Gioacchino Rossini

歌劇「セビリアの理髪師」序曲

THE BARBER OF SEVILLE OVERTURE

Arr.by Satori HASEGAWA

 ロッシーニの代表作とも言える、この序曲を長谷川悟が今日の日の皆様の為にピアノを加えた弦楽四重奏用に、ちょっぴりお茶目な悪戯を2カ所挿入して楽しく編曲しました。今年はモーツアルト・イヤーなのに、何故か総てロッシーニの珍しい器楽室内楽曲のプログラムです。では、ここで無理矢理、神童モーツアルトと天才ロッシーニの興味深い一説を以下に紹介致しましょう。

 たとえば、モーツァルトが『フィガロの結婚』で、ボーマルシェの原作にない、真の情熱や愛をもりこんだのに対して、ロッシーニの『セビリアの理髪師』は、原作そのものの色事と、皮肉と、機知で人を愉しませる音楽の傑作であることを認める。

 ロッシーニ特有のクレッシエンドや32分音符の快速で溌刺とした楽風は、モーツァルトがそれほどの軽快さも滑稽味も持ち合わせないのと対照的であると考えた。これにはかなり異論もあろう。ロッシーニの強いる笑いに比べて、モーツァルトの笑いはずっと自然だからである。ロッシーニの親友で良き理解者であったスタルダールは次のように述べる。

 〈モーツァルトが陽気になったのは、生涯にたった二度しかないと私は思う。それは『ドン・ジョヴァンニ』において、レポレロが騎士長の像を夜食へ招待する時、および、『コシ・ファン・トゥッテ』においてである。つまりモーツァルトが陽気になったのは、ロッシーニが憂愁を帯びたのとちょうど同じくらいの度合いである。〉したがって、ロッシーニの溌刺としたテンポと短音符に飽満すれば、人は『コシ・ファン・トゥッテ』の作曲者の長音符と緩やかなテンポに喜んで立ち帰るだろうという考えである。要するに、スタンダールにとってロッシーニを表とすればモーツァルトが影で、二人が表裏一体をなす存在に見えたようである。とすれば、ロッシーニこそ、モーツァルトのかなしさを浮彫りにした恩人といえるかもしれない。

 スタルダールは、ロッシーニのオペラをかなり初期の作品から認めている。1812年に書かれた彼の第三作『しあわせな間違い』を、スタルダールはラファエロの絵にたとえて、〈青年期の作品にありがちな欠点や、ぎこちなさはいろいろとありはするが、天才の明らかな閃きはこの作品全体に溢れている〉と評している。

 これは初期の〈弦楽ソナタ〉などにも明確に表れていることだが、〈ロッシーニは音楽を学んで覚えた人ではなく、自然に会得した人であって、したがって思い切った大胆な手法で音楽をわがものとしている〉という指摘は正しいだろう。

 スタルダールは先に述べたとおり、ロッシーニの人物そのものにそれほど好感をもたなかったのにも拘わらず、作品に対して、というか自分の感動に対して実に誠実だった。その一例として『エジプトのモーゼ』をあげておこう。この主役を演じたのはロッシーニ夫人のイザベッラだったし、内容は聖書の物語ではあったし、そのいずれもが嫌いなスタルダールは、大いに嘲笑してやろうと出かけて行ったが、その祈りの歌に〈脳神経の興奮の発作というか、痙攣の発作〉をひき起すほど感動したことを隠していない。まさに彼が『ロッシーニ伝』の扉に引用したソクラテスの言葉のように、自分の感性を自由に解き放ってその行方を見つめようとしているのである。

 結局スタルダールがロッシーニのオペラを認めるのは、1812年から16年にかけての作品、すなわち『アルジェリアのイタリア人』『試金石』『イタリアのトルコ人』『セビリアの理髪師』と『オテロ』であるが、それらがスタンダールの予言どおり、当時評判の亜流作曲家たちを一掃して、やがてヴェルディの登場を誘い出すのである。

 

歌劇『セヴィリアの理髪師』より "今の歌声は"

