自分の子供のために一人ひとりが土壌を耕し、自らその土壌になること。子供の幸せを願い祈ること。祈ることによって得られる精神の健康が人間社会に今どれだけ必要か。入学式に親がちょっと服装を整える。神社の絵馬に合格のお願いをする。お盆にお墓参りに行く。日本の社会はまだまだ祈りで溢れています。こうした日常生活の中に生きている祈りを親子で体験することが大切なのです。

 学問が発達し、ものごとに正解があると思い始めると人は祈らなくなる。不安になりますます学問に頼ろうとし、人間関係が壊れてゆく。カウンセラーが普及すると社会に育ちあいがなくなり犯罪が増えるのも、この辺に原因があります。

 国際化がすなわち欧米化であるなら、21世紀における日本の役割は国際化しないこと。生活習慣や幸福論に関して西洋化しないことです。

 家庭に幸福感を見出す社会スタイルが、人類の未来に選択肢として必要な時が来る。競争に人間達が疲れた時、欧米が日本を振り返る時が必ず来ます。

 欧米型「平等」は「機会の平等」でしかなく、強者に都合のいい、より不平等な社会を生み出し、それを正当化します。競争は参加者が増えるほど、より強大な勝者を生み、これは資本主義の重要なトリックです。権利という言葉を使って女性に母親であることをやめさせようとする、「女性らしさ」という言葉を攻撃し女性を男性化させようとするのもこの動きの一部です。

 未婚の母を増やさず、父親が子育てに関わる社会を維持する。これが最大の防波堤でしょう。父親が出生届けに名前を書き、なんとなく毎月給料を入れる。それだけで充分父親は家庭に存在しています。

 先進国の中で日本だけでもほとんどの家庭に父親が存在する環境を保つことができたら、それはいずれ人類の進歩に選択肢として大きく貢献することになるでしょう。

 学校と家庭の共存という欧米社会が果たせなかった夢を日本が実現できたら、後に続く発展途上国の親子関係に無限の幸福をもたらすことになるでしょう。

 幼児を眺めることによって人間は精神を浄化され、子育てに関わることによって人間社会にモラルと秩序が生まれます。弱者を慈しむ「優しさ」が生み出すモラルと秩序は、人類が幸福へ向かって進化するために絶対不可欠な要素なのです。

 それを失おうとしている欧米がどう進んでゆくかを見極めながら、私達は、子供の幸せ、母親の幸せ、父親の幸せの順に願いつつ、慎重に歩みを進めなければなりません。

              *この記事は「世界平和女性連合」の葛飾支部長・桑原裕見子さんから紹介されたものです。


<資料30>                       地球を読む (01.04.02 読売新聞)

       日本人の英語力

日本予防外交センター所長(元国連事務次長) 明石 康

 大胆な向上策急げ  多様な「世界」との交流必要

 情報革命への適応能力の国際的な格差がもたらす″デジタル・ディバイド″が話題になっている。それと重なって″イングリッシュ・ディバイド″、つまり英語力格差が、わが国の国際的地位をおびやかす危険もひしひしと感じられる。

 急激に進むグローバル化によって、国境越しの対話やコミュニケーションは量においても速度においても飛躍的に増大している。国際的な対話は、好むと好まざるとに拘わらず、英語によって行われる傾向が顕著である。その中にあって、わが国の翻訳能力は素晴らしいし、自動翻訳機の向上にも大きな期待がよせられている。しかし、それは専門的な領域に限られた効果しかなく、話題が多岐にわたる複雑な交渉や感情のニュアンスに富む会話に役立つようになるとは、ちょっと考えられない。

 もちろん通訳をつれていけば、国際会議でも日本語で発言できる。とはいえ、機微にふれる話し合いは、会議場の外の廊下とか、レストラン、ときには手洗いで、さりげなく行われることが多く、そこに通訳を連れていくのははばかられる。日本語が国連の公用語に採用されたとしても、非公式な場での会話は圧倒的に英語で行われる。

 グローバル化する世界は、コカ・コーラやマクドナルドに代表されるアメリカ文明に一極支配される単調な世界ではない。それどころか、それに触発されて異なる文化や地域に属する人々が強烈な自己意識をもち、自己主張を展開する場だといえよう。しかし自己主張だけでは、国家や民族間の対話や交渉をスムーズに行うことができない。つまり発信するだけでなく正確に受信する必要がある。

