[朝の連続小説 バス太郎の誓い]
<<この小説はフィクションであり、登場人物は実在の人とは関係ありません>>
「憧れのCbの神様に初対面」No.21
今日は始めてのレッスン日。朝から緊張してレルフェンフェルダー・ギュルッテルの市バス駅からモーツアルト像が目の前に見えるリンクの駅で市電に乗り換えシュバルツェンベルク・プラッツで降りて大学まで歩きます。緊張の足取りは頂点を究め、すでに心拍数が平地を歩いているのに高山を登ってるかのようです。大学の門を入り左手の機械式のエレベーターで4階(5階)[欧州では一階を数えないで二階から一階・二階と数えるので困惑です]までゆっくり上がります。この階に管弦の教授のレッスン室が並び、一番奥の3つの部屋がコントラバスの部屋です。もう、此処まで来ると緊張は最高潮となり心臓が胸から飛び出しそうになってドアの前に立ちました。
と、その時、大きな声でなんだかすごい剣幕の怒鳴り声が聞こえてくるではありませんか。
「あわわわ・・・。もう、あかん。引き返そ!」しかし身体が固まって身動きできません。
と、その時、ドアが開いて中から泣きながら飛び出してくる大男とぶつかり倒れそうになりました。開いたドアから中に立つ憧れの先生が顔を真っ赤にして怒り狂っています。
「ヒエー!もうダメ!なんでこんな所へ来てしまったんだ・・・・・。」
と、目のあった瞬間、中から大きな声で、
「おい日本人!中にお入り!入れ入れ入れ!」
「は、はい!」もう、お化け屋敷で天上から目の前に幽霊が落ちてきた位の驚きと恐怖心でバス太郎は顔面蒼白で、部屋に入りました。
さっきまでの鬼の形相から優しい恵比寿様の様な顔でニコニコ笑いながら聴講生達の前でバス太郎に話しかけてくれました。
「入試でしっかり弾けてたな!な!な!どこで、どこで、どこで勉強してきた?ここでどうしたい?」位はの質問が耳に残りましたが、早口で、ひどいウィーン訛のドイツ語で話されるので、あとはさっぱり意味不明でした。それにこちらも緊張してるので、
「ありがとう!東京のN響の首席の先生!ここを卒業したい!」とだけ、なんとか言えただけでした。
レッスンを中断して、各国から集まった生徒や聴講の皆に日本のことや僕のことを話してるようでした。何を言ってるのか内容までは解りませんでしたが、時折、先生が楽しそうに話し、皆が笑っていたので「まあ道化者にされても、すぐに受け入れられ、決して仲間はずれにはされないな・・・」と感じてからは安心して、その日が暮れるまでレッスンを聴講しました。そうすると、先生のレッスンの進め方や、ウィーン訛のドイツ語も少しずつ理解できるように、耳がなれてきました。しかし日本で標準語のドイツ語を勉強してきたので、年輩の八百屋のおばさんや肉屋のおじさんと同じように、聞き取りにくいドイツ語には変わらず、先生のウィーン訛に慣れるまで半年はかかりそうでした。
帰り際に、先生から基礎を一から教えるから1年生のクラスと、オケパートを勉強する3年のクラス、それが出来たら後期から卒業クラスに来なさい!と言われたのを嬉しく想い、行きと帰りの心の有り様は雲泥の差となり、足取り軽く、遠回りしてケルントナー大通りの真ん中を歩き、そこから西駅に続くマリアフィルファー通りを経由してウインドショッピングを楽しみながら結局すべて歩いて帰ったのです。そして、その日ベットに入って、なんだかこんな経験が4年前にもあったな〜〜と想いながらも、すぐさま深い眠りに入っていくバス太郎緊張の一日でした。
「始めから」No.22
高一の初夏に始めたコントラバス。大学入学して一からやり直し、ウィーンに来てまた始めから楽器の持ち方、弓の持ち方、奏法や運指を始めからやり直しました。
