海老名弾正と熊本バンド

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 16世紀マルチン・ルタ−による宗教改革に対しカトリック側にも失地回復の動きがあった。
1543年8月15日、イグナチウス・ロヨラを中心とする7人の同志はモンマルトルの丘にのぼり、聖ディオニシウス聖堂の地下室に集まり、貧・貞をもってイエスに仕えることを誓った。 これが事実上、イエズス会発足の時となった。
このイエズス会より派遣され日本にやってきたのがフランシスコ・ザビエルであった。
日本では明治になってキリスト教解禁になるや、パリのモンマルトルの丘での出来事と非常によく似た「誓い」が行われている。熊本市内・花岡山で行われた熊本バンド結成の誓いである。

そこでトレビアをひとつ〜〜「同志社大学の第一回卒業生は全員熊本バンドのメンバ−である」

当時の同志社英学校の1879年第一期卒業生15名は全員、熊本バンドというキリスト教プロテスタントに属する信者であったという事実がある。
まずこの事実に驚き調べてみると、熊本バンドは、札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治以降に伝えられたプロテスタント教派の3つの源流の1つである。
JR熊本駅の北側に熊本バンドにとって記念すべき花岡山がある。花岡山は、山と言っても標高45m程度の丘であるが、ここから見る熊本市の夜景がとても美しく市民に愛されている。
1871年に熊本藩立の熊本洋学校が設立され、この学校に招かれたアメリカ人教師L.L.ジェーンズの信仰と情熱が学生達を動かし、多数の入信者を産んだ。L.L.ジェーンズは平信徒であったので、長崎在住の宣教師と相談の上、洗礼の礼典を行った。
ジェーンズの教育方針は、道義的国家の確立のために、神の信仰に生きる自主的な個人を形成することにあった。こうした教育観が、士族の子として生まれながら、藩制解体で忠誠の対象を失った青年達に、新しい目標を与えたのである。
1876年、洋学校の生徒35名は熊本城外の花岡山で集会をして、「奉教趣意書」に誓約した。こうした誓約によって結ばれた人々をバンドと称した。
私は、この趣意書を読むと「遂にこの教を皇国に布き、大に人民の蒙昧を開かんと欲す。」とあるように、個人的な信仰の誓いというよりもむしろ、キリスト教を国家との関係から意識した趣があるものであった。
 さて、同志社は1875年群馬出身の新島襄によって設立されている。新島は1864年、22歳の時密航による日本脱出をはかり函館から停泊中の「ベルリン号」にもぐりこんだ。
上海でアメリカ船に船長付ボ−イとして乗り込みアメリカに渡った。
アメリカでは何も頼ることもなかったのだが、彼の意思が天に通じたのか船長が新島をハ−ディ夫妻に紹介し、その向学心に感心した夫妻により留学費一切の面倒をみてもらうことになりア−モスト・カレッジで学んだ。
神学校で初代文部大臣・森有礼と出会い密航の罪を許してもらい改めて政府留学生として許可された。
さらに新島は岩倉倉使節団の団員として1年余アメリカ、ヨーロッパ8カ国の教育制度の調査や視察をおこなった。岩倉使節に随行していた木戸孝允とも出会い意気投合している。
1874年アンド−バ−神学校を抜群の成績で卒業し、日本にキリスト教の学校設立を胸に抱き帰国した。
開校の翌年、熊本洋学校の卒業生や元在校生約40人が同校教員のジェーンズの紹介で、大挙して同志社に入学してきたのである。新島を含めて教員はすべて宣教師であった。
徒手空拳でアメリカに渡った新島は、かくも 多くの知己にめぐり合い同志社を京都に設立するのである。
 同志社は最初の卒業生の15人の中から3人が同志社の男子校の教員に、2人が女学校の教員になり新島校長を除いて初めての日本人教員となってる。
 ところで熊本バンド結成の画期となった世に言う「花岡山の誓い」ではあるが、「花岡山の誓い」は果たして守られたのか否か(ちなみに聖書には「誓うな」とある)、彼ら卒業生のその後が気になるところだ。

熊本バンドから同志社の主なメンバーに金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰らがいる。
こうした同志社大学に教員として残らなかった熊本バンドのメンバ−は、日本各地の伝道の開拓に従事し、東京に霊南坂教会や本郷教会、番町教会、岡山に岡山教会、愛媛に今治教会、などを次々と創立した。
そして彼らは、新島とともに同志社系のキリスト教アメリカの「会衆派教会」の流れを汲むリーダーとして幅広い活躍をした、といってよい。
この熊本洋学校から同志社の系譜は、私が住む福岡とも色々と交叉している。
福岡の天神に近い警固教会もこうして 熊本洋学校の二期生で同志社英学校を卒業した不破唯次郎により1885年に設立されている。この教会こそ福岡で最初のプロテスタント教会である。
   1877年西南戦争に呼応して福岡の藩士も明治政府に対して反乱をおこし福岡の変の首謀者らは捕らえられ、兵庫の監獄に送られた。この兵庫の監獄に同志社大学のキリシタン信徒が訪れ布教している。この同志社大学の学生こそ熊本バンド出身の学生だった。
こうして兵庫監獄をでた福岡出身のキリスト信徒が、福岡の橋口町(西中島橋あたり)にあった教会のメンバ−となっている。
さらに、この熊本バンド〜同志社卒業生の代表格の一人海老名弾正は、熊本出身ではなく福岡の柳川出身である。柳川の川くだりの舟にゆられていると船頭さんに海老名弾正生誕地の石碑を教えられる。
海老名弾正は、同志社卒業後は群馬県安中教会牧師となり、以後、前橋教会、本郷教会、熊本英学校、熊本女学校、日本基督教伝道会社、神戸教会を経て、ふたたび本郷教会牧師(現在の日本キリスト教団・弓町本郷教会)となり、その後第8代同志社総長をつとめた。
海老名弾正がはじめて牧師となった群馬県安中は、新島襄の出身地であり、しかも晩年に同志社総長を務めた点でいえば、海老名は新島の後継者的な役割をつとめている。
日露戦争前後から本郷(弓町本郷)教会を牧会していた海老名弾正の名声を慕って本郷教会の門を叩く青年は数多く吉野作造はじめ、小山東助、荻野吟子、石川三四郎、千葉豊治、栗原玉葉、「主婦之友」社を創業した石川武見など多彩である。
ただ横浜バンドに属した植村正久との間に展開された「福音主義論争」のなかで海老名は神道的キリスト教を唱え対外戦争を擁護するなど国家主義的傾向を露にしている。
こうした海老名の思想の特徴は「キリスト教の日本化」であり、日本キリスト教の戦争協力の事例をはしなくも示すのであるが、それも花岡山の誓いつまり「奉教趣意書」にある国家主義的要素に胚胎したものであったといえようか。