本-開[朝の連続小説 バス太郎の誓い]本-開

<<この小説はフィクションであり、登場人物は実在の人とは関係ありません>>

 「大混乱のフランクフルト国際空港」No.15

当時の正規の値段(片道36万円)でチケットを買ったので、強気でJAL会社と何とか楽器を機内に持ち込めるように一週間かけて交渉したのですが認められず、コントラバスを荷物室のパイプにロープで固定してもらう約束をようやく得て、出国当日に楽器を預けて機中の人となりました。ウィーン・シュベヒヤート空港にたどり着くまでの乗り継はフランクフルト空港です。トランクと一緒に楽器も乗せ変えられるのだと思いこみ、乗り継ぎまでの時間、広大な空港を不安と好奇心でうろうろ探検していると、ウイーン行きの搭乗手続きがアナウンスされました。日本人を誰一人見かけない乗り換え便搭乗ゲートでチケットを見せると、オーストリアエアラインの赤い制服のスレンダーなスチュワーデスが「&%#$*`@\????」とバス太郎だけに早口で話しかけてきたのです。始めてのドイツ語会話です。綺麗な女だな〜〜と見とれてるからか折角日本でドイツ語会話の特訓をしたのにさっぱり聞き取れません。「もう一回ゆっくり話して!!」と3回話してもらうと、ようやく相手が血相かえて話してる内容が分かりました。「貴方様の手荷物が受け取られていません。どうされましたか?まだなら、急いで空港一階のドイツ入国手荷物受け渡し窓口へ行って下さい。後五分で出発時間ですから急いで!」バス太郎は焦りました。しかし迷子になりそうな広い空港も、探検したお陰でビル全体の構図が解ってたのが幸いして、手回り品荷物受け渡しでコントラバスを受取、楽器を担いで再び搭乗口へ汗だくになって走って行くと、もう誰も搭乗客はいなく、あのスチュワーデスが一人待っていてくれました。

「&%#$*`@\・・・・・!貴方の手荷物って、こんなに大きな楽器だったの!!!!もう!!!!」と、従業員専用のエレベーターで一緒に下りて、飛行機の胴体の所まで移動バスで連れて行ってくれました。強張った彼女の顔に笑顔がもどり「これは貴方の命の次に大事な楽器ですよね、演奏旅行ですか?」と聞かれて、「はい、いいえ!でも、いつか貴方を喜ばせらるような演奏家に成るために、もう一度初心で勉強やり直したく国立音大受験に行く所なんです!」と答えると、すぐさま彼女は無線でパイロットに交渉して、有難いことに空いているファーストクラスの席に大事に楽器を座らせてくれたのです。「なんと音楽家やその人たちの持ってる楽器を大事にしてくれるんだろう!やはり文化の違いなんだな〜〜!あれだけ交渉した日本では機内持ち込みはダメだったのに、すごいな〜!」と思いつつ、こうして大騒動に巻き込んだフランクフルト国際空港を離陸となりましたが、なんとこの騒ぎで、20分も定刻の出発時間を遅らせてしまってたのでした。ごめんなさい!

「始めてのウィーン」No.16

憧れの音楽の都ウィーンに到着したバス太郎は、市内中心部にある夏休みだけ開放される大学の寮に入室しました。もし受験失敗したら帰国して比叡山の修行に入る約束だったからです。最初の3日ぐらいは食事もほとんど学食で済ませて練習していましたが、好奇心旺盛なバス太郎は毎日の様に市内見物の散歩に出かけるのでした。見る物・聞く物・感じる物、全てが夢のような世界でした。中学1年の頃、音楽大全集で見た写真と同じ風景が360度広がってるのです。街の至る所にモーツアルト、ベートーベン、ブラームス、シューベルト、シュトラウス、ブルックナー、マーラーが住んで作曲した家やアパートが点在し、その隣のアパートの部屋では、普通に現在の生活が営まれてる。

中学の頃一人でクラシックのレコードをかけて音楽全集の隅から隅まで覚えるほど熟読したオタク少年は変な存在でしたが「この街では、クラシック音楽が特別の物でなく、当たり前に、歴史的遺産でなく、今生きてる人々と一緒に普通に混在して生活の一部になってるんだ!」もう毎日バス太郎は胸一杯感動して歩き回ったのです。

旧市街の石畳の道や、城や宮殿・教会・オペラハウスや古い住居、全てがハプスブルク家時代のそのままに改修修復されて残っているのです。「この道をベートーベンもシューベルトも歩き、このカフェーで珈琲を飲み、このレストランで食事をし、このサロンの一室で演奏し、この部屋で作曲してたんだ!!!」