 人権や民主主義について、地球的な価値観が育ってきている。だが、それを実現する方法については多様な考えが存在している。外交の主体は政府であるが、いまや企業、財界、学界、地方自治体、NGO(非政府組繊)などが幅広く、水平的に交流しあう時代が到来している。そこでは21世紀の世界共通語にもっとも近いといえる英語を駆使し、最新の情報を踏まえて活躍する個人の能力が問われている。天然資源に乏しい小国シンガポールが、英語力をふくむソフトと人材をフルに活用して有数な国にのしあがっているのは参考になる。

 日本人の英語力が芳しくなく、アジアの中で最低レベルにあるのは周知の通りだ。その第1の理由は、わが国がいまや経済大国として最高教育まで自国語で受けられるようになり、欧米への留学意欲がやや萎えてきたことによる。第2には、英語教育が大規模に行われているわりには成果が乏しく、欠陥をどう是正するかについての議論に手間取っていることがあげられる。

雄弁さより「話の中身」

器用さがあだ

 時間と精力を注ぐわりに成果の乏しい教育をいつまで続けようとしているのだろうか。その上、日本人の器用さがあだになり、片仮名化された擬似外国語がやたらに横行しているのも困りものだ。外国語には日本語にない音が多いから、片仮名の使用は日本人を、本物の言葉や発音から遠ざける結果をもたらしている。

 過去のわが国の外国語教育は、たしかに読解力と文法のみに重点を置きすぎたといえる。そのため、哲人カーライルのような文章が書けても、話す方は赤ん坊に等しい″教養人″が生産されてしまった。しかし、だからといって、発音の方は立派でも、内容空疎な会話しかできないというのでは、決して国外で尊敬されることにはなるまい。そう考えると、小学校レベルで外国語に親しませるというのは本当に必要だろうか。低学年では、むしろ国語を正確に読み書き話す力をつけるのが先決であり、その基盤なしに外国語を教えても、中途半端な根無し草的″国際人″を養成することになりかねない。

 外国語を習得することは、その国の文化や社会を理解することにつながる。言葉を鍵として、人は異質的世界に入っていく。新しい言葉を知ることで、人の知的世界が拡がり豊かになってくる。従って外国語の習得自体を目的とする人がいても、おかしくはない。しかし、より多くの人々にとって、外国語はあくまで仕事の手段にすぎない。自分の考えを伝えたり相手の考えを知ることで両者の溝を狭め、自分の利益を増進していく道具としての外国語がそこにある。

 英語を含む外国語を、日本人全体のうち何人がどの程度習得すべきかについて、一つの答えはない。各人の従事する仕事や、果たしている役割によって、答えは違ってくるだろう。しかし少なくとも、いまの10倍か50倍の日本人が欧米諸国とだけでなく、アジア、アフリカ、中東など世界中の人々とも、英語で基礎的な会話ができることが必要なのではないだろうか。自分の考えを伝えるのも大事であるが、相手の考えをできるだけ直接にすばやく理解するのはとても大切だろう。

外交官の訛り

 文法や語彙を重視してきた反動として、近年それらを軽視し、発音や流暢さだけを追い求める向きがあるが、これは間違っている。格調ある言葉を使う必要は、日本語でも外国語でも同じである。発音については、あまりひどい片仮名発音は禁物であるが、発音が全く英米人のようである必要はなく、ある程度の訛りはかまわない。

 多少の訛りは、話している人の文化的アイデンティティーを示しており、世界が多様であることを物語っている。長い国連生活で、私は各国の外交官や国連職員がお国訛りの英語やフランス語で、堂々と自分の考えを述べるのを聞いてきた。流暢さより、話す内容の方が、はるかに重要なのである。現行の語学教科書には、学ぶ人の知的水準を無視したものが多く、読者の文学性や哲学的関心をそそるような教材の使用に努めるべきだろう。

 とはいっても、いまの日本の英語教育にもっとも欠けているのは、やはり聞き取りと会話の能力であろう。会話に先天的な能力などはなく、中学生の頃から自分をそうした環境において、話す能力をつけていくしかあるまい。また日本人の英語教師のすべてに是非とも海外留学の機会を与え、本場の英語に触れさせるべきである。

