葛飾区再生計画案行政編


FATA REGUNT ORBEM ! CERTA STANT OMNIA LEGE

(不確かなことは運命の支配する領域。確かなことは法という人間の技の領域)

―― ローマの格言 ――

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

第13章(教育)関連資料

<資料21>

(01.01.28 産経新聞 論点)

    インターネットで英語教育を

東京海上火災保険顧問 中川勝弘

 ●小さくなる地球

 21世紀の幕開けである。百年先の未来を予想するのは不可能だが、IT(情報技術)革命は引き続き進行し、その爆発的影響は経済社会全般に及ぶだろう。さらに、IT革命により情報伝達の手段が拡大し、そのスピードが速まり、グローバリゼーションがますます加速され、文字通り地球は小さくなる。技術の発展に限界はなさそうだ。いずれにしても21世紀の百年間、われわれの想像もつかないダイナミックな変化が起きるであろう。その変化をしっかり受け止めて日本の進路の誤りなきを期さねばならぬ。21世紀は間違いなく、今の若者そしてこれから生まれてくる人が担うのだから、若い人の教育が特に大事なことは言うまでもない。

 昨今、いじめ、不登校、少年犯罪の増加、学級崩壊など教育の荒廃に直面して教育改革論議が盛んである。もちろん教育の理念や哲学の確立が特に荒廃した教育の現状を見るにつけ、重要であることは言をまたない。しかし、それを論ずることは別の機会に譲って、ここでは基礎学力の向上という点に着目してインターネットによる英語教育というプラクティカルな側面について論じたい。

 冒頭に述べたようにIT革命とグローバリゼーションが進む21世紀には、読み、書き、そろばんに加えて、パソコン・インターネット、英語が必須の基礎学力となる。この要請に同時にこたえることができる教育手法として、本格的なインターネットによる英語教育を進めたいものである。

 昨年末に生産性本部のIT調査団の団長としてフィンランドを訪れた。フィンランドはわずか人口500万の北欧の小国であるが、あるいは小国で小回りがきくからというべきか、ヨーロッパ随一のIT大国であることを思い知らされた。EコマースをはじめIT革命の成果が、単なる未来の夢物語ではなく経済社会全般にわたってすでに導入実践されており、きわめて印象的であった。中学、高校におけるインターネットを使った英語教育の見学もしたが、一人一台のパソコンを使って、熱心な生徒と先生の英語でのやり取りを目の当たりにして実にうらやましい気がした。パソコンやインターネットの操作訓練は小学生で既に終了しているとのことであった。フィンランド語は英語系の言語ではないにもかかわらず、9歳から始められる英語教育の成果もあるのか、生徒は抜群の英語力と見受けられた。

 ●授業を楽しむ

 中学の授業であったか、インターネットでハリウッドの映画関係のホームページを開けさせ、自分の好きな俳優を選んで、ファンレターを英語で書いてEメールしなさいというのが、その日の課題であった。日本ではいやな英作文の時間ということになるのだろうが、ここでは先生も生徒も授業を楽しんでいる様子だった。楽しみながら、インターネットの役割を理解し、英語を覚えていくスタイルは日本ではお目にかかれない。勉強は本来楽しいものであるはずだ。さて、この方式を日本に導入するにはどうしたらよいか。まずは、学校に生徒が十分に使える台数のパソコンを設置する必要がある。公立学技のパソコン設置率は文部科学省によれば、98.6%だという。しかし、生徒一人一台という具合に支障なくパソコンを使える態勢には程遠い。学校も予算不足で困っているところ、企業から公立学校への寄付をもっと簡単にできるようにして、まず最新式のパソコンを学校にそろえることである。次にインターネットヘの接続を進めなければならない。現在インターネット接続率は、同じく文部科学省によれば35.6%であるが、政府は平成13年中にすべての公立学校にインターネット接続を実現する計画を進めていると聞く。大変結構なことだが、ただ接続するといっても、まだ容量も小さくスピードも遅いのが大勢だという。