『IL BARBIERE DI SIVIGLIA 』より "Una voce poco fa"

第1幕。

自分に愛の歌を歌いかけてきた青年リンドロ(実は伯爵)に恋心を覚え たセヴィリアの下町娘ロジーナが、ラブレターを書きながら歌うカヴァ ティーナ。

「ついさっきの歌声は、この胸をしびれさせてしまったわ。私の心はもう傷ついたようだけれど、それも、リンドロ様のせいよ。そうよ、リンドロ様を私のものに、誓って成功してみせるわ。後見人は邪魔をするでしょうけど、私は知恵をしぼって、最後はきっと勝利の満足を得るでしょう。そうよ、リンドロ様を私のものに、誓って成功してみせるわ。それまでわたしは従順に、しとやかな態度で、素直に、親切に、愛をこめて、なりゆきにまかせつつ自分自身を導きましょう。けれど、彼らが私の弱みをついてきたときには、私は毒蛇になって、あらゆる策を用い、屈服するまで、すべてを、やりとげてみせるわ。」

 

踊り (ナポリのタラテッラ)

LA DANZA (Tarantella Napoletana)

「すでに月は海の真上 さあさ始めよう 時はまさに踊りごろ、恋してる者はみんな来よう。早く、ステップを踏んで、円くなって 娘さんたち、ここへお入り。陽気で男前の若者が、どの娘さんにもあたる。空に星がきらめき月が輝くあいだ 一番の美男は一番の別嬪と夜を徹して踊るがいい。フリンケ、フリンケ、さあさ、踊ろう、ラララララララ〜!跳んで、跳んだ回って、回って、みんな二人ずつ組んで輪を描き前に進んだら、後に退り、それから素早くもとへ戻る。金髪の娘としっかり抱き合い 黒髪の娘とあちこち動き 赤毛の娘と流れにのり 銀髪の娘で踊りが止まる。 万歳、踊りよ、踊りの輪よ、私は王様、私はサルタン、踊りはこの世一番の喜びだ、この世一番の楽しみだ。 この世一番の楽しみだ。さあさ、さあさ・・」

 

チェロとコントラバスのためのデュオ ニ長調

DUO FOR VIOLONCELLO AND DOUBLE-BASS In G Major

 1824年に作曲されたジャッキーノ・ロッシーニの〈チェロとコントラバスのためのデュオ ニ長調〉は未出版の作品で、それはロンドンの有名な直筆の楽譜のコレクター、「サロモン・コレクション」にねむっていた。このオリジナルの楽譜に光が当たって実際の楽譜として生きた活動を始めたのは1969年であり、楽譜が発見されるや否やイギリスでそれは出版された。ディヴィット・サロモン卿(1797-1873)は銀行家でアマチュアのチェリストであった。彼のひとつの願いは、歴史的に有名なあのコントラバスの名手、ドミニコ・ドラゴネッティ(1763-1846)とデュオで共演する事であった。この目的のためにロッシーニはこのピースを作曲した訳だが、この曲は「ロンドン・ミュージカル・ソサエティ」の会合で唯一回、世界初演がなされただけで終わってしまった。このデュオの演奏スタイルはその当時、コントラバスがいかに奏法の上で発展して高度なものになっていたかを証明している。イタリア式のアチェレランドスタイルは最初ドラゴネッティによって示されたものだが、ロッシーニはこのスタイルを最大限に拡大して用いている。がこのテクニックは新しいコントラバスの弓の考案によって可能になった。その弓というのは以前のものより短かく、強力で、それによって大いに打弦に対してもしっかりと音が出るようになった。ベートーヴェンはこのドラゴネッティの工夫につよく魅きつけられて、第5番の「運命」シンフォニーのスケルツォではそれまでの演奏不可能と考えられていたようなコントラバスのパートを書いている。