早足で歩く東京と違って、ウィーンの時間はゆったり流れていました。そんな時間の流れにすぐに慣れたバス太郎は、お気に入りのカフェーの店先に並べられたテーブルで珈琲一杯注文しては、最低1時間はゆっくり座り、その感動を伝えるために実家に手紙を書き続けました。現在のようにE-Mailもインターネットもありませんし、電話は電話局へ申し込んでから30分またされ30秒1万円ぐらいする国際電話通話の時代でしたから、手紙が一番の手段だったのです。それでも船便ですから日本に郵送されるまで1週間もかかるので返事が返ってくるのは半月後です。それでも、感動を誰かに伝えたくて、毎日のようにカフェテラスで絵葉書や手紙を書くのが日課のようになっていました。そうして徐々に街になじんでいくと隣に座った老人や道行く人に良く話しかけられたものです。「どこからきたんだい?何処の国の人?」当時は東洋人がまだ珍しい時代だったのです。「僕は日本から来ました!」「ほー、ヤーパンから・・・遠い国だね。中国のどの辺にあるんだい?」「いいえ中国は大陸で、そのまだ東にある島国なんですよ日本は!」「そうかえ、それにしても、そんな遠いところからよく来たね〜。船と汽車でやってきたんかえ?それにしても、あんたドイツ語が上手でこんなばあさんの話し相手になってくれたから、このケーキ半分お食べ!」「ありがとうございます。おばあさんもお元気で!」と、おばあさんと別れて、一人またカフェーから石畳の道を散歩して帰りながら「う〜〜〜ん。そうなんだ、日本の教科書で見る世界地図は日本が太平洋の中心になってるページだけど、欧州にくれば日本なんて世界地図の端っこにあるかないかのような存在なんだな・・・!世界は広くてその国、その土地、その村で一人一人それぞれの生活をされているんだ!決して自分の知ってる世界だけが中心じゃない!地球の人口の、そのまた歴史に生きた人々の営みまで、無限の生き方や考え方が存在して、それらの異文化が刺激し合って調和し合うから文化交流は素晴らしいんだな!それが感動を呼ぶんだな!殻の中にずっと収まってると、自己防衛本能のせいか殻の外での接触が時折理解し合えなくなり、小さな自分の心の中でも、はてしない大きな世界でも、認め合う心の余裕がないだけで、喧嘩や離婚、決別や強奪、戦争や紛争が消えないのかな・・・・」ちょっと寂しい独りぼっちのウィーン滞在最初の一ヶ月でした。(境内が雪化粧のH18年3/14記)

「受験」No.17

試験日も間近に迫り学生寮で無心で練習していると、部屋の窓の外の中庭やドアの外の廊下に音が漏れていたようです。休憩にちょっと外へ出ようとした時、ドアの外に背の高い男性が2・3人立っていました。

「やばい!!うるさかったのかな〜〜。。。こりゃ文句言われるな・・・。」

と、思いきや、ニコニコ笑いながら

「素晴らしい!ドラゴネッティーのコンチェルトですよね!僕達は指揮科の学生で副科でコンバスを少し習いました。貴方のような立派な音色と音程と音楽の構成は聞いたことがありません。どちらのオーケストラの方ですか?」

「プロオケの何処にも在団していません。僕は日本一の先生に師事して音大を卒業したばかりです。ですから今度は世界一のコントラバス奏者に師事したく、ここの受験にやってきました。」

「そうでしたか!世界中から優秀な学生やプロがウィーン音大に集まりますが、貴方なら必ず合格しますよ!幸運を祈っています」(この時のドアの前での会話以後、彼らと学食で顔を合わせる度に一緒に座り話をする現地で始めての友達になりました)

「ありがとうございます」そっか、やはり日本一の先生の指導で学んだものは世界でも目標を同じとするものなんだ!決して間違いでない音楽文化共通の理想の音楽を目指して頂けたんだ!っと、怠けてばかりで真面目に勉強しなかったけど大学の恩師の指導に感謝の気持ちがこみ上げてきました。

しかしその後、一人になってよく考えると、なんだかシュトライヒャー教授のクラスの受験には世界のトップが定員枠を競い合う関門なんだよと驚かされてたんだ、決して容易く合格できるクラスでは無いと、不安が込み上げてきて安堵できなくなりました。

しかし楽天的なバス太郎は、

「まあ、受験では今まで通り弾くだけさ!くよくよ考えても、これまでの人生を取り替えることは出来ないし、怠け者だったけど、学んだ環境は最高レベルだったし、そこいらの世界のプロ奏者には、日本の学生は悪いけど負けないよ!大きなミスしないように音楽すれば大丈夫さ!僕の血筋は偉大なる両親とご先祖様から受け継いでるんだ!野蛮な欧州の海賊や盗賊の末裔なんかと違うんだぞ!」

と、訳の分からない屁理屈で自信をつけて、学生寮のある校舎と続いてる一階の試験会場に意気揚々と向かったのでした!