しかし、バス太郎は、素直な心と柔軟性、そして器用さを兼ね備えていたので、抵抗無く吸収できました。決してこれまでの修得を削除したり無駄にせず、いつでも使えるように一旦保管して、持ち合わせてない新しい奏法を付け加える事が自然に出来ました。
シュトライヒャー先生はそんなバス太郎の性格と恵まれた体格の割には器用な指先が気に入り、熱心に教えたのです。それは、文化庁給費留学で同期に留学したプロ奏者は勿論カナダトロントオケ、ベルリン放送響、イスラエル・フィル、アルゼンチン、スペイン、世界中から集まった中堅プロ奏者達に羨まれるほど、地元のウィーンの学生と一緒に一番若いバス太郎には外人なのに、地元の学生と同じくらいに熱心に懇切丁寧指導してくださったのです。(卒業後、同期の一人は国営放送交響楽団兼務同大学の助教授になり、もう一人はウィーン交響楽団に入団し、また彗星の如く現れ半年ほど共に学んだ生徒は卒業をまたずウィーンフィルに入り、十数年後に同大学の教授になりました)
バス太郎は「やはりこの大学はウィーン伝統の音楽を残すために存在していて、僕達外人はどうでもいい付録のような者なんだなー!」と思いつつも、彼らと分け隔てなく教えて下さった先生に感謝しながら毎週のレッスンに無欲無心で励むのでした。
それは、ちょうど先生が「どんくさいオケとはもう付き合えない!」とウィーン・フィルにしがみつくどころか、自ら定年もずいぶん残して辞めて、楽器の可能性を越えた自分の音楽に情熱を傾け、意欲的に独奏曲を発掘研究しては世界に独奏演奏披露し楽壇にセンセーショナルを起こし始めた脂ののった時期であり、尚かつ、大学では自らの奏法を後世に伝えるため執筆を継続していた教則本「L.Streicherコントラバス奏法」のモルモットにされていたからかも知れませんが、新しい原稿が出きる度に弾かされ続けさせられました。その事がバス太郎にとってどれほど重要な事だったか、とにかく必死でレッスンに付いていくバス太郎には夢にも思っていませんでした。(将来設計もないままの帰国後に、このドブリンガー社出版の教則本を日本語に訳し音楽之友社から出版し、また寺で始めたCbセミナーに二回も先生の訪問を受け、公開講座と演奏をして頂けた喜びは何者にも代え難きバス太郎一生の喜びと感謝となったのです。)
「始めてのオペラ鑑賞」No.23
ウィーンに来て5ヶ月、大通りがクリスマスの飾り付けに賑わう頃、始めて国立オペラ劇場に入りました。給費留学で来て偶然アパートの下の階に住み始めた都内のメジャーオケの副指揮者と懇意になり誘われたのです。演目はR.シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」でカール・ベームが新しい演出で幕を開けるプレミエでした。しかもプリマドンナに当時まったく無名の新人E.グルベローバを起用しての開幕です。バス太郎は東京でイタリアオペラ引っ越し公演の通しチケットを関係者からプレゼントされ、東京上野の文化会館に通ったことがありましたが、本場の劇場は勿論初めてです。もう劇場の玄関をくぐるなり荘厳な建築に圧倒され、席に着くまで出会うタキシードの紳士と華やかなドレスと宝飾品に着飾った貴婦人は映画のシーンに紛れ込んだ様な感じでした。ウィーン・フィルの奏でる序曲は天上の高い劇場の隅々まで響き渡り、木管楽器のソロから金管楽器の分厚いハーモニー、優雅で美しい弦楽器の響きが別世界に連れて行ってくれる頃、緞帳が上がりました。バス太郎は、なんの躊躇もなくその世界に引き込まれ、グルベローバが歌うコロラトゥーラ超絶技巧の音程と澄み切った歌声には、全身鳥肌が立つほどの感動をして涙がにじむほどでした。