 JETプログラム(地方公共団体による外国人教師招致事業)で英語使用国の数多くの若者が来日しているが、この人たちをもっと本格的に活用し、日本人学生の外国人恐怖心をなくしていくべきだ。″ものいわぬは腹ふくるるわざ″だと兼好法師がいっている。幼少から外国人の中で暮らした少数の人を除いた多数の日本人にとって、語学習得の近道はない。恥をかき、反復をいとわずに勉強しながらも、過度に完全主義にならないことだ。なかでも、よい教師や友人にめぐりあい、刺激をうけることが学ぶ者にとって大事である。

「島国」の腹芸

 グローバル化とアングロ・サクソン化は違うのだが、英語を話す人口は約8億人と推定され、その数は増加する一方だ。国際的取引や知的職業に属す人々の圧倒的多数が英語を話しており、インターネットの導入がそれを加速している。

 グローバル化にとり残されないために、我々はより効果的な英語教育に真剣に取り組まなければならない。日本人だけの心地よい以心伝心の世界に安住することは、もはや許されない。完璧でなくても外国語をあやつり、国境を超える骨太の論理を駆使して、他流試合に挑んでいくたくましさを身につけたいものだ。

 そのためには、東洋の島国の腹芸と自己満足を脱却するのが必要である。とはいっても立て板に水を流すように、外国語に雄弁である必要はない。自分なりの論理とレトリックとユーモアを使って、訥々とでもよいから相手を説得する努力をすることが大事だ。

 第2次大戦後、次々と優れた工業製品を作り出すことで世界の賞賛の的になったわが国は、いま政治、社会、文化、科学など幅広いソフトウェアの分野において、国際的な対話と共同作業に活発に参加することを求められている。外国語、とりわけ英語は、それを行うため避けて通れない手段なのである。手段にすぎないとはいえ、それが不如意なため、わが国の潜在的能力が過小に評価され、世界の知的潮流に充分に貢献できないという結果をもたらしている。思いつきでない大胆な解決策が、言語教育において焦眉の急であることは明らかである。


<資料31>

21世紀日本の教育を考える シンポジューム  (01.03.26 読売新聞)

 わが国の教育はどうあるべきかを考えるシンポジウム「21世紀日本の教育を考える」(読売新聞社、秀明大学主催)が10日、東京・千代田区の虎ノ門ホールで行われた。中曽根康弘・元首相が基調講演を行い、四人の識者が現在の教育の混迷の原因と今後の方向性について語り合った。教育問題の根幹を探る論議に、約1,300人の参加者は熱心に聴き入った

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基調講演 基本は「心」の問題              元首相 中曽根康弘

 教育は歴史を離れては存在しない。第一の開国と言われる明治維新では、憲法と教育基本法にあたる教育勅語を作った。第二の開国はマッカーサーの占領政策だったが、同じように憲法と教育基本法を与えた。今、第三の開国をしようとしている時、やはり憲法と教育基本法の改正が出てきているのは歴史と符合する。

 今までは憲法改正など言うと、すぐ右翼だとか国家主義者だとか言われた。しかし、今、教育をいかに改革するかという日本人の本質的な自覚がようやく出てきた。

 現在日本にあるのは一種の文明病だ。官庁が犯罪を行う。政治家もそう。学級崩壊がある。子どもが自分たちの基準を失い、バーチャルな世界と現実を混同して罪を犯す。国民全体がそういう体質になってきている。これを治すのは一文部(科学)省の仕事ではない。国全体でなければできない。

 今の教育を改革する前に、家庭を直さなければだめだ。周囲の共同社会も頑張らなければだめだ。昔は先生は聖職だったが、今は学校でも先生が生徒におべんちゃらを言うようになっている。だが、本当に愛情がある先生はしかっているし、愛情のある先生には父母は文句を言わない。

 今度の教育改革国民会議の報告には、まず第一に、教育基本法改正の問題がある。現在の教育基本法はマッカーサーが昭和22年(1947年)に原案をほとんど作らせた。自由や人格、人権といった個人の面は余すことなく書いているが、歴史や伝統、文化、共同体、社会というものには、真正面から取り組んでいない。

 我々は歴史的文化的共同体の中で生きており、それに対するルールや考え方を教え込まなければ、教育基本法の基本にはならないのに、それがない。改正について教育改革国民会議の報告はへっぴり腰だ。教育とは、単なる技術的な問題でなく心の問題だということを、もう一度銘記する必要がある。