 ●人材養成が急務

 インターネット・インフラ整備を完全に実現すると同時に、英語教育の大幅な改造が必要である。英語教育の現状は、英文法と読解力の養成に偏って、話したり聞いたりする能力が育たない教育となっている。日本人の英語下手は日本語と英語の基本的言語構造が違うからと思いがちだが、フィンランドの例を見てもそうではないようだ。言語はコミュニケーションの道具である。英語が事実上の世界共通語として使われている現状では、英語が使えないということは世界の仲間になれないということにほかならない。これは由々しき状況である。英語のホームページを使って英語をしゃべりながら実用英語を教えることができる先生がたくさんいたら何と素晴らしいことだろう。今のところそれが可能な教師は残念ながらごく少数であろう。英語教師大量養成計画を策定して大量の日本人英語教師の中長期欧米派遣など養成を進めるとともに、広く企業や他の組織からあるいは家庭からも実用英語ができ、ITも理解している人材を学校のボランティア教師として受け入れることも推進したらよいと思う。さらには欧米における大学生や大学院生で日本に関心を持っている者を日本に好条件で招待留学させ、見返りに英語教育の実践を義務づけることも一案である。フィンランドにならって小学校から英語教育を始めるのもよい。これらのうち、既に実施されているものもないわけではないが、いずれも規模が小さく抜本的措置ではないようだ。インターネットを活用した英語教育が初夢に終わらないように前進を期待したい。


<資料22>

(01.01.27 産経新聞 正論)  新中教審の責任は極めて重い

教育の実態えぐり欠点を整理せよ

武庫川女子大学教授   新堀 適也

 教育政策の有機的一貫性

 1月6日の中央省庁再編によって、文部省と科学技術庁が統合して文部科学省が生まれた。文部省という昔なつかしい伝統的な名称と、科学という近代的、西洋的な名称とをつなぎ合わせた点、木に竹をついだような印象を受けるし、科学が科学技術というように、理系に偏って人文科学や社会科学が軽視されないかと心配だ。

 それはともかく、同日、公布された中央教育審議会令に基づき、旧文部省に設けられていた7つの審議会、すなわち中央教育審議会、生涯学習審議会、理科教育及び産業教育審議会、教育課程審議会、教育職員養成審議会、大学審議会、保健体育審議会が新しく中央教育審議会に統合されることになった。また新中教審の委員は従来の20名以内から30名以内に増え、鳥居泰彦・慶応義塾大総長が委員長、ほか29名の委員も内定した。

 新中教審では、旧中教審を引きつぐ教育制度分科会が新設されるとともに、残りの6審議会の役割は4つの新しい分科会に引きつがれる。したがって新設される教育制度分科会は、他の4分科会に対して、いわば親分科会、筆頭分科会の性格をもつことになろう。それだけに教育政策の有機的一貫性が期待できるし、新しい文部科学省は政策官庁たる性格を強めるから、新中教審、中でも教育制度分科会の責任は重大といわねばならない。ちなみに国立教育研究所も教育政策研究所に衣替えするので、これとの連携も密にする必要があろう。

 教育のもろさを露呈

 そしてこの新中教審に対しては、教育改革国民会議の最終答申を受けて、教育基本法の見直しを諮問することになっているが、7月の参院選を控えた政治判断から、政府・与党が最近まとめた「21世紀教育新生プラン」では、党内外に異論の多いこの問題の諮問の時期は明示されないことになった。教育の基本にかかわる本質的に重要な問題は、異論が多いからこそ審議を急ぐべきであるのに、政治の都合で諮問の時期が左右されるという事実自体に、この国の教育のもろさが表れている。教育基本法の見直しを提唱した教育改革国民会議は、基本法について「広範な国民的論議と合意形成」が必要だとしている。だが、そもそもこの法律をよんだことのある人は、教員や教員志望者、あるいは教育法学者などを除けば、ほとんどいないだろう。しかし国民のほとんどすべては、現に行われている教育、またその教育のもとで育ちつつある青少年について、多くの憂慮、不満、不安を抱いている。今のままの教育で果たしてこれからの日本、またそれを支え、その中で暮さなければならない次の世代は、大丈夫かと考えている。教育は国民的な関心事である。その教育の憲法といわれるのが、教育基本法なのだから、今日の教育の実態をありのままにえぐり出し、その欠点を整理し、それが基本法といかなる関係にあるかを指摘するなら、基本法見直しへの国民的な関心や論議が巻き起こるだろう。新中教審がこの問題を諮問されるなら、まずこうした努力をしてほしい。