これ以後、オペラの虜になったバス太郎は、日本からオペラの対訳本を送ってもらい、立ち見席を取る列に並び待つ1時間少しの間にオペラの歌詞を読み覚えて、舞台真っ正面のロイヤルボックス席の下の立ち見席の争奪戦に毎日挑む様になったのです。この立ち見席はたった200円ほどで買えます。また、当時のオフシーズンでは空席が若干あり、売れ残った席を、学生書を見せれば例えロイヤルボックスでも500円で座らせてくれるのです。ただし汚い格好では、殆ど舞台が見えない4・5階の奥の席に回されるので、毎晩背広にネクタイの正装で当日券売り場に出向いたのです。それでも、高価な席に座れるのは希で、完売の日は5階のギャラリー立ち見席で見ることの方が多かったのです。ワーグナーの長編オペラなら5時間立ちっぱなしです。それでも、バス太郎は、総合芸術のオペラにはまり、麻薬患者のように、朝アパートで練習、昼から大学でレッスン、夜はオペラ劇場かコンサートホールに通う毎日を過ごしました。
そして、隣り合わせた聴衆と感動を共にした為に、始めての人でも、お国が違っても、会釈から会話も弾み、毎晩の出会いも重なり半端な人数ではありませんでした。まるで街中の音楽ファンの人々が友達になったような錯覚さえ覚える程でした。そしてオペラが終わると出会った人たちとのグループが出来上がり、誘い誘われあちこちの居酒屋でワインを片手に今日の配役の歌い手から演出、指揮者の音楽性からウィーンフィルの演奏評価、世間話から恋の話まで、様々な人と、日本語、ドイツ語、英語、それぞれの母国語まじりに、この時期よりバス太郎は華やかな社交界にデビューし、大きく夢の世界が広がっていくのでした。そして、中学の頃音楽全集の写真を見ながら聴いていたレコードから憧れていた世界最高峰の本場で芸術鑑賞ができ音楽談話で本物志向の幅広い豊かなセンスに益々磨きがかかり、練習をサボった時間以上に大きな音楽的影響を受けたのだと、この時のバス太郎は気も付かず、ただオペラと人々との出会いに心は感動でいっぱいだったのですが、毎晩200円の学生立ち見チケット代でも、夜の外食に経費がかさばり、朝ぬき昼はパン一個の粗食で暮らす身体はガリガリに痩せてしまいました。
「師匠のリサイタル」No.24
1977年12月9日の感動は一生忘れられない一日となりました。ウィーン楽友協会大ホールはウィーンフィルの本拠地として音楽の歴史を塗り替えてきた世界最高のコンサートホールです。そのホールにブラームスザールと言う、これまたソロ室内楽では歴史的名演を繰り広げてきた殿堂があります。このホールの定期演奏会にウィーンフィルを辞めてから独奏者としてエネルギッシュに活動を始めた師匠が登場したのです。
曲目はすべてイタリアでコントラバスソリストとして、またベルディーの歌劇「アイーダ」の初演指揮者としても活躍したG.ボッテシーニの独奏曲ばかりのプログラムです。
永らく埋もれていたこれらの楽譜を集めてボッテシーニ作品が20世紀末に再び脚光を浴びるようになったのは、この師匠のリサイタルからだったのです。(翌年レコーディングされたレコードが発売され、世界中で、この日のコントラバスと言う楽器の不利さを軽く超越し、音楽として鳥肌の感動を与えたリサイタルの驚きと幸福が実感されるセンセーショナルを楽界に巻き起こしました。)
前半のプログラムは
Concerto No.1 h-moll
Melodie
Allegretto Capriccio
Capriccio di Bravura
休憩後の後半は
Concerto No.2 fis-moll
Elegie
Introduktion und Gavotte
Tarantella
以上の予定プログラムの歴史的演奏が終わりましたが、鳴りやまぬ拍手に答え、アンコール3曲も精根尽きることなく名演奏が続けられました。そして誰一人会場を後にすることなくカーテンコールがいつまでも続いたのでした。この歴史的瞬間に出会えた喜びと運命に感謝尽きることなく感無量のバス太郎の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていたのです。