 また、何が大黒柱で何が床柱なのかを明記しなければ、教育改革論にはならない。報告書を読むと、店先に商品はたくさん並べてあるが、何がメーンで何が従であるかがなく、情熱や気迫を感じない。

 同時に、国語教育が軽視されている。小学校では13%も時間が減っており、それで英語やパソコンをという考え方のようだ。国語が十分にできなくて英語ができるはずがない。国語は自分の意思を伝える方法であり、日本人の中心軸にあって、生命でもある。そういう認識がない。

 小学校では、読み書きそろばんが一番大事。その上に、修身と自然を教え、書道や唱歌の時間を増やすべきだ。小さいころに美意識や情緒意識を与えるほうが、パソコンを与えるより大事だ。

 大学の私学助成はやめて、寄付金で成り立つように変えるべきだ。同時に、個性を持った特色ある大学を育てる。教育委員会は廃止し、地方公共団体の首長や議員が教育を監督した方が、効率的で責任を持てる。

 師範学校の系統を作るのも重要だ。教師は使命感が大事なのに、今はそれがない。そして、旧制高校をもう一度考える。3年間の余裕ある時代があり、好きな勉強ができる。受験一色の今の体系を直さないと、日本の文化は豊かにならないし、発展しない。

 教育改革の問題は草の根からやるもので、ジャーナリズムの協力と支援を受けなければできない。現在、小学生を汚毒しているのはテレビでもある。教育に障害になるような放送はやめてもらいたい。

 今度の議会で、教育体系全般の大論議をやり、各党が教育改革基本要綱のようなものを出し合って、参院選に入る。参院選は教育を中心に論じ合い、国民の投票をいただき、新しくできた内閣がそれを実行する。そういう段取りで、教育改革をものにしていかなくてはならない。

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<シンポジューム発言者>

秀明大学教授・西部 邁、お茶の水女子大理学部教授・藤原正彦

文芸評論家、慶応義塾大学助教授・福田和也、岩手県立大学長・西澤潤一

 西部 過ぐる10年間、日本では政治から社会にいたるまでいろいろな改革論議が続いたのですが、制度いじりに終わっています。教育については根本改革ということすら聞こえてこない。その場しのぎでお茶が濁されてきています。

 
藤原 最近の教育改革はすればするほど悪くなっている。原因の一つは美辞麗句に彩られた標語です。「個性尊重」「ゆとりある教育」「IT(情報技術)革命」などです。反論できない美しい言葉に踊らされ、疑うことをしない。学校で先生と生徒は平等なのか。よい個性を尊重するのは当たり前だが、悪い個性まで尊重していないか。美しい標語を吟味していくことが重要です。

 
福田 いまの教育の問題は、近代以来の問題としてとらえなければならないと思います。とっぴなことを申すようですが、東京都美術館でやっている「鑑真和上展」では、千数百年にわたって唐招提寺から出なかった鑑真像を衆目の前に引き出しています。文化財保護という美名の下、畏怖すべきものを踏みにじっている。敬虔さと美を感じる心は一体となっている。それがなくなってしまった。

 
西部 教育基本法の冒頭には個人の尊厳がうたわれています。しかし、アメリカ人が個人の尊厳と言う場合は、生まれたままの個人ではなく、神という畏怖すべきものに対し自分はしもべだ、という境地になった人間なら尊厳に値するということです。そういう回路のないこの国では、個人のつかの間の欲望も権利だということが続いてしまった。

 
西沢 オオカミ少年というのがインドでありました。人間社会に復帰できなかった。幼少のところから完全にフリーにすると、人間社会に相いれることのできない人になってしまう。子供が育つとき、いつから教育をするのがよいのか考えていかなければならない。

 
西部 独創性、個性は型の中から生まれて来ると認識しないと、独創性教育は、輸入されたものの修正加工にしかならないと思うのですが。

 
藤原 独創性教育は、いらぬお世話だと思います。初等教育は画一的かつ強制的で構わない。例えば九九を教えること。あんなつまらないことは世の中にないのですが、強制的、画一的で構わない。そもそも日本人に独創性が欠けていると言われるのが、不思議です。日本には和算の伝統があり、20世紀最大の数学的発見と言われる「フェルマーの予想」が解かれた際、アメリカ数学界が功績者として十数人あげたうちの6人は日本人でした。最近のゆとり教育はまずいが、それ以前の教育は、独創性に関しては間違っていなかった。