 日本への嫌悪育てるのか

 基本法に書かれていることは一々、尤もだが(それ故に見直す必要はないというのが、反対論者の主張だ)、問題はその他に重要な原理がありはしないか、基本法が画一的に解釈されてきたのではないか、またそれが忠実に実行されているか、などといった点からの検討の必要性であろう。

 例えば基本法の第1条(教育の目的)には、教育は「…国家及び社会の形成者として、…心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」と謳われている。その場合の国家とは日本であり、国民とは日本国民、日本人を意味することは疑いない。ところが現実を見れば、日本の文化や歴史に対する無関心どころか嫌悪や反感を育て、日本という国家に対する愛着や誇りを失わせる教育を意図的に行うのが「良心的」だと考えられている場合が少なくはない。国家という語を基本法第1条から削除し、国民の代わりに個人という語を使えば、「良心的」な人びとは満足するであろうが、彼らに限って基本法改正に絶対反対を唱える。

 もう一つ、現在の教育の欠点を象徴するのは学級崩壊だ。その最初の段階は私語の横行による秩序の崩壊、授業の不成立だが、私語とは文字通り「私的な言語行動」を意味する。しかし私的な会話を私的な時間や空間で行っても私語とはいわない。私的な会話を公的な教室で行うから私語という。私語とは「公」の中に「私」が公然と侵入する一種の公私混同である。この「公務執行妨害」罪に対する罰がないので、「私」はますます増長する。

 学級崩壊は蔓延し過激化し、やがて学校崩壊、卒業式崩壊、成人式崩壊に発展するし、崩壊した学級では学力崩壊が起きる。これをそのまま放置するなら、職場の崩壊、さらには国家の崩壊にまで及びかねない。公私のけじめがなくなり、けじめをつけようとするとすぐに「キレル」。これは今日の教育の基本にかかわる問題であり、教育基本法の問題でもある。  (しんぼり みちや)


<資料23>

日教組の教研集会開幕…社会部発                (01.01.28)

来賓に罵声  まるで"荒れる成人式"

 「ヒトラー!」「右翼!」27日午前、東京都江東区の有明コロシアム。壇上に立った横山洋吉・東京都教育長に、穏やかでない言葉が飛んだ。客席で声を張り上げているのは、教師か、少なくとも教育関係者である。なぜ断言できるかというと、そこは日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会の会場だったからだ。司会者は時々「静粛に」と注意するが、ほとんど罵声(ばせい)にかき消されて聞こえない。客席側は「かーえーれ! かーえーれ!」と、シュプレヒコール風に調子をあわせたりしている。声の聞こえる方向の客席には、「日の丸・君が代処分糾弾」との横断幕が掲げられた。横山教育長は、この教研集会を妨害するために乱入し、壇上にかけ上ってマイクを奪ったわけではもちろんない。来賓として、あいさつをしているのである。しかし、すぐ後ろに着席している日教組の榊原長一委員長も、隣となにやら言葉を交わして苦笑いするだけで、特に場をとがめるふうでもない。怒号はとどまることを知らず、場内は妙な雰囲気になってしまった。