「試験結果発表」No.18

無我夢中で試験を弾いたので、何処をどう弾いたのか全く覚えていないほどの一瞬で試験は終わりました。

「あんなに苦労して楽器を担いではるばる地球の裏側からやってきたのに、一瞬の人生の岐路を覚えていない・・・。まあ、ここまでやってこれたことだけでも音楽をここで諦める覚悟も出来たし、これで帰って、約束通りもう逃げないで僧侶の修行を始めよう・・・・。」

そんな事を思いながら、一緒に受験した様々な国の言葉が飛び交う合格発表が張り出されるロビーに立ちすくんでいました。っと、その時、歓声とざわめきがロビーに響き渡ったのです。合格発表の紙が張り出されたのです。高校も大学も受験勉強をしないで落ちるとは思いもなく受験してきたのですが、今回だけはレベルが解らないので不安でした。それに、憧れの教授のクラス以外に合格しても、ここまで来た意味がありませんから、例え受験番号が張り出されていてもシュトライヒャー教授に師事できなければ、帰国しようと覚悟しながら、自分の受験番号と張り紙を見比べていますと、

「あっああああった〜〜〜〜!しかも、シュトライヒャー教授のクラスだ〜〜〜!!」

と、心の中で叫びましたが、落ちてうつむいている人たちが回りに沢山居たので、バス太郎は、平然と黙ってその場を去ったのです。部屋に戻るなり、静かに想いが込み上げてきました。

「如来様の示導は、比叡山での修行より、今はウィーンでの修行を示されたんだ!世界最高峰のコントラバス奏法と音楽をこれから学び、それらに付随して出会うこれからの人生に仏道修行を僕に与えられたんだな!よっし!僕に許された限りある時間の内に、やれるところまでやってみよう!」新たな決意に燃える青年、バス太郎がここに誕生したのですが、波瀾万丈の泥沼の生活に足を踏め居れようとは、知る由もない合格発表でした。

「長期滞在アパート探し」No.19

学生寮夏休み開放期間も終わり、そのまま住みたかったのですが空きがない為、追い出され、最初はYMCAの国際学生寮に滞在しながら長期滞在用のアパートを探していますと、音大生が帰国する為に入れ替われる情報を得ました。日本のアパートと違って家具や食器付きですからすぐに生活できますし、なによりも音出しが深夜以外自由なのが決め手となりました。しかし、環境はあまり良い場所ではありません。

ウィーンは欧州最大級のハプスブルク家の宮殿城下町です。現在リンク(指輪)と呼ばれる内環状は宮殿施設を囲む城壁跡の道路ですが、その外にギュルテル(ベルト)と呼ばれる外環状の城壁跡が下町地区と市外地区を隔てるように囲まれてる環状道路があります。その外環状にアルプス越えのイタリアやフランス方面と、旧東欧のハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアや中東からの国際列車の終着駅ヴェストバンホーフ(西駅)があり、車の交通量も多い外環状線道路に面したアパートです。しかも、夜になると国家公務員の娼婦が立ち並ぶ一帯でした。と言っても、現在の日本と違い、どこか優雅で、犯罪や窃盗などは当時は全くない欧州一安全な首都がウィーンでしたからバス太郎はすぐに移り住みました。それに好奇心が恐怖心をうち消し、いちいち感動して歩く性格ですから何をしても前向きで、そのささやかな感動や喜びは両親への感謝の手紙に綴り続けたのです。

例え危険そうな場所でも、東ヨーロッパの人々はそんなに大柄でなく、体格に恵まれたバス太郎は一見腕力もありそうに見えるので危害をかけられるような場面に出会うこともありませんでした。もっとも、この国の98パーセントが敬虔なクリスチャンで、大家さんも上品な元貴族、隣人やパン屋さん八百屋さんスーパーの人たちも気さくな人たちばかり、街全体が謙虚に、文化的に、元気に、神様に感謝しながら暮らしています。

この町では知らない人と階段や廊下で出会っても「ッスコット!」と声をかけます。どんなに辞書を引いても解らないし、挨拶の所を見ても普通に習った挨拶会話しか見あたりません。「ッスコット!」????訳解らないまま、同じ発音を真似して返すと笑顔で答えてくれます。楽観的なバス太郎は意味も知らずに出会う人たちの笑顔を見たくて「ッスコット!」を連発して歩きました。後でやっと解ったのですが「グリュース・ゴッド」(神様によろしく!)と言うウィーン独特の挨拶で、前半の(グリュース)が口の中で終わり行き交う人には最後の(ス・ゴット)部分が聞き取れる感じだったのです。日時や場所に応じ常識の範囲内で自由に受け止められる便利な言葉です。これ一つで「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「さよなら」「おやすみなさい」から「おげんきですか?」「お陰様で!」関西弁で言えば「もうかりまっか?」「ぼちぼちでんなー!」の挨拶変わりに使えるのですから・・・・・。