弦楽のためのソナタ 第1番、2番、3番

SONATE A QUATTRO for two violins, cello and double-bass

 ジョアッキーノ・ロッシーニ(1792〜1868)は名作“セビリヤの理髪師”によって、音楽史上に不朽の名を残す“オペラ・ブッファ”の作曲家である。いきいきした人物描写と流麗な旋律にあふれた彼の舞台作品は今なお多くの人に愛されているが、オペラ以外の分野における彼の業績は一、二の宗教的作品を除けばほとんど演奏されることがない。なかでもロッシーニのもっとも知られざる一面は器楽作曲家としてのそれであろう。たしかに彼の作品表をみると、器楽作品はおおむね若い頃の習作ともいうべきものであり、彼がオペラ作曲家として名声を高めてからはほとんどみるべき作品がない。これはきわめて興味深い事実といわなければならないが、彼がオペラの序曲や伴奏などに効果的な管弦楽の扱いを示していることから考えても、決して器楽曲を書く才能がなかったとは思われない。むしろオペラの作曲に多忙をきわめたために、本格的な器楽曲を書く余裕がなかったのではないだろうか。そういう理由の詮索はともかく、この4声のソナタは若き日の作品でありながら、器楽の分野におけるロッシーニの卓越した才能を示す傑作した作品である。

 ロッシーニはイタリアのアドリア海に面する海辺の町ペザロに生まれた。父親は町のトランペットとホルン奏者、母親は美しい容姿と生まれながらの美声に恵まれたオペラ歌手であった。ロッシーニが幼少の頃は丁度フランス革命後の政情不安な時代で、教皇領であったペザロの町にも容赦なく政変の波が押し寄せた。ロッシーニの父親は、1796年にフランス軍がペザロに進駐した時、新しい勢力に組したため、教皇庁政府が復活したのち職を奪われ、一時投獄の浮き目にもあった。しかし両親の母は歌手として、父はオーケストラのホルン奏者として地方を巡業する歌劇団に加わり、各地を旅行してまわった。そのためロッシーニは両親の留守中、ペザロの母方の祖母と叔母にあずけられて成長したが、やがて1804年に一家がボローニャに移り住んでから、アントニオ・テゼイのもとで本格的に作曲を学ぶようになった。そしてボローニャの協会の歌手、劇場のヴァイオリニスト、チェンバロ奏者として活躍するようになり、さらに、1806年にはボローニャ音楽院のチェロ科に入学し、テゼイの師でもあるスタニズラオ・マッテイからピアノと対位法の指導をうけた。またハイドンの弦楽四重奏曲を熱心に研究し、シンフォニアなどいくつかの習作的な器楽曲を書いたものも音楽学校時代であった。

 さて6曲の弦楽のための4声のソナタはロッシーニが音楽学校に入るよりも前の1804年の作品とされるものである。ロッシーニが修業時代にこの6曲のソナタを作曲したという事実は以前から知られていた。しかしその楽譜の行方が確認出来なかったため、これらの作品は紛失したものと考えられていたが、第二次世界大戦後イタリアの作曲家アルフレッド・カゼラによって、ワシントンの国会図書館から楽譜が発見されたのである。そしてこれらの作品が、これまでロッシーニの作品として知られていた5曲の弦楽四重奏曲(第3番を除く)およびフルート、クラリネット、ホルン、ファゴットのための6曲の管楽四重奏曲のオリジナルであり、弦楽四重奏や管楽四重奏への編曲はロッシーニ以外の第3者の手で行われたことが判明した。

 この草稿にはロッシーニの未亡人オランプの筆で1872年にマッツォーニという人に友情の印として贈られたと記されており、さらに作曲よりずっとあとになってからロッシーニ自身が書き込んだただし書きがあって、第1、第2ヴァイオリン、チェロ、コントラバスのためのこの6曲の“ひどい”ソナタは伴奏のレッスンさえうけていない幼い頃に、ラヴェンナの近くの田舎で、富裕な友人アゴスティノ・トリオッシのもとに滞在中に作曲されたこと、6曲はわずか3日の間に作曲され、アマチュアのコントラバス奏者だったトリオッシのほかに彼の二人の従兄弟が第1ヴァイオリンとチェロを、ロッシーニ自身が第2ヴァイオリンをうけもって、まるで“犬が吠えるように”演奏されたことが記されている。