 日教組中央と、各都道府県の教職員組合との間には、はっきりとしたねじれ関係がある。いつまでも「なんでも反対」ばかりしていては生き残りすら図れないと危機感を持つ中央に対し、何10年も前の闘争至上主義をいまだに変えない地方の組合も多い。しかしそんな事情はともかく、招いた来賓に罵声を浴びせ、それをどうにもできない組織をはたしてまともな団体といえるだろうか。逮捕者まで出した今年の「荒れる成人式」を、教育の問題とする声は多い。ところが、教育者自らが最低限の社会常識すらわきまえていないことを、図らずも露呈してしまった。会場の臨海副都心は、折からの寒波で吹雪となった。しかし、教育への熱い思いを話し合うはずの会場の中には、外の風雪よりももっと冷たい、荒涼とした空気が漂っていた。  (松尾理也)


<資料24>

能力開花には適切な刺激が必要             (01.01.31 産経新聞 正論)

暗記教育では創造性は育たない

元東北大学総長・ 岩手県立大学学長 西澤 潤一

経済回復も技術が決め手

 申し合わせたように毎日毎日16、17歳の悲しい事件が続発して、まるで教育改革の緊急必要性を絶叫しているようにさえ受け取れる。何故もっと早く着手していただけなかったかという思い入れひとしおである。

 この若者達の心を結集して大きな力にまとめ上げる試みとして、曽野綾子先生が推進された奉仕活動が教育改革国民会議の報告書に入れられた意義は大きい。勿論押し付けでなく、自発的にそのような行動に出るような心を育て上げることが大切なのだが、完璧主義はなかなか通用しない。兎に角やらせることから出発して、体験しながら次第次第に自らの心を育ててゆくことを期待したい。

 それと共に、今日の国力と考えられている経済力の回復を図ることも緊急を要する。日本は原料資材を輸入して加工し製品を輸出して、そこから得た金で原料資材の輸入代金を支払っている。言い換えれば、付加価値の高い製品を作り、輸出すればそれだけ金が沢山入ることになる。となれば、回復の決め手となるのは科学技術のレベルアップである。

 そのためには基礎も応用もどこもやっていない研究を推進しなければならないということになる。どこもやっていないことを研究されてノーベル化学賞をお受けになったのが、筑波大学名誉教授の白川英樹先生である。

 余談だが、白川先生の研究に注目したのは米国の科学者達で、この研究を受けて広い範囲にわたる応用分野を展開した。こうした経緯もあって、白川先生のノーベル賞の推薦は米国からだといわれている。ちょっと考えてみれば、日本人のノーベル賞受賞は外国人との連名が多い。日本からの推薦でなく、外国からの推薦によるということなのだろうか。

 このようなことから、昔から言われてきたように、日本の基礎研究にはかなり見るべきものがあるのに工業化がほとんど行われていないという事実に突き当たる。

どこにもない製品で勝負

 戦前、戦争という野蛮な行為によって獲得しようとした経済的優位は、本来は電子科学・材料科学によって得られるはずのものであった。この弱点は、戦後、海外からの積極的な技術導入で補うことに成功し、驚くべき速さで経済復興を成し遂げることもできた。しかし、技術導入にあたって、改良に重点をおき、さらに大量生産に結びつけたため、競争者を蹴落として勝つには勝ったが、世界中の悪評をかうという悲しむべき結果を招くことになった。

 ただ、磁性材料などが日本の生産独占のようになった時に海外で非難の声が上がらなかったのは、この分野の日本の研究が大変立派であったが故に独占されてもやむを得ぬという意見が多かったからだといわれている。

 つまり、今後、頭脳生産物に依存して経済を成り立たしてゆかなければならない我が国としては、従来の大量生産に貢献できる人間に加えて、特にすぐれた物作り能力を持った人と、創造的な力を持った人を増やすことこそ生命線といわねばならない。類例のない製品を作ることができれば、世界中から引っ張りだこになろうし、特にその製品が環境を維持したり先端産業の要だったりすれば特に激しい取り合いが起こることも不思議ではない。

参考になるインドの教育

 ところが現在の教育は受験勉強を中心とした極端ともいえる暗記である。だから、効率的な暗記をするために、記憶が増えるに伴って沸き上がってくる思考は差し抑えられて次第に停止する。つまり、頭脳の中に雑然と知識が詰め込まれたようになっており、考えることによって比較したり延長したりつないで見たりしないから、相反することの書いてある二枚のカードがあっても気がつかない。応用動作も考えられないから、創造もできず、事故も起きる。