バス太郎は「ッスコット」一つで、すぐに地域の住民人々と打ち解け、何処でも誰とでも住民・移民・人種を問わず垣根を作らず話をしました。朝のパンを買いに行けば、身長180cmなのに体重は62kgまで貧困食生活で痩せていた為「あんた!白いパンはダメだよ、こっちの黒パンの方が栄養あるからこれ食べなさい!」とパン屋のおばさんは白パンを売ってくれないほどお節介される仲になり、夜遅くまで練習して大学から帰えると、時々見かけるいつもの娼婦の姉さんにも「おかえり!よく勉強できた?」と声をかけられて近況を話し合うほど、ウィーンの下町での長閑なアパート一人暮らしが始まったのです。

「大学入学手続き」No.20

アパートの引っ越しも済ませ、大学での入学手続きも、住民票届けも、銀行口座開設も、前日に必要なドイツ語会話を想定して勉強して行ったお陰で何とか出来ました。

勿論、日本の高校時代から大学時代の親友の伝や、既に留学して知り合った先輩に色々お世話になりアドバイスを頂戴しました。中でもドイツに留学したファゴット親友の紹介で、後輩の高校卒業から大学をウィーンに留学し、現地の学生達と同じ一般教科をドイツ語で履修していたファゴット君(リンツ・ブルックナー・オーケストラ首席奏者となる)には留学当初に大変お世話になりました。

既に日本の大学を卒業してきたバス太郎はドイツ語で書かれた成績評価を提出していたので一般教科は免除され、専門のコントラバスと、オーケストラ、それと外国人留学生全員が受けるドイツ語の授業だけだったので、念願のコントラバスの神様のレッスンを思う存分受講することができたのです。先生は月曜から金曜日まで水曜日と土日祝日以外は毎日午後1時から夕方7時頃まで60名ほど生徒をレッスンされていました。午前中はアシスタントの教授や、別の先生がレッスンをされています。兎に角、留学の目的はシュトライヒャー先生に師事する事でしたから、これで日本を旅立った第一の目標は達成されたのです。しかも授業料は年間たったの3万円程度。さすがにオーストリア国立音楽大学だけあって、税金がこのように我々外国人にまで恩恵を受けてるのだと感謝するしかありません。しかも学生書を見せると国営のオペラ劇場や美術館・博物館、何と行っても国鉄の電車代は半額以下になるという、学生を支援する国の政策に包まれ安堵して暮らせたのです。日本と言えば学生や生徒からお金を如何に巻き上げようかとする方法ばかり考え、まじめな学生を支援する体制など崩壊の危機に達してるような気がしました。

さて、日本の4月からとは違い9月後半から新学期が始まります。最初の週は外国人のドイツ語へ行きました。日本人だとおもって話しかけると通じなかった中国人、台湾人、韓国人、北朝鮮人、タイやベトナムなどのアジアからも若干いましたが殆どが日本人でした。当時の大学生でもっとも多いのが、当然現地のオーストリア人、次にアメリカ人と日本人、フランス人、イタリア人、チェコスロバキア人、ハンガリー人など東欧諸国、韓国人、中国人、北朝鮮人、タイ、ベトナムなどのアジア諸国のような順でした。(現在は日本人留学生よりも韓国や中国人の方が上まって、しかも昔の日本人のようにどん欲に学んで優秀な奏者が育っているようです)兎に角、一度に色々な国の学生と顔を合わせ世界の広さと自分の存在を省みたとき、

「日の丸を背負ってる僕は、堂々たる歴史文化のある日本人の礼儀作法と存在能力の優秀さを見せつけ、欧州よりも日本の方が戦前まで文化国家であり人々の精神は崇高だったんだから、知らしめてやるぞ〜〜!頑張るぞ〜〜!」文化遺産が立ち並ぶウィーンの街に圧倒され、人々の音楽文化生活に圧倒され衝撃を受けたバス太郎は、自分がまるで日本代表のような錯覚に陥り孤軍奮闘の決意をしたのでした。常に大きな力や強い者には立ち向かう闘争心と、それを謙虚に受け入れる従順さが同居してるバス太郎は、背筋をぐっと伸ばして意気揚々と、いよいよ憧れの教授のレッスンへ颯爽と向かうのでした!

(留学編その2へ続く

教信寺貫主:長谷川慶悟=音楽家:長谷川悟

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