 二つのヴァイオリンとチェロ、コントラバスといういささか風変わりな編成はトリオッシがアマチュアながらすぐれたコントラバス奏者だったことによるものであるが、ロッシーニ自身がヴィオラを得意としていたのにヴィオラのパートを欠いているのは不思議といわなければならない。しかしこれは高音と低音の対比を狙った楽器編成と考えると充分理解される。ヴァイオリンの二つのパートは全体的に技巧的に書かれており、一方チェロとコントラバスは同じ楽譜を重複して演奏する当時の慣習を破って、独立の声部を与えられている。これは低音を確保すると同時に、チェロが高音域で自由に活躍できる余地を与えるもので、各楽器の演奏効果を追求したその書法はとても12歳の少年の作とは思われないほどすぐれている。

 楽曲の構成はいずれも急〜暖〜急の3楽章形式で、

第1番はモデラート、アンダンティーノ、アレグロ、

第2番はアレグロ、アンダンティーノ、アレグロ、

第3番はアレグロ、アンダンテ、モデラートから成る。

 

<<出演者楽歴>>

稲庭 達(いなにわ とおる)<第1ヴァイオリン>

東京芸大付属高校から同大学卒業。在学中に発足した東京シティー・フィルのコンサートマスターに就任。その後、新星交響楽団、名古屋フィルハーモニー、大阪フィルハーモニー、大阪センチュリー交響楽団のコンサートマスターを歴任。また、日本全国のオーケストラのコンマスに客演する傍ら、ソロ・室内楽でも活躍。兵庫県立西宮高校、神戸女学院を経て、現在、くらしき大学音楽学部の教授に就任し後進の指導にあたる。エキサイティングな演奏は聴く者全てを魅了してやまない日本を代表する奏者である。

林 泉 (はやし いずみ)<第2ヴァイオリン>

大阪音楽大学卒業後、ウィーン国立音楽大学留学。テレマン室内管弦楽団コンサートマスター、大阪カレッジ・オペラハウス管弦楽団コンサートマスタを歴任。現在まで林泉弦楽四重奏団を継続して弦楽四重奏曲の連続演奏会などで芸術賞を受賞するなど、関西を代表する奏者。

秋津智承(あきつ ちしょう)<チェロ>

桐朋学園を卒業後ニューイングランド音楽院に留学。帰国後はサイトウ記念オケ、水戸室内、倉敷音楽祭オケなどの主要メンバーとして活躍。毎日音楽コンクール受賞を始め、チャイコフスキー国際コンクールでは7位入賞。現在、大阪フィルハーモニー管弦楽団客演首席奏者として関西でもなじみのチェリストとなり、多くのファンが関西にも増えた本格派チェリスト。

長谷川悟(はせがわ さとり)<コントラバス>

国立音楽大学からウィーン国立音楽大学へ進学。在学中より日本全国はもとより海外の楽団にも客演して活躍。帰国後も海外で度々ソロ・室内楽公演や講習会客員教授で渡欧し、国内ではオケ客演・指揮・作曲・編曲・翻訳出版・執筆なんでもこなすマルチ楽士として重宝されたが現在は住職として多忙を極め、当地より半径300Km以内で芸術シーズンのみ公演活動中。

鷲見佳子(すみ よしこ)<ソプラノ>

大阪音楽大学音楽学部声楽科卒業。同大学専攻修了。第52回全日本学生音楽コンクールに始まり数々のコンクールに入賞。現在、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団団員を務めながらソロやアンサンブル、ジョイント・リサイタルに出演して関西を中心に活躍中。

丸山聡美(まるやま さとみ)<ピアノ>

大阪教育大学大学院修士課程修了。独デトモルト音楽大学卒業、ソロ・室内楽や、声楽・器楽の伴奏等て関西を中心に活躍中。姫路第九合唱団伴奏者。日ノ本学園講師。

もどる