レベルが向上した現在の水準でも、コントラバスを弾いてる方なら想像を絶する難曲が並べられたプログラムだと容易にお解り頂けるでしょう。
しかし、この日のリサイタルは、師匠の演奏会だから行く喜びと、特別だから行かなければならないと言う少し義理のような気持ちで足を運んだのですが、師匠とか、コントラバスとか、あらゆる色眼鏡で見ていた事を恥、プログラム一曲目の途中からは、前回の「ナクソス島のアリアドネ」で鳥肌が立ったのと同じか、それ以上に、ただ純粋な音楽芸術として、その卓越した技術や、難曲を弾きこなす神の手に驚く事を忘れさせられる、音楽的中味の濃い、これまで聴いた演奏の中で、最高の音楽に感動の涙したのです。まさに「音楽の神様ミューズ神の化身となって師匠が演奏してる!」とバス太郎は始めて神憑りな空中に浮遊してる魂を見た想いでした。
また、絶妙のタイミングと美しい音色、神経を集中させなければ聞こえないppから、雄大な大自然のスケールで押し寄せるffで伴奏するピアニストにも感動しました。師匠の崇高で柔軟な音楽に追従し、サポートし、先を読み、フォローする能力も天下一品の伴奏なのです。ただ者でないと思いきや、アメリカ人ですがウィーンに帰化し、リート歌手の世界では、かのペーター・シュライヤーも、フィッシャー・デスカウも、ヘルマン・プライも歌曲のリサイタルでは彼を指名する程のリート伴奏の大家だったのです。
この師匠の歴史的演奏会の感動と共に、伴奏者ノーマン・シェトラーの名前もバス太郎の記憶に残りました。その神様の伴奏者と再びご縁で日本帰国12年後に出会い、まさか自分の日本でのリサイタルの伴奏をしてもらい、そのご縁で2回も外人として始めてウィーンでバス太郎がコントラバスのリサイタルを開かせてもらった折りに伴奏して下さったり、旧東ドイツの夏期大学客員教授に招いてもらったり、シューベルトイヤーに旧東ドイツ各地へピアノ五重奏「ます」公演のドイツ・トリオの共演コントラバスに推薦してもらったり、兎に角、こんなに親しくして頂けるとは夢にも思わない、ただただ雲の上の人としか見る事の出来ないバス太郎生涯感動の演奏会の一日でした。
生涯いつまでも忘れない感動こそが、その感動の強さが、近い将来の夢につながったんだなと、初老になったバス太郎は回想しながら感謝するのでした。
「始めての年末年始」No.25
22年間、日本の厳粛な正月を過ごしてきたバス太郎。特に実家が寺院であった為に、大掃除に暮れる年末、侘びしく響く除夜の鐘、新年早朝の荘厳な修正会での儀式、年始の挨拶の答礼など、日本伝統の極致ともいえる年末年始から、ウィーンで始めて異次元の年末年始を過ごしました。
なんでも、可能な限りの最高を経験に巡り会うバス太郎は、ウィーンのジルベスター(X"Mas)とニューイヤーを過ごしました。クリスマスイブは青少年の為に国立劇場は子供の社交界デビューとなる「ヘンデルとグレーテル」がウィーン・フィル達超一流が子供達のためにいつもと変わらぬ名演奏で上演され、タキシード姿の少年は紳士のマナーで大人顔負けに少女のプリンセスレディーをエスコートして国立劇場はまるで小人の王国の様になります。勿論この国立劇場は特別な王侯貴族の末裔だけの話で、一般的なクリスマスは日本の様に馬鹿騒ぎではなく、市民の98パーセントが敬虔なクリスチャンのウィーンでのクリスマスは教会や一般家庭で厳粛に静かに祈るのです。
