かつしか郷土史探訪 (11)


葛西三郎清重と源頼朝

葛西清重木像(四つ木・西光寺所蔵)

 鎌倉時代、葛飾には葛西氏という、将軍に仕えていた武士がいました。葛西氏は桓武平氏の流れをくむ家柄で、平安時代に隅田川以東の葛飾・江戸川・墨田区辺りを開発しました。名字はその地名「葛西」を冠したものです。葛西氏の中でも、最も名の知られた人物は、葛西三郎清重です。

 治承3年(1179年)相模石橋山の合戦で破れた源頼朝は、安房に渡った後、下総国に軍を進め、武蔵国を目指しました。しかし、隅田川西岸に勢力を張る江戸太郎重長のために、軍を進めることができなくなりました。その時江戸氏を説得し、旗下に収めたのが、同族関係にあった清重でした。その後、清重は奥州惣奉行の重職につき、頼朝の側近として鎌倉幕府の中でも重責を担いました。

 清重は弓や馬の術に優れ、人望も厚かったことが鎌倉幕府の記録書「吾妻鏡」や説話集「沙石集(しゃせきしゅう)」から知ることができます。沙石集には『頼朝が武蔵国に入ろうとした時、江戸重長が頼朝の命令に従おうとしなかったため、頼朝は清重を呼び、重長を抹殺すれば重長の所領を没収し清重に与えると言いました。しかし清重はこれを固辞しました。頼朝は怒り、今度は清重の所領を没収すると責めますが、同族である重長を思い、なおも固辞する清重の態度にさすがの頼朝も感服し、清重を責めるのも江戸氏の所領を没収することもやめました』という、清重の人柄に触れる逸話があります。

 清重は晩年出家して壱岐(いき)入道と称し、81歳で没したといわれています。四つ木と宝町にある西光寺や東堀切の普腎寺は、葛西氏ゆかりの寺といわれています。

 (郷土と天文の博物館)

 

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