 
福田 小林秀雄が「考えるヒント」の中で、他人と異なろうとする意味での個性、社会の中で目立とうとする個性は、自負心に過ぎないと言っています。個性尊重が自負をかん養することになっている。自負は利己心に直結し、公的な領域の崩壊につながっていくのではないか。文芸で一番よくないのは、戦後出てきた感想文です。どういうふうに思ったかということは、結局自負を育てるだけ。古典教育に感想を求めるのは愚劣なことであり、和歌、俳諧はとにかく覚えればよい。その方が、本質的な意味での個性かん養に役立つ。

 
西部 国語こそが個性、独創性の根源にあるという当たり前の考えが、近代になって薄らいできた。

 
藤原 教育改革の具体論となると、初等教育での国語の飛躍的拡大、これ以外ない。言語は、思考を表現する手段であるばかりでなく、言語を用いて考えるという点で、その人のすべてになってしまう。その人の思考方法までも決定してしまう。

 
西沢 日本語でちゃんとしゃべれない人間が英語を習ってももっと分からない英語になります。日本人として生きていくために、ちゃんとした日本語を使えるように教育するのが原点だと思います。

 
福田 日本の言葉を学んでいくもう一つの意味ば、異質なものを理解する力になることだと思います。日本人は漢文を読み、使いこなしてきた。その蓄積があって、明治以降も多くのことを取り入れられた。言葉が自負の道具になってしまったとき、言葉自体が衰退し、人間の発想も衰退した。ぜひ漢文を拡大してほしい。

 
西部 アメリカでは教室に星条旗が立てられています。

 
藤原 国際社会はオーケストラのようなものです。バイオリン、チェロ、ビオラ、いろいろある。そこでは、バイオリンはバイオリンのようにならないとだめです。それが国際社会に溶け込む唯一の方法。人間に例えると、日本人は日本人のように考え、思い、行動する。それが重要になる。

 
西部 しつけ、道徳について、家庭やそれを取り巻くコミュニティーが何もしないで、先生に任せるのは無理があると思うのですが。

 
西沢 戦後の失敗の一つは画一化、均一化にある。私の家では父に「様」付けしていたが、先生に「さん」にしなさいとしかられた。家庭文化の破壊です。みんなに同じことを覚えさせ、同じことをどれだけ早く答えられるかが、今の教育の根本にある。暗記力だけに頼り、自分で考えるくせがなくなり、日本人の思考が単純化されてしまっています。アメリカのある歴史教師はコンピューターシミュレーションを歴史を考える教材にした。ITがもてはやされているが最後は人間の能力です。

 
福田 ITには弊害もある。カナダの研究所の実験で、映像は神経組織から人体に影響を与えていることがわかった。学級崩壊につながる子供たちの変質も、マルチメディアに一因があるのではないかと推論している。ネット社会できちんとした人間性をどう守るのか、教育を考えなくてはならない。

 
藤原 ITを小中学校のカリキュラムに入れるのには反対です。例えば、自転車の安全な乗り方は重要だが、小学校ではなく、家庭やコミュニティーで教えればよいことです。ITも英語も大切だが、それを小学校で教えたら、国語や算数がきちんとできなくなる。何が一番大事か選ばなければならない。

 
西部 最後に、教育に対する思いの一端を。

 
西沢 アメリカ東部に伝統的な教育をする全寮制のエリート高校があります。日本の教育はダメだと思った親が、こうした高校に子供を入れようとし、入れない子の親がアメリカに学校を建設しようという動きが出ているそうです。これで、日本のアイデンティティーが保たれるのだろうか。日本文化を大切にする教育体制を再建しなければ、日本の歴史は終わってしまうのではないでしょうか。

 
福田 学力低下や子供の感情、家庭のしつけなどいろいろ変質したと言われるが、個人が勝手な行動をしないなどの国民性は、変わっていない。これが完全に崩壊しないうちに何とかしなくては。

 
藤原 論理、合理だけでなく、情緒を取り戻さないと、日本も世界もどうしようもない。日本人が世界に誇る「もののあはれ」や、誠実、勇気、忍耐などを示す武士道精神は、形であって理屈ではない。情緒を身につけることが、総合的に物事を判断できる日本人としてのアイデンティティー、科学立国のために必要です。情緒を強調した教育なしに、真の教育改革はあり得ないと思います。


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