むしろ日本と違って華やかなのは年末年始でした。もっとも贅沢な過ごし方は、暮れにコンチェルトハウス大ホールでウィーン交響楽団の第九を聴き、ケルントナー大通りをシュテファンス寺院広場まで歩き行き交う人々と爆竹の鳴る中、新年になった瞬間大歓声と隣り合わせの人々と抱擁し新年を共に迎えたことを喜び合うのです。そして新年の朝11時にはムジークフェライン大ホールでウィーンフィル恒例のノイエス・ヤール・コンチェルトを聴き、その元日の夜、国立オペラ劇場で恒例の喜歌劇「こうもり」を鑑賞する究極の贅沢な巡回鑑賞です。バス太郎が過ごした日本の正月とのあまりのギャップにも抵抗無く、海外で始めての年末年始を謳歌したのです。
ウィーン交響楽団の第九は、日本で何十回もバス太郎はメジャーオケに客演してきていたので、日本のオケとの大差は感じられるず「まあまあかな〜〜!」と言う贅沢なご意見を申すほど、世界の名演奏家が連日競うように演奏会が開かれるウィーンでの演奏水準に麻痺してしまっていました。しかし、やはりウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは別格です。そして、この演奏会でバス太郎は貴重な体験をするのです。
ウィーン・フィル黄金時代のコンサートマスターだったウィリー・ボスコフスキーが退団後、まるで市立公園にあるヨハン・シュトラウス像と同じように、ヴァイオリンを片手に弾きながら指揮をするランナーやシュトラウス楽団当時のビーダマイヤー時代を彷彿させる優雅なスタイルで長年続いた外来の指揮者を置かないニューイヤーコンサート最終回だったのです。
上品で、優雅で、甘みなサウンドと、華やかな雰囲気に幸福感一杯になりました。これぞウィーンと言える醍醐味の中にバス太郎は居合わせた感動をかみ締め、夜の「こうもり」に出かけました。普段の国立劇場では喜歌劇は上演されませんが、年末年始の2回だけ特別に上演され、監獄守衛のフロッシュ役はフォルクスオーパー(民衆歌劇場)から呼ばれます。フロッシュはその年の世情をジョークを交えぼやくのです。劇場は大爆笑に包まれるのですが、留学半年のバス太郎は半分しか笑えませんでした。寂しく悔しい想いをしたバス太郎は「よし!来年のコウモリまでには冗談も理解できる語学をマスターして皆と一緒に全部笑えるようになるぞー!」と、変な新年の誓いをたてるのでした。
「始めてのイタリア旅行」No.26
前期の授業もあっというまに終わり、イースター(復活祭)休みを利用してヴュルツブルグに留学していた親友のファゴット君がウィーンに遊びに来ました。高校・大学とバス太郎の下宿に入りびたりだった彼が欧州に来ても同じ様にアパートに入りびたって、バス太郎のウィーンで知り合った友人とも交友を広め、そのグループでヴェニスに行こうと急に思い立って出かけたのです。当然、人出の多い日本で言うゴールデンウィークの様なものですから国際列車もどうにかグループでコンパートメント一室がとれましたが、ホテルの予約もなく出発しました。車窓を流れる風景は絵葉書を何枚も見てるような美しい景色です。国境を越えてイタリア北部に入ると、空気や空の色が、毎日灰色の空だった冬のウィーンの空と違い、真っ青な、懐かしい日本の空と似ています。そして、遠くアドリア湾の海が見えてくると海の青と空の青が水平線の彼方で一つになるのです。いよいよベニス到着です。この鉄道で多くのオーストリアやドイツ、ロシアの作曲家がイタリアへ旅をして、その感動を作品に残しました。チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」などに見られるリズムは電車のゴトンゴトンと言うこの音だったんですね。ベニス駅に到着直後にインフォメーションでホテルを探しましたが、全てのホテルもペンションも満席で絶望的です。しかし、交渉の時間が勿体ないので取り合えずキャンセル待ちを申し込んで市内観光へ向かいました。