 創造というのは理解から出発するので、知識が相互に結びつき関連付けられた時に新しいことが考えられるのだ。

 第二のシリコンバレーと呼ばれるインドのマドラス地方は、計算機ソフトウェアと論理回路の研究開発で大きな成果を収めつつあるが、これは小学校教育或いはそれ以前の段階から頭で考える訓練を行ってきたことが実ったものだ。このもようは先日、テレビで紹介されていた。私が覚えていることとは、細かい点で少々変わってしまったが、粗筋は以下の如くである。

 小学校で生徒を前に女性教師が「2000円持っているが、1本100円のバナナを7本買ったとしたらいくら残る?」と質問する。子供が答えると「では残りで1つ10円のいちごを買うといくつ買える?」といった質問をする。メモもとらせず全部暗算でやる。こうしたやり方で頭を鍛えていた。元々インドの子供達は、日本ではやらせなくなってしまった九九を何と20掛ける20まで覚えさせておいて暗算で計算させているという。

 これに対し、日本の子供達は電卓で計算させてしまうから、頭脳の数理計数能力は発達しないはずである。こうした能力の違いが大人になってから計算機のソフト開発に影響しないはずはないと思うのだが如何であろうか。

 子猫の限が見えはじめる時に加える刺激のやり方によって視神経回路の発達のあり方が大きく影響されるという実験がある。全く刺激しないと全く何も見えないようになるという。人間の能力を展開するのに、適切な時期に適切な刺激を与えなければならない。これが忘れ去られているが故に、日本人の能力は開花しなくなったのではないか。(にしざわ じゅんいち)

<資料25>

(01.02.05 読売新聞 社説)  新世紀を開く

学校で「公共性」をどう教えるか 奉仕活動の導入を機に

 ボランティアと補完

 「奉仕」という言葉が論議の的になっている。「もとは天皇に仕えるという意味だ」などと、日本書紀にまで語源をさかのぼって、批判されたりもする。 しかし、言葉の意味は移り変わる。時代時代の空気を吸っては深みを増し、それがまた、その時代時代に深みを与えても来た。新世紀の劈頭、奉仕という言葉もまさにそうあればと思う。

 首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が、昨年末、小、中、高校で全員に奉仕活動をさせるよう提言した。将来的には18歳以上の青年が様々な分野で一定期間、奉仕活動をすることも検討が必要だとした。

 文部科学省は2002年度には何らかの形で、各学校に奉仕活動の導入を促す方針だ。関連法案も今国会に提案する。しかし、肝心の同年度から実施に移される新学習指導要領に手を加える様子はない。学校教育の場に奉仕活動をどう位置づけるのか。ボランティア活動や種々の体験活動との関連をどう考えるのか。この機会に整理しなければならない大事なことが忘れられていないだろうか。

 「奉仕」は「ボランティア」との対比で論難される。「自発的なボランティアならいいが、押し付けの奉仕では意味がない」というのが典型だが、これは両者を一面的にとらえた意見でしかない。

 ボランティアは「問題意識」から「自主的」に始まるのに対し、奉仕は「貢献意識」から「他律的」に始まる。その成果としては、前者には「民主主義社会の発展」があり、後者には「個人の道徳的成長」が考えられる。

 ある論者の見事な整理だが、これに従えば、どちらにより高い価値があるとは言えない。むしろ互いにあい補う関係にあると言ってもいい。この関係を教育に生かしているいい例に米国がある。米国では「コミュニティーサービス」という言葉は、ボランティアと画然と区別されている。もとは兵役や服役の代替を意味したともされ、公園の掃除、障害者の手助けなどがイメージされる。日本で言う奉仕活動に極めて近い。

 全米の中高生の約2割が、このコミュニティーサービスを学校から課されている。州によっては数十時間の活動を卒業要件としているところもある。必修化、義務化と言っていい。