いくつもの運河を渡る石橋を抜けると有名なサンマルコ寺院前の広場にたどり着きました。あのマルコポーロを始め欧州と新大陸や東洋を結ぶ欧州海運貿易最大の港町の威厳は現在にも放っています。音楽文化の中心でもあったベニスにはドラゴネッティーが使用していた楽器も博物館に残っています。ゴンドラがタクシー、バスは船、このバス停を「フェルマータ」と言い、ゴンドラのタクシーを急がすときは「プレスト!」、当然ながら音楽用語は全てイタリア語で、昔、小学校4年生時代の変な塾で殆ど覚えていましたから次々に単語が出てきて試してみました。それにプレーゴ(プリーズ)とグラッチェ(サンキュー)そしてウーノ・ヅドゥーエ・トレ・クワトロと数字を加えた片言でイタリア語会話が出来ました。兎に角、明るい陽気な雰囲気はアルプスを越えた北の欧州の暗い雲空で越した冬とは大違いでしたし、暫く見ていなかった海にも感動でしたが、何よりも魚介類が新鮮で豊富なイタリア料理には涙が出るほど感激しました。ふんだんに使ったムール貝をオリーブオイルに浸るほどのパスタがスープ代わり、メインのステーキも美味しかったのですが、イカのリンク揚げは、母が作ってくれた天ぷらと同じ味だったのです。中学卒業してから一人暮らしだったバス太郎は「おかあさーん!」とイカの輪揚げを食べながら叫んでしまいました。そして市内観光の途中で見つけたひなびたペンションに空き部屋を見つけ熟睡後、翌日も一日ベニス観光をして、出発時間が定刻より一時間も遅れる恒例のイタリア時間の夜行列車でウィーンに戻ってきた、始めての休暇の強行軍、青空イタリア紀行の旅行を楽しんだのでした。
「ある日、突然」No.27
後期の授業が始まって間もなく、右手をヴァイオリンの様に指を使って刻んだり発音したりする奏法がなかなか出来ないまま、半年が経とうとしてました。今まで腕力で弾いてたバス太郎にとっては、なかなか手首の力を抜くことや、押さえつけることなく100パーセント腕の重みや上半身の重みを弓に自然に乗せる事が出来ません。
ある日、出来ないことが悔しくて朝から一日中練習してると、いつの間にか気が付くと真夜中になってしまい「こりゃまずい!今日は食べることも忘れて熱中してしまった!こんなに遅いと近所迷惑になるなー!よし!なんだか今日はコツがつかめそうだから、おもいっきppでスピッカートを弓先でやってみよう!」
夢中で熱中してると東の空が明るくなってきたその時です「あああ!これだ!これ、コレ・これだ!」一瞬イメージしてた音が出たのです。しかし、もう一度やると、上手くいきません!
「さっき出たのに!くそ!くそ!でも、どうして出来たんだ?」と、腕の重みや弓先にかかったテンションや力が抜けていたのに弓先でも発音の引っかかりが生じたことなど、分析をしながら、何度も繰り返すと、出来る確立が高まり、三日後にはコツをマスター出来る様になったのです。もう嬉しくて、今度は次々に今まで弾いたことのあるエチュードや曲でも試してみました。「わおー、ニュアンスの幅が10倍広がった。ちょっとレッスンで弾いてくれる先生の音に近づいたぞ!うん。これだこれ!」
レッスンを受け始めて苦節半年。使ったこともないテクニックや合理的で効果的な奏法、自然な楽器の響きをppからffまで自在にコントロールする表現力豊かな理想の先生の音を自分のモノにするコツが解った喜びは何者にも代え難い、ウィーンに苦労してやってきた本道に一歩足を踏み入れることが出来たある日突然の出来事でした。
そして、この体得が本物であったと確信したのは、後期から初心者クラス修了して、いきなり卒業クラスにレッスンに来るようにと先生に言われた事で確信できたのでした。
教信寺貫主:長谷川慶悟=音楽家:長谷川悟