 米英でも進む必修化

 学校から義務化されていない者も含めれば、全米の約半数の生徒がコミュニティーサービスに参加しているという。学校側から見ても、5割から6割の学校がコミュニティーサービスを企画し、生徒に参加を促している。さらに注目したいのは、米国では活動後にクラスでその問題について学習させる「サービスラーニング」を重視している点だ。討議させ、リポートを書かせ、理解度を評価する。

 それはやがて子どもたちの問題意識をはぐくみ、自主的な活動へとつながることになる。つまり、奉仕活動が、それを通じて子どもたちを教育することでボランティア活動に発展していく道筋が、ここに示されているのである。

 英国は来年から、日本で言う学習指導要領で、中高生に相当する生徒に「シチズンシップ教育」を必修化する。言わば「良き市民」についての学習で、地域社会へ出て責任ある活動に参加することなどが盛り込まれている。

 世紀の変わり目に、日本を含めた各国で、若者に公共性について学ばせる必要が叫ばれているのは興味深い。しかし、これは決して偶然ではない。

 共同体再構築が急務

 20世紀はある意味で経済の世紀だった。経済発展は都市化を促し、その一方で地域社会や家庭が影の薄いものになった。人々が帰属意識を失い、それが若者に影を落とした。

 新しい世紀がどんな展開を見せるのかは分からない。しかし、まずは共同体を再構築しなければ、新たな地平は開けて来ないのではないか。それが各国に共通した危機感だろう。

 奉仕活動の対象が、特定の個人であるとか戦前のような軍国主義であるとかの議論が、いかに時代感覚を欠いていることか。ためにする後ろ向きの論議からは早く脱しなければならない。

 兵庫県で始まった「トライやる・ウイーク」をきっかけに、全国に体験活動の様々な取り組みが広がっている。ほとんどそのすべてが成功しているが、学校教育の中にまだまだ体系的に位置づけられているとは言いがたい。

 奉仕活動を入り口にして、子どもたちをどこへ導いて行くのか。それを考える今をいい機会としたい。それは、新しい時代に私たちの社会をどう築いて行くのかということにもつながっていく。


<資料26>

思惑に揺れる歴史教育                    (01.02.08 読売新聞 とれんど)

 文部科学省で検定中のある中学歴史教科書をめぐり、政界や外務省に中国、韓国との摩擦を懸念する声がある。敗戦までの植民地主義、軍国主義時代の日本の行動について、現行のどの教科書よりも″擁護″の傾向が強いからだという。検定中のため教科書の詳細には言及しないが、前書きの「歴史を学ぶとは」には次の趣旨が記されている。

 「現在の価値基準だけで過去を断罪することは歴史の勉強ではない。過去には過去の善悪のとらえ方があった。それを知ることが重要だ」この考え方自体に異論の余地は少なかろう。どのみち、中韓両国に与えた大きな被害は何年たとうと否定しようもないからだ。

 執筆者の言いたいことは何か。後書きには「軽率に外国の基準に従い自分を失うことは危険だ」との趣旨の指摘もある。ここで思い当たるのは、過去数度生じた教科書問題だ。うち一度は実際に外国の要求を受け入れる形で教科書内容の修正にまで至っている。その結果がどうなったか。今使用されている教科書を開くと、どれも慰安掃や南京事件への言及がある。が、記述は不十分で誤解を生じかねないものにとどまっている。

 例えば慰安婦問題。本来なら公娼や人身売買のまかり通った当時の時代背景を抜きには語れないが、その種の記述はない。そもそも、中学段階でこの問題を教える必要性を疑う識者も少なくない。歴史教育に不可欠な実証性や多面性を「国際協調」の名分の犠牲にしてはなるまい。(論説委員 鬼頭 誠)


BACK to 再生計画案     BACK to 第13章(教育)関連資料目次
ご意見、お問い合わせ
E-Mail:k-sigeki@tau.bekkoame.ne.jp